第1章:戦争の影で
私は1933年2月18日、東京で生まれた。名前はオノ・ヨーコ。裕福な銀行家の家庭に生まれ、幼少期は贅沢な暮らしをしていた。父の勤める安田銀行(現在のみずほ銀行)の役員寮で、私は西洋風の生活を送っていた。ピアノの音が響く大きな部屋、庭には美しい花々が咲き乱れ、私はまるで童話の中の王女様のような日々を過ごしていた。
でも、その平和な日々は長くは続かなかった。私が9歳の時、太平洋戦争が始まったんだ。
ある夜、突然の空襲警報が鳴り響いた。母が私の手を強く握り、「急いで、ヨーコ!」と叫びながら、私たちは防空壕に駆け込んだ。暗い壕の中で、爆撃の轟音が耳をつんざく。私は震えが止まらなかった。
「お母さん、怖いよ」と私は泣きそうになりながら言った。
母は私を強く抱きしめ、「大丈夫よ、ヨーコ。私たちは必ず生き延びる」と囁いた。その時、私は祈った。「お願い、みんなが無事でありますように」
戦争が激しくなるにつれ、私たち家族は東京を離れ、山形県に疎開することになった。豪華な暮らしとはお別れだ。山形での生活は厳しかった。食べ物は乏しく、毎日が生きるための戦いだった。
ある日、私は空腹に耐えかねて、近所の畑からサツマイモを盗んでしまった。家に帰ると、母が悲しそうな顔で私を見つめていた。
「ヨーコ、人の物を盗むのはいけないことよ」
母の言葉に、私は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。でも、母は続けた。
「でも、あなたが生きるために必死だったのはわかるわ。これからは一緒に畑仕事を手伝って、正直に食べ物を得ましょう」
この経験から、私は大切なことを学んだ。物質的なものは一瞬で失われるけど、誠実さと創造性は誰にも奪えないってことを。
疎開先で、私は想像力を育んだ。食べ物がなくても、想像の中では豪華な食事を楽しむことができた。紙と鉛筆があれば、どんな世界でも描くことができた。これが後の私の芸術活動の原点になったんだ。
戦後、家族と再会した時の喜びは言葉では表せない。でも、日本は変わってしまっていた。街には焼け野原が広がり、人々の顔には疲労と絶望が刻まれていた。アメリカ軍が街を歩き、日本人は敗戦の屈辱に苦しんでいた。
ある日、私は路上で泣いている小さな女の子を見かけた。私は彼女に近づき、「どうしたの?」と尋ねた。
「お腹が空いて…」と女の子は泣きながら答えた。
私は自分のわずかな食べ物を彼女に分けてあげた。その時、私は決意した。「いつか、この苦しみを芸術に変えて、平和の大切さを世界に伝えるんだ」
15歳の時、家族とニューヨークに移住することになった。日本を離れる日、私は複雑な思いでいっぱいだった。故郷への愛着、新しい世界への期待と不安。飛行機の窓から見た富士山に、私は心の中でささやいた。
「さようなら、日本。いつかきっと戻ってくるわ」
ニューヨークでの新生活。それは私の人生を大きく変えることになる冒険の始まりだった。
第2章:芸術との出会い
ニューヨークの高校で、私は初めて本当の意味での自由を味わった。日本の厳しい規律から解放され、自分の思いを自由に表現できる場所を見つけたんだ。
最初は言葉の壁に苦労した。英語がうまく話せず、クラスメイトとのコミュニケーションに悩んだ。でも、美術の授業だけは違った。絵筆を持つと、言葉の壁は消えた。色彩と形で自分を表現できる喜びに、私は夢中になった。
ある日の美術の授業で、先生が私の絵を見て言った。
「ヨーコ、君の絵は型にはまらないね。でも、それがいいんだ。芸術に正解なんてない。自分の心の声を聴くことが大切なんだよ」
その言葉が私の心に火をつけた。それまで「変わっている」と言われて悩んでいた私の個性を、先生は肯定してくれたんだ。
その日から、私は夢中で絵を描き、詩を書き、音楽を作った。学校の廊下に自分の作品を展示したり、友達と即興の演奏会を開いたりした。私の作品を見て笑う人もいたけど、真剣に見てくれる人もいた。
両親は私の変化を心配そうに見ていた。特に母は、私の将来を案じていた。
「ヨーコ、芸術なんかで食べていけるわけないでしょう。もっと現実的なことを考えなさい」と母は言った。
でも、私は決意していた。「私は芸術家になる。それ以外の道はない」
父は黙って私の話を聞いていたが、ある日こう言った。
「ヨーコ、君の決意はわかった。でも、覚えておきなさい。芸術家の道は厳しい。批判や挫折に負けないだけの強さが必要だ。それでも進むというなら、応援しよう」
父の言葉に、私は涙が出そうになった。理解してくれる人がいる。それだけで、私は強くなれた気がした。
サラ・ローレンス大学で哲学を学びながら、私は前衛芸術の世界に足を踏み入れた。そこで出会ったのが、ジョン・ケージだった。
ケージの「4分33秒」というパフォーマンスを初めて見た時、私は衝撃を受けた。ピアニストが舞台に現れ、ピアノの前に座る。でも、一音も弾かない。4分33秒の間、完全な沈黙が続く。
最初は「これが音楽?」と思った。でも、よく聴いてみると、会場の空調の音、観客のささやき、外の車の音が聞こえてきた。
そこで私は気づいた。音楽は必ずしも音を出す必要はない。沈黙も音楽になる。日常のあらゆる音が芸術になりうるんだ。
この体験が、私の芸術観を大きく変えた。芸術は特別な才能を持った人だけのものじゃない。誰もが日常の中で芸術を創造できる。そう考えるようになった。
大学では、哲学の授業で禅について学んだ。「無」の概念に触れ、私は日本文化の深さを再認識した。西洋と東洋の思想を融合させた新しい芸術。それが私の目指す方向性になった。
この頃、私は自分の芸術スタイルを模索し始めた。絵画、音楽、パフォーマンス。様々な形式を試みた。批判的な声もあったけど、私は諦めなかった。
「理解されなくてもいい。自分の信じる道を進もう」
そう自分に言い聞かせながら、私は創作を続けた。それは、時に孤独で厳しい道のりだった。でも、その過程で、私は少しずつ自分の声を見つけていった。
第3章:結婚と挫折
大学を中退した私は、日本人の作曲家、出口俊一と出会った。彼の前衛的な音楽に惹かれ、私たちは急速に親密になっていった。
出口は私の芸術的な才能を認めてくれた。「ヨーコ、君の感性は素晴らしい。一緒に新しい音楽を作ろう」と彼は言った。
その言葉に、私は心を奪われた。芸術を理解してくれる人と一緒にいられる。そう思うと、幸せで胸がいっぱいになった。
でも、両親は私たちの関係に反対だった。特に父は激怒した。
「あの男はあなたにふさわしくない。芸術家なんて、安定した生活なんてできやしない」
母も心配そうだった。「ヨーコ、もう少し考える時間が必要じゃないかしら」
