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ガンジー | 偉人ノベル
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ガンジー物語

世界史人権
年表
1869年
0才
誕生
1888年
19才
法律の勉強のため渡英
1891年
22才
弁護士資格を取得し帰国
1893年
24才
南アフリカで人種差別を経験
1906年
37才
非暴力運動を開始
1915年
46才
インド国民会議派に参加
1917年
48才
チャンパーラン・非暴力運動を指導
1919年
50才
ローラット法に反対する非暴力運動を開始
1920年
51才
非協力運動を開始
1922年
53才
逮捕
1924年
55才
21日間の断食
1930年
61才
塩の行進を指導
1932年
63才
不可触民制度廃止のため断食
1934年
65才
国民会議派を脱退
1942年
73才
インド撤退要求運動を開始
1946年
77才
内閣使節団との交渉に参加
1947年
78才
インド独立。分離独立に反対
1948年
78才
過激派に暗殺される

第1章:幼少期の思い出

私の名前はモハンダス・カラムチャンド・ガンジーです。1869年10月2日、インドの西海岸にある小さな町ポールバンダルで生まれました。幼い頃の私は、とても臆病で内気な少年でした。人前に出るのが怖くて、いつも母の後ろに隠れていたものです。

朝日が昇り、鳥たちのさえずりが聞こえ始める頃、母のプトリバイの優しい声が響きました。「モハン、学校に行く時間よ!」

私は布団の中で体を丸め、小さな声で返事をしました。「はい、お母さん…」心の中では、学校に行きたくないという気持ちでいっぱいでした。

学校は私にとって大きな挑戦でした。教室に入るたびに、心臓がドキドキして、手に汗をかいていました。他の子どもたちと話すのが怖くて、休み時間はいつも一人で過ごしていました。木陰に座り、遠くで遊ぶ友達を羨ましそうに眺めていたのを覚えています。

でも、両親の愛情に包まれて育ったおかげで、少しずつ自信がついていきました。母は毎晩、私のベッドの横に座り、優しく背中をさすりながら言いました。「モハン、あなたは特別な子よ。自分を信じることを忘れないでね」

父のカラムチャンドは、地元の政治家でした。彼の仕事ぶりを見て、私は正義と公平さの大切さを学びました。父の書斎は私のお気に入りの場所で、本棚に並ぶ分厚い法律の本や、机の上に広げられた重要そうな書類を見るのが好きでした。

ある日、父の仕事について尋ねてみました。「お父さん、どうして政治家になったの?」

父は眼鏡を外し、私をじっと見つめながら答えました。「モハン、人々のために働くことが、本当の幸せなんだよ。自分のためだけでなく、みんなのために生きることが大切なんだ」

その言葉は、後の私の人生に大きな影響を与えることになるのです。当時の私には、その意味を完全に理解することはできませんでしたが、父の目に宿る情熱と決意は、深く心に刻まれました。

学校での苦労は続きましたが、両親の愛と励ましのおかげで、少しずつ前を向いて歩めるようになりました。ある日、クラスで歴史の発表をすることになった時、私は震える手で原稿を持ち、小さな声で話し始めました。先生が優しく頷いてくれたのを見て、少し勇気が出ました。発表が終わると、クラスメイトたちが拍手をしてくれて、初めて「やればできる」という気持ちが芽生えたのを覚えています。

この経験は、