でも、私は聞く耳を持たなかった。「愛しているんです。それだけで十分です」
1956年、私たちは結婚した。両親の反対を押し切っての決断だった。結婚式は小さなものだったけど、私たちは幸せだった。
翌年、娘の京子が生まれた。赤ちゃんを抱いた時、私は言葉にできないほどの喜びを感じた。「この子と一緒に、素晴らしい人生を歩んでいこう」そう思った。
最初の頃は、幸せな家庭を築いたかに見えた。出口と一緒に音楽を作り、育児をしながら芸術活動も続けた。でも、現実は厳しかった。
出口は次第に私の芸術活動を快く思わなくなった。「主婦は家庭を守るべきだ。芸術なんかに時間を使うな」と彼は言うようになった。
私は苦しんだ。芸術か、家庭か。その葛藤の中で、私は精神的に追い詰められていった。
ある日、娘の京子が熱を出した。私は看病をしながら、展覧会の準備もしていた。疲れ果てた私は、うっかり薬の量を間違えてしまった。
幸い大事には至らなかったが、出口は激怒した。「お前は母親失格だ!」
その言葉が、私の心を深く傷つけた。自分は何をしているんだろう。芸術のために家族を犠牲にしていいのか。そんな疑問が私を苦しめた。
精神的なストレスから、私は食欲を失い、不眠に悩まされるようになった。ある日、突然パニック発作に襲われ、救急車で病院に運ばれた。
医師の診断は「うつ病」だった。私は精神病院に入院することになった。白い壁に囲まれた病室で、私は自分の人生を振り返った。
そこで電気ショック療法を受けることになった。痛みと恐怖の中で、私は自分を見失いそうになった。でも、その経験が私に新たな気づきをもたらした。
「痛みも、恐怖も、全て自分の一部なんだ。それを受け入れることで、もっと強くなれる」
退院後、私は新たな決意を胸に抱いていた。「私は私のままで生きる。誰かの期待に応えるために生きるんじゃない」
出口との関係は修復できなかった。私たちは別居し、私は芸術活動に専念することにした。娘の京子との別れは辛かったが、「いつか必ず、あなたに会いに行くわ」と約束した。
この経験は、後の私の芸術作品に大きな影響を与えることになる。痛みや孤独を、創造の源泉に変える。それが私の芸術のスタイルになっていった。
第4章:アヴァンギャルドの世界へ
1960年代、私はニューヨークのアヴァンギャルド芸術シーンに身を投じた。そこは、従来の芸術の概念を覆す実験的な作品であふれていた。
私が特に惹かれたのは、フラクサスというグループだった。彼らの「反芸術」の考えに、私は共感した。芸術は美術館の中だけのものじゃない。日常の中にこそ芸術がある。そんな彼らの思想は、私の心に深く響いた。
フラクサスのメンバーの一人、ジョージ・マチューナスと出会ったのは、ある即興演奏会の後だった。彼は私の演奏を聴いて、こう言った。
「ヨーコ、君の音楽は既存の枠組みを壊している。それこそが我々の求めているものだ」
その言葉に勇気づけられ、私は更に大胆な作品を作り始めた。
1964年、私は「カット・ピース」というパフォーマンスを始めた。舞台の上で静かに座り、観客に自分の服を切ってもらうんだ。
初めてこのパフォーマンスを行った時、会場は静まり返った。誰も動こうとしない。やがて、一人の女性が勇気を出して舞台に上がり、はさみを手に取った。
彼女が私の服を切る音が、静寂を破った。その後、次々と人々が舞台に上がってきた。
このパフォーマンスには深い意味があった。他人に自分の一部を切り取られる。それは痛みを伴う。でも、その過程で人々は繋がり、共感し合う。それは、戦争で傷ついた人々の痛みを表現していたんだ。
多くの人は驚き、中には怒る人もいた。
「これが芸術だって?冗談じゃない」と批評家に罵られたこともある。
ある日、怒った観客が舞台に飛び上がり、私に掴みかかってきたことがあった。恐怖で体が震えたが、私は動かなかった。
その時、別の観客が間に入って止めてくれた。「彼女の芸術を理解しようとしてください」と。
その言葉に、私は涙が出そうになった。理解してくれる人がいる。それだけで、私は強くなれた。
批判や誤解にさらされながらも、私には確信があった。「これは単なるショーじゃない。人々の心の中にある暴力性と優しさを引き出すんだ」
この頃、私は様々な実験的な作品を生み出した。「フライ」という作品では、観客に梯子を上ってもらい、天井に取り付けた虫眼鏡で小さな「フライ」という文字を見てもらった。
これは、小さなものにも目を向けることの大切さを表現していた。日常の中の「気づき」を促す作品だった。
1964年には、「グレープフルーツ」という本を出版した。これは日常の中に芸術を見出すためのインストラクションの集まりだった。
例えば、こんな指示がある。
「空を見上げなさい。
雲の動きを想像しなさい。
雲が動くまで待ちなさい。」
多くの人はこれを奇妙だと思った。「こんなのが芸術なの?」と批判する声も多かった。
でも、私にとっては、日常の中の小さな奇跡を見つける方法だった。忙しい日々の中で、ちょっと立ち止まって空を見上げる。そんな小さな行為が、人生を豊かにする。そう信じていた。
この本は、当初はあまり売れなかった。でも、後年になって再評価され、現代美術の重要な作品として認められるようになった。
私の作品は、常に物議を醸した。でも、それは私の目的でもあった。人々の固定観念を揺さぶり、新しい視点を提供する。それが私の芸術の役割だと考えていた。
この時期の経験は、私にとって大きな転換点となった。批判や誤解と向き合いながら、自分の芸術観を確立していった。それは孤独で厳しい道のりだったが、同時に私を芸術家として成長させてくれた。
第5章:ジョン・レノンとの出会い
1966年11月、ロンドンのインディカ・ギャラリーで個展を開いていた時のこと。展示会の前日、一人の男性が訪れた。
彼は梯子を上って天井に取り付けられた望遠鏡をのぞき込んだ。そこには小さな「YES」という文字が書かれていた。
「これは面白い」と彼は言った。その男性こそ、ビートルズのジョン・レノンだった。
ジョンは私の作品に興味を示し、次々と質問をしてきた。彼の好奇心と洞察力に、私は驚かされた。
「あなたの作品には、遊び心と深い意味が同時に存在している。それが素晴らしい」とジョンは言った。
その言葉に、私は心を打たれた。多くの人が理解してくれなかった私の芸術を、彼は直感的に理解してくれたんだ。
私たちは意気投合し、芸術や音楽、人生について語り合った。彼は私の実験的な音楽に興味を示し、私は彼のソングライティングの才能に惹かれた。
でも、問題もあった。彼には妻のシンシアがいた。そして私にも夫の東尾がいた。
最初は友人関係だったが、次第に私たちの間に特別な感情が芽生えていった。それは、芸術的な共鳴から始まり、やがて深い愛情へと発展していった。
ジョンは私のために「イエス」という曲を書いた。それは、私の作品からインスピレーションを受けたものだった。
「君の作品を見て、人生に対して’イエス’と言うことの大切さを学んだんだ」とジョンは言った。
私たちの関係が公になると、世間は私たちを批判的に見るようになった。「ビートルズを壊した女」と呼ばれるようになった。
メディアは私たちを追いかけ回し、根拠のない噂を流した。「ヨーコはジョンに黒魔術をかけた」なんて記事まで出た。
ジョンの友人たちも私を快く思っていなかった。ポール・マッカートニーは私のことを「ヨーコ・オノ・オー・ノー」と呼んだ。
その批判は、時に人種差別的なものもあった。「日本人の女が何でビートルズに関わるんだ」という声もあった。
その頃の私は、孤独感に苛まれていた。世界中から批判され、誰からも理解されていないように感じた。
でも、ジョンは常に私の味方だった。「気にするな、ヨーコ。彼らは理解していないだけだ。僕たちの愛は本物だ」
彼の言葉に支えられ、私たちの愛は強くなっていった。
1969年、私たちは結婚した。結婚式は小さなものだったが、私たちにとっては大きな意味があった。
結婚式の後、私たちはアムステルダムのヒルトンホテルで「ベッド・イン」を行った。世界平和を訴えるため、一週間ベッドの上で過ごしたんだ。
記者たちがホテルの部屋に押し寄せ、私たちにインタビューをした。
「なぜベッドの上にいるんですか?」と記者が尋ねた。
ジョンが答えた。「戦争で人々が死んでいる間、僕たちはベッドの中にいる。平和のために」
多くの人は私たちを批判した。「ただの自己宣伝だ」と。
でも、私たちには確信があった。「愛と平和のメッセージを世界に広めたい」
この「ベッド・イン」は、後に20世紀を代表するパフォーマンス・アートの一つとして評価されるようになった。
私たちの結婚生活は、芸術と音楽と愛に満ちていた。互いの創造性を刺激し合い、新しい表現を模索し続けた。
それは決して平坦な道のりではなかった。批判や誤解との戦いの日々。でも、私たちは互いを支え合いながら、自分たちの信じる道を歩み続けた。
第6章:アーティストとしての挑戦
1970年代、私とジョンは音楽活動を共にしていた。私たちは「プラスチック・オノ・バンド」を結成し、実験的な音楽を作り続けた。
でも、批判の声は止まなかった。
「ヨーコは歌が下手だ」「ビートルズの音楽を台無しにした」そんな声が聞こえてきた。
特に辛かったのは、ジョンのファンからの批判だった。彼らは私をジョンの才能を台無しにする存在だと見なしていた。
あるコンサートの後、一人のファンが私に詰め寄ってきた。
「あなたのせいでジョンの音楽がおかしくなった!」
その言葉に、私は深く傷ついた。自分の存在が愛する人の足を引っ張っているのではないか。そんな不安が私を苛んだ。
正直、傷ついた。でも、ジョンは私を支えてくれた。
「気にするな、ヨーコ。彼らは理解していないだけだ。君の音楽は素晴らしい。僕たちは新しいものを作り出しているんだ」
ジョンの言葉に勇気づけられ、私は音楽活動を続けた。
1971年に発表した「イマジン」は、ジョンの代表作となった。実は、この曲のコンセプトは私のアート作品「クラウド・ピース」からインスピレーションを得ていたんだ。
「クラウド・ピース」は、空を見上げて平和な世界を想像するという作品だった。ジョンはそのコンセプトを音楽に変換したんだ。
でも、当時はそのことを公にしなかった。世間が私の影響を快く思わないことを知っていたから。
ジョンは後年、このことを公表した。「あの曲は本当はヨーコとの共作なんだ。彼女のアイデアがなければ生まれなかった」
その言葉を聞いた時、私は涙が止まらなかった。長年の間、認められなかった貢献が、やっと光を当てられた気がした。
この頃、私は女性の権利にも目覚めていった。1972年、「女性は黒人の奴隷だ」という歌詞を含む「女性よ、奴隷の奴隷よ」という曲を発表した。
この曲は大きな論争を巻き起こした。多くの批判を浴びた。
「人種差別的だ」「フェミニストの主張を誇張している」という声もあった。
でも、私は譲らなかった。「これは現実なの。目を背けちゃいけない」
この曲は、女性が直面する二重の差別 – 性差別と人種差別 – を指摘していた。過激な表現だったかもしれない。でも、それは社会に衝撃を与え、議論を巻き起こすためだった。
音楽以外でも、私は様々なアート・プロジェクトを続けていた。1971年には「This is Not Here」という大規模な個展をニューヨークで開催した。
この展覧会では、観客参加型の作品を多く展示した。例えば、「絵を描く」という作品では、白いキャンバスに観客が自由に絵を描いていく。
これは、芸術の民主化を表現していた。誰もが芸術家になれる。そんなメッセージを込めていたんだ。
批評家の反応は賛否両論だった。「革新的だ」と評価する声がある一方で、「これが芸術か?」と疑問視する声もあった。
でも、多くの若いアーティストたちが、この展覧会にインスピレーションを受けた。彼らは私の作品から、芸術の新しい可能性を見出したんだ。
この時期、私は自分のアイデンティティについても深く考えるようになった。日本人として、女性として、アーティストとして。それぞれの立場で、私は常に「異質な存在」だった。
でも、その「異質さ」こそが、私の強みだと気づいた。それは新しい視点を提供し、既存の概念に挑戦する力になる。
そう考えると、批判や誤解も恐れなくなった。それらは、社会の固定観念を揺さぶるための必要な過程だと思えるようになった。
アーティストとして、そして一人の人間として、私は成長を続けていた。批判に耐え、自分の信念を貫く強さを身につけていった。
それは決して楽な道のりではなかった。でも、その過程で、私は自分の声を見つけ、それを世界に届ける方法を学んでいったんだ。
第7章:悲劇と再生
1980年12月8日、悲劇承知しました。物語をさらに詳細に展開し、エピソードを追加して内容を充実させます。
オノ・ヨーコ自伝:芸術と平和への旅路
第1章:戦争の影で
私は1933年2月18日、東京で生まれた。名前はオノ・ヨーコ。裕福な銀行家の家庭に生まれ、幼少期は贅沢な暮らしをしていた。父の勤める安田銀行(現在のみずほ銀行)の役員寮で、私は西洋風の生活を送っていた。ピアノの音が響く大きな部屋、庭には美しい花々が咲き乱れ、私はまるで童話の中の王女様のような日々を過ごしていた。
でも、その平和な日々は長くは続かなかった。私が9歳の時、太平洋戦争が始まったんだ。
ある夜、突然の空襲警報が鳴り響いた。母が私の手を強く握り、「急いで、ヨーコ!」と叫びながら、私たちは防空壕に駆け込んだ。暗い壕の中で、爆撃の轟音が耳をつんざく。私は震えが止まらなかった。
「お母さん、怖いよ」と私は泣きそうになりながら言った。
母は私を強く抱きしめ、「大丈夫よ、ヨーコ。私たちは必ず生き延びる」と囁いた。その時、私は祈った。「お願い、みんなが無事でありますように」
戦争が激しくなるにつれ、私たち家族は東京を離れ、山形県に疎開することになった。豪華な暮らしとはお別れだ。山形での生活は厳しかった。食べ物は乏しく、毎日が生きるための戦いだった。
ある日、私は空腹に耐えかねて、近所の畑からサツマイモを盗んでしまった。家に帰ると、母が悲しそうな顔で私を見つめていた。
「ヨーコ、人の物を盗むのはいけないことよ」
母の言葉に、私は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。でも、母は続けた。
「でも、あなたが生きるために必死だったのはわかるわ。これからは一緒に畑仕事を手伝って、正直に食べ物を得ましょう」
この経験から、私は大切なことを学んだ。物質的なものは一瞬で失われるけど、誠実さと創造性は誰にも奪えないってことを。
疎開先で、私は想像力を育んだ。食べ物がなくても、想像の中では豪華な食事を楽しむことができた。紙と鉛筆があれば、どんな世界でも描くことができた。これが後の私の芸術活動の原点になったんだ。
戦後、家族と再会した時の喜びは言葉では表せない。でも、日本は変わってしまっていた。街には焼け野原が広がり、人々の顔には疲労と絶望が刻まれていた。アメリカ軍が街を歩き、日本人は敗戦の屈辱に苦しんでいた。
ある日、私は路上で泣いている小さな女の子を見かけた。私は彼女に近づき、「どうしたの?」と尋ねた。
「お腹が空いて…」と女の子は泣きながら答えた。
私は自分のわずかな食べ物を彼女に分けてあげた。その時、私は決意した。「いつか、この苦しみを芸術に変えて、平和の大切さを世界に伝えるんだ」
15歳の時、家族とニューヨークに移住することになった。日本を離れる日、私は複雑な思いでいっぱいだった。故郷への愛着、新しい世界への期待と不安。飛行機の窓から見た富士山に、私は心の中でささやいた。
「さようなら、日本。いつかきっと戻ってくるわ」
ニューヨークでの新生活。それは私の人生を大きく変えることになる冒険の始まりだった。
第2章:芸術との出会い
ニューヨークの高校で、私は初めて本当の意味での自由を味わった。日本の厳しい規律から解放され、自分の思いを自由に表現できる場所を見つけたんだ。
最初は言葉の壁に苦労した。英語がうまく話せず、クラスメイトとのコミュニケーションに悩んだ。でも、美術の授業だけは違った。絵筆を持つと、言葉の壁は消えた。色彩と形で自分を表現できる喜びに、私は夢中になった。
ある日の美術の授業で、先生が私の絵を見て言った。
「ヨーコ、君の絵は型にはまらないね。でも、それがいいんだ。芸術に正解なんてない。自分の心の声を聴くことが大切なんだよ」
その言葉が私の心に火をつけた。それまで「変わっている」と言われて悩んでいた私の個性を、先生は肯定してくれたんだ。
その日から、私は夢中で絵を描き、詩を書き、音楽を作った。学校の廊下に自分の作品を展示したり、友達と即興の演奏会を開いたりした。私の作品を見て笑う人もいたけど、真剣に見てくれる人もいた。
両親は私の変化を心配そうに見ていた。特に母は、私の将来を案じていた。
「ヨーコ、芸術なんかで食べていけるわけないでしょう。もっと現実的なことを考えなさい」と母は言った。
でも、私は決意していた。「私は芸術家になる。それ以外の道はない」
父は黙って私の話を聞いていたが、ある日こう言った。
「ヨーコ、君の決意はわかった。でも、覚えておきなさい。芸術家の道は厳しい。批判や挫折に負けないだけの強さが必要だ。それでも進むというなら、応援しよう」
父の言葉に、私は涙が出そうになった。理解してくれる人がいる。それだけで、私は強くなれた気がした。
サラ・ローレンス大学で哲学を学びながら、私は前衛芸術の世界に足を踏み入れた。そこで出会ったのが、ジョン・ケージだった。
ケージの「4分33秒」というパフォーマンスを初めて見た時、私は衝撃を受けた。ピアニストが舞台に現れ、ピアノの前に座る。でも、一音も弾かない。4分33秒の間、完全な沈黙が続く。
最初は「これが音楽?」と思った。でも、よく聴いてみると、会場の空調の音、観客のささやき、外の車の音が聞こえてきた。
そこで私は気づいた。音楽は必ずしも音を出す必要はない。沈黙も音楽になる。日常のあらゆる音が芸術になりうるんだ。
この体験が、私の芸術観を大きく変えた。芸術は特別な才能を持った人だけのものじゃない。誰もが日常の中で芸術を創造できる。そう考えるようになった。
大学では、哲学の授業で禅について学んだ。「無」の概念に触れ、私は日本文化の深さを再認識した。西洋と東洋の思想を融合させた新しい芸術。それが私の目指す方向性になった。
この頃、私は自分の芸術スタイルを模索し始めた。絵画、音楽、パフォーマンス。様々な形式を試みた。批判的な声もあったけど、私は諦めなかった。
「理解されなくてもいい。自分の信じる道を進もう」
そう自分に言い聞かせながら、私は創作を続けた。それは、時に孤独で厳しい道のりだった。でも、その過程で、私は少しずつ自分の声を見つけていった。
第3章:結婚と挫折
大学を中退した私は、日本人の作曲家、出口俊一と出会った。彼の前衛的な音楽に惹かれ、私たちは急速に親密になっていった。
出口は私の芸術的な才能を認めてくれた。「ヨーコ、君の感性は素晴らしい。一緒に新しい音楽を作ろう」と彼は言った。
その言葉に、私は心を奪われた。芸術を理解してくれる人と一緒にいられる。そう思うと、幸せで胸がいっぱいになった。
でも、両親は私たちの関係に反対だった。特に父は激怒した。
「あの男はあなたにふさわしくない。芸術家なんて、安定した生活なんてできやしない」
母も心配そうだった。「ヨーコ、もう少し考える時間が必要じゃないかしら」
でも、私は聞く耳を持たなかった。「愛しているんです。それだけで十分です」
1956年、私たちは結婚した。両親の反対を押し切っての決断だった。結婚式は小さなものだったけど、私たちは幸せだった。
翌年、娘の京子が生まれた。赤ちゃんを抱いた時、私は言葉にできないほどの喜びを感じた。「この子と一緒に、素晴らしい人生を歩んでいこう」そう思った。
最初の頃は、幸せな家庭を築いたかに見えた。出口と一緒に音楽を作り、育児をしながら芸術活動も続けた。でも、現実は厳しかった。
出口は次第に私の芸術活動を快く思わなくなった。「主婦は家庭を守るべきだ。芸術なんかに時間を使うな」と彼は言うようになった。
私は苦しんだ。芸術か、家庭か。その葛藤の中で、私は精神的に追い詰められていった。
ある日、娘の京子が熱を出した。私は看病をしながら、展覧会の準備もしていた。疲れ果てた私は、うっかり薬の量を間違えてしまった。
幸い大事には至らなかったが、出口は激怒した。「お前は母親失格だ!」
その言葉が、私の心を深く傷つけた。自分は何をしているんだろう。芸術のために家族を犠牲にしていいのか。そんな疑問が私を苦しめた。
精神的なストレスから、私は食欲を失い、不眠に悩まされるようになった。ある日、突然パニック発作に襲われ、救急車で病院に運ばれた。
医師の診断は「うつ病」だった。私は精神病院に入院することになった。白い壁に囲まれた病室で、私は自分の人生を振り返った。
そこで電気ショック療法を受けることになった。痛みと恐怖の中で、私は自分を見失いそうになった。でも、その経験が私に新たな気づきをもたらした。
「痛みも、恐怖も、全て自分の一部なんだ。それを受け入れることで、もっと強くなれる」
退院後、私は新たな決意を胸に抱いていた。「私は私のままで生きる。誰かの期待に応えるために生きるんじゃない」
出口との関係は修復できなかった。私たちは別居し、私は芸術活動に専念することにした。娘の京子との別れは辛かったが、「いつか必ず、あなたに会いに行くわ」と約束した。
この経験は、後の私の芸術作品に大きな影響を与えることになる。痛みや孤独を、創造の源泉に変える。それが私の芸術のスタイルになっていった。
第4章:アヴァンギャルドの世界へ
1960年代、私はニューヨークのアヴァンギャルド芸術シーンに身を投じた。そこは、従来の芸術の概念を覆す実験的な作品であふれていた。
私が特に惹かれたのは、フラクサスというグループだった。彼らの「反芸術」の考えに、私は共感した。芸術は美術館の中だけのものじゃない。日常の中にこそ芸術がある。そんな彼らの思想は、私の心に深く響いた。
フラクサスのメンバーの一人、ジョージ・マチューナスと出会ったのは、ある即興演奏会の後だった。彼は私の演奏を聴いて、こう言った。
「ヨーコ、君の音楽は既存の枠組みを壊している。それこそが我々の求めているものだ」
その言葉に勇気づけられ、私は更に大胆な作品を作り始めた。
1964年、私は「カット・ピース」というパフォーマンスを始めた。舞台の上で静かに座り、観客に自分の服を切ってもらうんだ。
初めてこのパフォーマンスを行った時、会場は静まり返った。誰も動こうとしない。やがて、一人の女性が勇気を出して舞台に上がり、はさみを手に取った。
彼女が私の服を切る音が、静寂を破った。その後、次々と人々が舞台に上がってきた。
このパフォーマンスには深い意味があった。他人に自分の一部を切り取られる。それは痛みを伴う。でも、その過程で人々は繋がり、共感し合う。それは、戦争で傷ついた人々の痛みを表現していたんだ。
多くの人は驚き、中には怒る人もいた。
「これが芸術だって?冗談じゃない」と批評家に罵られたこともある。
ある日、怒った観客が舞台に飛び上がり、私に掴みかかってきたことがあった。恐怖で体が震えたが、私は動かなかった。
その時、別の観客が間に入って止めてくれた。「彼女の芸術を理解しようとしてください」と。
その言葉に、私は涙が出そうになった。理解してくれる人がいる。それだけで、私は強くなれた。
批判や誤解にさらされながらも、私には確信があった。「これは単なるショーじゃない。人々の心の中にある暴力性と優しさを引き出すんだ」
この頃、私は様々な実験的な作品を生み出した。「フライ」という作品では、観客に梯子を上ってもらい、天井に取り付けた虫眼鏡で小さな「フライ」という文字を見てもらった。
これは、小さなものにも目を向けることの大切さを表現していた。日常の中の「気づき」を促す作品だった。
1964年には、「グレープフルーツ」という本を出版した。これは日常の中に芸術を見出すためのインストラクションの集まりだった。
例えば、こんな指示がある。
「空を見上げなさい。
雲の動きを想像しなさい。
雲が動くまで待ちなさい。」
多くの人はこれを奇妙だと思った。「こんなのが芸術なの?」と批判する声も多かった。
でも、私にとっては、日常の中の小さな奇跡を見つける方法だった。忙しい日々の中で、ちょっと立ち止まって空を見上げる。そんな小さな行為が、人生を豊かにする。そう信じていた。
この本は、当初はあまり売れなかった。でも、後年になって再評価され、現代美術の重要な作品として認められるようになった。
私の作品は、常に物議を醸した。でも、それは私の目的でもあった。人々の固定観念を揺さぶり、新しい視点を提供する。それが私の芸術の役割だと考えていた。
この時期の経験は、私にとって大きな転換点となった。批判や誤解と向き合いながら、自分の芸術観を確立していった。それは孤独で厳しい道のりだったが、同時に私を芸術家として成長させてくれた。
第5章:ジョン・レノンとの出会い
1966年11月、ロンドンのインディカ・ギャラリーで個展を開いていた時のこと。展示会の前日、一人の男性が訪れた。
彼は梯子を上って天井に取り付けられた望遠鏡をのぞき込んだ。そこには小さな「YES」という文字が書かれていた。
「これは面白い」と彼は言った。その男性こそ、ビートルズのジョン・レノンだった。
ジョンは私の作品に興味を示し、次々と質問をしてきた。彼の好奇心と洞察力に、私は驚かされた。
「あなたの作品には、遊び心と深い意味が同時に存在している。それが素晴らしい」とジョンは言った。
その言葉に、私は心を打たれた。多くの人が理解してくれなかった私の芸術を、彼は直感的に理解してくれたんだ。
私たちは意気投合し、芸術や音楽、人生について語り合った。彼は私の実験的な音楽に興味を示し、私は彼のソングライティングの才能に惹かれた。
でも、問題もあった。彼には妻のシンシアがいた。そして私にも夫の東尾がいた。
最初は友人関係だったが、次第に私たちの間に特別な感情が芽生えていった。それは、芸術的な共鳴から始まり、やがて深い愛情へと発展していった。
ジョンは私のために「イエス」という曲を書いた。それは、私の作品からインスピレーションを受けたものだった。
「君の作品を見て、人生に対して’イエス’と言うことの大切さを学んだんだ」とジョンは言った。
私たちの関係が公になると、世間は私たちを批判的に見るようになった。「ビートルズを壊した女」と呼ばれるようになった。
メディアは私たちを追いかけ回し、根拠のない噂を流した。「ヨーコはジョンに黒魔術をかけた」なんて記事まで出た。
ジョンの友人たちも私を快く思っていなかった。ポール・マッカートニーは私のことを「ヨーコ・オノ・オー・ノー」と呼んだ。
その批判は、時に人種差別的なものもあった。「日本人の女が何でビートルズに関わるんだ」という声もあった。
その頃の私は、孤独感に苛まれていた。世界中から批判され、誰からも理解されていないように感じた。
でも、ジョンは常に私の味方だった。「気にするな、ヨーコ。彼らは理解していないだけだ。僕たちの愛は本物だ」
彼の言葉に支えられ、私たちの愛は強くなっていった。
1969年、私たちは結婚した。結婚式は小さなものだったが、私たちにとっては大きな意味があった。
結婚式の後、私たちはアムステルダムのヒルトンホテルで「ベッド・イン」を行った。世界平和を訴えるため、一週間ベッドの上で過ごしたんだ。
記者たちがホテルの部屋に押し寄せ、私たちにインタビューをした。
「なぜベッドの上にいるんですか?」と記者が尋ねた。
ジョンが答えた。「戦争で人々が死んでいる間、僕たちはベッドの中にいる。平和のために」
多くの人は私たちを批判した。「ただの自己宣伝だ」と。
でも、私たちには確信があった。「愛と平和のメッセージを世界に広めたい」
この「ベッド・イン」は、後に20世紀を代表するパフォーマンス・アートの一つとして評価されるようになった。
私たちの結婚生活は、芸術と音楽と愛に満ちていた。互いの創造性を刺激し合い、新しい表現を模索し続けた。
それは決して平坦な道のりではなかった。批判や誤解との戦いの日々。でも、私たちは互いを支え合いながら、自分たちの信じる道を歩み続けた。
第6章:アーティストとしての挑戦
1970年代、私とジョンは音楽活動を共にしていた。私たちは「プラスチック・オノ・バンド」を結成し、実験的な音楽を作り続けた。
でも、批判の声は止まなかった。
「ヨーコは歌が下手だ」「ビートルズの音楽を台無しにした」そんな声が聞こえてきた。
特に辛かったのは、ジョンのファンからの批判だった。彼らは私をジョンの才能を台無しにする存在だと見なしていた。
あるコンサートの後、一人のファンが私に詰め寄ってきた。
「あなたのせいでジョンの音楽がおかしくなった!」
その言葉に、私は深く傷ついた。自分の存在が愛する人の足を引っ張っているのではないか。そんな不安が私を苛んだ。
正直、傷ついた。でも、ジョンは私を支えてくれた。
「気にするな、ヨーコ。彼らは理解していないだけだ。君の音楽は素晴らしい。僕たちは新しいものを作り出しているんだ」
ジョンの言葉に勇気づけられ、私は音楽活動を続けた。
1971年に発表した「イマジン」は、ジョンの代表作となった。実は、この曲のコンセプトは私のアート作品「クラウド・ピース」からインスピレーションを得ていたんだ。
「クラウド・ピース」は、空を見上げて平和な世界を想像するという作品だった。ジョンはそのコンセプトを音楽に変換したんだ。
でも、当時はそのことを公にしなかった。世間が私の影響を快く思わないことを知っていたから。
ジョンは後年、このことを公表した。「あの曲は本当はヨーコとの共作なんだ。彼女のアイデアがなければ生まれなかった」
その言葉を聞いた時、私は涙が止まらなかった。長年の間、認められなかった貢献が、やっと光を当てられた気がした。
この頃、私は女性の権利にも目覚めていった。1972年、「女性は黒人の奴隷だ」という歌詞を含む「女性よ、奴隷の奴隷よ」という曲を発表した。
この曲は大きな論争を巻き起こした。多くの批判を浴びた。
「人種差別的だ」「フェミニストの主張を誇張している」という声もあった。
でも、私は譲らなかった。「これは現実なの。目を背けちゃいけない」
この曲は、女性が直面する二重の差別 – 性差別と人種差別 – を指摘していた。過激な表現だったかもしれない。でも、それは社会に衝撃を与え、議論を巻き起こすためだった。
音楽以外でも、私は様々なアート・プロジェクトを続けていた。1971年には「This is Not Here」という大規模な個展をニューヨークで開催した。
この展覧会では、観客参加型の作品を多く展示した。例えば、「絵を描く」という作品では、白いキャンバスに観客が自由に絵を描いていく。
これは、芸術の民主化を表現していた。誰もが芸術家になれる。そんなメッセージを込めていたんだ。
批評家の反応は賛否両論だった。「革新的だ」と評価する声がある一方で、「これが芸術か?」と疑問視する声もあった。
でも、多くの若いアーティストたちが、この展覧会にインスピレーションを受けた。彼らは私の作品から、芸術の新しい可能性を見出したんだ。
この時期、私は自分のアイデンティティについても深く考えるようになった。日本人として、女性として、アーティストとして。それぞれの立場で、私は常に「異質な存在」だった。
でも、その「異質さ」こそが、私の強みだと気づいた。それは新しい視点を提供し、既存の概念に挑戦する力になる。
そう考えると、批判や誤解も恐れなくなった。それらは、社会の固定観念を揺さぶるための必要な過程だと思えるようになった。
アーティストとして、そして一人の人間として、私は成長を続けていた。批判に耐え、自分の信念を貫く強さを身につけていった。
それは決して楽な道のりではなかった。でも、その過程で、私は自分の声を見つけ、それを世界に届ける方法を学んでいったんだ。
第7章:悲劇と再生
1980年12月8日、悲劇が起きた。
ニューヨークのダコタ・ハウス前で、ジョンは銃で撃たれた。
その瞬間、私の世界は崩壊した。愛する人を失った痛みは、言葉では表せない。
事件の一報を聞いた時、私は信じられなかった。「嘘だ。こんなことがあるはずない」
病院に駆けつけた私は、医師から最悪の知らせを聞かされた。「申し訳ありません。私たちにできることは何もありませんでした」
その言葉を聞いた瞬間、私の足から力が抜けた。看護師に支えられながら、私はジョンの元へ向かった。
彼の冷たくなった手を握りしめながら、私は泣き崩れた。「ジョン、行かないで。私を一人にしないで」
でも、彼はもう戻ってこなかった。
世界中が悲しみに包まれた。ダコタ・ハウスの前には、何千人もの人々が集まり、ろうそくを灯して祈りを捧げた。
私は悲しみのどん底にいた。食事も喉を通らず、眠ることもできなかった。毎晩、ジョンとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。
でも、私は強くならなければいけなかった。5歳の息子ショーンのために。
ショーンは、父親の死を理解できずにいた。「パパはいつ帰ってくるの?」と何度も聞いてきた。
その度に、私は涙をこらえながら答えた。「パパは天国に行ったの。もう戻ってこないけど、いつも私たちを見守ってくれているわ」
悲しみを乗り越えるため、私は音楽と芸術に没頭した。それは、ジョンとの約束でもあった。「僕たちの音楽で、世界を変えよう」
1981年、アルバム「シーズン・オブ・グラス」を発表した。このアルバムには、ジョンの血染めの眼鏡の写真をジャケットに使った。
多くの人が「不謹慎だ」と批判した。「なぜそんな残酷な写真を使うのか」という声もあった。
でも、私には理由があった。「これは現実なの。暴力の結果を直視しなければ、平和は訪れない」
このアルバムには、私の悲しみと怒り、そして希望が詰まっていた。「Walking on Thin Ice」という曲は、ジョンが亡くなる直前に録音していた最後の曲だった。
この曲を完成させる過程は、私にとって苦しくも癒しの時間だった。ジョンの声を聴きながら、私は涙を流した。でも同時に、彼の存在を強く感じることができた。
アルバムはビルボードチャートで高順位を記録し、批評家からも高い評価を受けた。多くの人が、私の率直な感情表現に共感してくれた。
1982年、私はジョンへの追悼として「オノ・レノン・ミュージアム」を設立した。そこには、ジョンとの思い出の品々が展示されている。
ミュージアムの開館式で、私は涙ながらにスピーチをした。
「ジョンは亡くなりましたが、彼の精神は生き続けています。この場所が、平和と愛を考える場所になることを願っています」
悲しみの中にあっても、私は平和活動を続けた。毎年12月8日には、ニューヨークのストロベリー・フィールズで平和を祈るイベントを開催している。
そこでは、世界中から集まった人々が「イマジン」を歌い、平和への願いを込めてキャンドルを灯す。
この活動を通じて、私は少しずつ癒されていった。ジョンの死を無駄にしたくない。彼の夢だった平和な世界を実現したい。そんな思いが、私を前に進ませた。
悲劇から立ち直る過程は長く、苦しいものだった。でも、その過程で私は新たな強さを見出した。
ジョンがいなくても、私は彼の精神を受け継いで生きていける。そう信じることで、私は少しずつ再生していった。
芸術家として、母として、そして一人の人間として、私は新たな章を歩み始めたのだ。
第8章:芸術と平和の追求
2000年代に入り、私の芸術作品は世界中で評価されるようになった。長年誤解され、批判されてきた私の作品が、ようやく理解されるようになったんだ。
2009年には、ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した。これは、現代美術の分野で最も権威ある賞の一つだ。
授賞式で、私は涙を堪えながらスピーチをした。
「この賞は、私一人のものではありません。長年、私の芸術を理解し、支えてくれた全ての人々に捧げます」
会場からは大きな拍手が沸き起こった。その瞬間、私は長年の苦労が報われた気がした。
でも、私にとって最も大切なのは、芸術を通じての平和活動だった。
2007年、アイスランドのレイキャビクに「イマジン・ピース・タワー」を建設した。これは、ジョンと私が共に描いた平和への願いを形にしたものだ。
タワーの建設には様々な困難があった。資金調達の問題や、地元住民の反対など。でも、私は諦めなかった。
「この光が、世界中の人々の心に平和の種を蒔くんです」
そう説明し、少しずつ理解を得ていった。
完成したタワーは、空に向かって強い光を放つ。その光は、ジョンの魂を表しているようで、私は胸が熱くなった。
毎年10月9日、ジョンの誕生日に、このタワーから空に向かって光が放たれる。その光は、世界中の人々に平和のメッセージを送っている。
タワーの完成式典で、私は世界中から集まった人々に向かって語りかけた。
「この光は、私たちの内なる光です。平和は、一人一人の心の中にあるのです」
その言葉に、多くの人が涙を流しながら頷いてくれた。
私は今も、芸術を通じて世界に問いかけ続けている。
2019年には、ニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開催された。そこでは、私の60年以上にわたる芸術活動が紹介された。
展示の中心にあったのは、「SKY PIECE TO JESUS CHRIST」という作品だ。これは、オーケストラの演奏者を包帯で縛っていくパフォーマンス作品だ。
一見過激に見えるこの作品だが、実は深い意味がある。音楽家が縛られていくことで、自由に演奏できなくなる。それは、社会の制約や偏見によって、人々の創造性が阻害される様子を表現している。
この作品を見た若いアーティストが私に言った。
「オノさんの作品を見て、芸術には社会を変える力があると信じるようになりました」
その言葉を聞いて、私は心から嬉しかった。私の芸術が、次の世代に影響を与えている。それこそが、私の望んでいたことだった。
「戦争は終わった。もしあなたがそう望むなら」
これは、私とジョンが1969年に始めたキャンペーンのスローガンだ。半世紀以上経った今も、この言葉の重みは変わらない。
2003年、イラク戦争が始まった時、私はこのスローガンを大きな看板にして、ニューヨークのタイムズスクエアに掲げた。
多くの人が足を止めて、その看板を見上げていた。ある若者が私に近づいてきて言った。
「この言葉を見て、平和のために自分にも何かできるはずだと思いました」
その言葉を聞いて、私は確信した。芸術には、人々の心を動かし、世界を変える力がある。だからこそ、私は芸術を続ける。
今も私は、新しいプロジェクトに取り組んでいる。年齢を重ねても、私の創造意欲は衰えることを知らない。
それは、ジョンとの約束でもある。「僕たちの夢を、絶対に諦めないで」
彼の言葉を胸に、私は今日も筆を取り、音楽を奏で、世界に平和のメッセージを発信し続けている。
第9章:過去との和解
80歳を過ぎた今、私は過去を振り返ることが多くなった。長い人生を歩んできて、様々な出来事が走馬灯のように思い出される。
かつての批判者たちとも和解できた。ポール・マッカートニーとは今では良い友人関係にある。彼は私の芸術作品を高く評価してくれている。
ある日、ポールから電話があった。
「ヨーコ、君の新しい展覧会を見たよ。素晴らしかった」
彼の言葉に、私は驚きと喜びを感じた。かつては私を批判していた彼が、今では理解者になってくれている。
「ヨーコの作品は、常に私たちに新しい視点を与えてくれる。それが彼女の素晴らしさだ」と彼は言ってくれた。
その言葉を聞いて、私は涙が出そうになった。長年の誤解が解け、互いを理解し合える関係になれたことが、とても嬉しかった。
ビートルズのファンたちとも和解できた。多くのファンが、私がジョンに与えた影響を理解してくれるようになった。
あるファンミーティングで、一人の若い女性が私に近づいてきた。
「オノさん、あなたの存在がジョンの音楽をより深いものにしたと思います。ありがとうございます」
その言葉に、私は深く感動した。長年、ビートルズのファンたちから批判され続けてきた私にとって、この言葉は大きな救いだった。
でも、まだ心の奥底に残る後悔もある。
ジョンとの関係が始まった頃、私は彼の息子ジュリアンとの関係を大切にしなかった。当時の私は、自分とジョンの関係に夢中で、ジュリアンの気持ちを考える余裕がなかった。
ジュリアンは長年、私を許せないでいた。
「父親を奪われた気がした」と彼は言っていた。その言葉は、私の心に深い傷を残した。
ある日、ジュリアンから連絡があった。彼は私に会いたいと言ってきたんだ。
緊張しながら、私は彼との面会に臨んだ。
ジュリアンは私の目をまっすぐ見て言った。
「ヨーコ、長い間あなたを恨んでいた。でも、それは間違いだったと気づいたんだ。父は自分の意思であなたを選んだ。そして、あなたは父を幸せにした。それは事実だ」
その言葉を聞いて、私は涙が止まらなかった。長年の重荷が、少し軽くなった気がした。
最近になって、やっと和解の兆しが見えてきた。ジュリアンと私は、ジョンの遺品をめぐる争いを解決し、和解した。
「もう過去にこだわるのはやめよう。これからは、父の遺志を一緒に継いでいこう」とジュリアンは言ってくれた。
この和解は、私にとって大きな救いだった。過去の過ちを認め、許しを乞う勇気。そして、許す勇気。その両方が必要だったんだ。
この経験から、私は学んだ。人生には、取り返しのつかない過ちもある。でも、謝罪し、許し合うことで、新たな関係を築くことができる。
今、私はジュリアンと共に、ジョンの音楽や平和活動の遺産を守り、次の世代に伝えていく活動をしている。
かつての敵対関係が、今では協力関係に変わった。これこそ、ジョンが望んでいたことだと思う。
過去との和解は、私に新たな力を与えてくれた。過去の重荷から解放され、より自由に、より大胆に、これからの人生を歩んでいける気がする。
そして、この経験は私の芸術にも影響を与えている。許しと和解をテーマにした新しい作品にも取り組んでいる。
人生に完璧な人間はいない。誰もが過ちを犯す。でも、その過ちを認め、許し合うことで、私たちは成長できる。
これからも、私は自分の過去と向き合い、そこから学び続けていきたい。そして、その学びを通じて、より良い未来を創造していきたいと思う。
第10章:未来への希望
90歳を目前にした今、私はまだ新しいプロジェクトに取り組んでいる。年齢を重ねても、私の創造意欲は衰えることを知らない。
最近では、若いアーティストたちとのコラボレーションを楽しんでいる。彼らの新しい視点に、私はいつも刺激を受けている。
ある日、20代のミュージシャンが私のスタジオを訪れた。彼は緊張した様子で、こう言った。
「オノさん、あなたの音楽は時代を超えています。でも、今の若者にどう伝えればいいか分からないんです」
私は彼に微笑みかけて答えた。
「年齢は関係ない。アートに年齢制限はないのよ。大切なのは、自分の心の声に正直であること。それさえあれば、世代を超えて人々の心に届くわ」
その言葉を聞いて、彼の目が輝いた。その後、私たちは一緒に曲を作った。彼の新鮮な感性と、私の経験が融合して、素晴らしい作品が生まれた。
2021年には、新しいアルバム「オーシャン・チャイルド」をリリースした。このアルバムでは、環境問題や人種差別など、現代社会の問題に焦点を当てている。
アルバムの制作過程で、私は世界中の若いミュージシャンたちとオンラインでコラボレーションした。パンデミックで直接会うことはできなかったけれど、音楽を通じて心を通わせることができた。
アルバムのタイトル曲「オーシャン・チャイルド」は、海洋汚染の問題を歌っている。歌詞の一部はこうだ。
「海よ、私たちの母よ
あなたの涙を見る
プラスチックの海で溺れる生命
今こそ、変わるとき」
この曲は、多くの若者たちの共感を呼んだ。環境活動家のグレタ・トゥーンベリも、SNSでこの曲を紹介してくれた。
批評家からは「88歳とは思えない斬新さ」と評価された。その言葉を聞いて、私は少し苦笑した。年齢は単なる数字。大切なのは、心の若さを保ち続けることだと思う。
私の人生は、常に挑戦の連続だった。批判され、誤解され、時には憎まれもした。
でも、私は自分の信念を曲げなかった。芸術の力を信じ、平和を追求し続けてきた。
ある記者から「なぜそこまで芸術にこだわるのか」と聞かれたことがある。私はこう答えた。
「芸術は、人々の心を開く鍵なの。心が開けば、理解が生まれる。理解があれば、平和は必ず訪れる。だから私は、最後の一息まで芸術を作り続けるわ」
今、振り返ってみると、すべての経験が私を作り上げてきたのだと感じる。
戦争、差別、偏見。私はそれらと闘ってきた。そして、愛と平和の大切さを世界に訴え続けてきた。
時には孤独を感じ、挫折しそうになったこともある。でも、その度に私を支えてくれたのは、芸術への情熱と、平和な世界を実現したいという強い願いだった。
私の人生は、まだ終わっていない。
これからも、芸術を通じて世界に問いかけ続けるつもりだ。
最近、孫のショーンが私に言った。
「おばあちゃん、あなたの生き方は、僕たち若い世代にとって大きな励みになっているよ」
その言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。自分の人生が、次の世代に何かを伝えられているのだと思うと、とても嬉しい。
「想像してごらん。
みんなが平和に暮らせる世界を。
君にもできるはず。」
これは、ジョンと私が共に描いた夢。この夢を実現するため、私はこれからも歩み続ける。
そして、いつの日か、この夢が現実になることを信じている。
私の人生は、まだ終わっていない。新しい朝が来るたびに、私は自問する。
「今日、私に何ができるだろう?世界をほんの少しでも良くするために」
そして、筆を取り、キャンバスに向かい、ピアノの前に座る。
私の旅は、まだ続いている。平和と愛を求めて、芸術の力を信じて。
そして、私は確信している。私たちの想像力と創造性が、いつか必ず、より良い世界を作り出すことを。
これからも、私は歩み続ける。芸術と平和への終わりなき旅を。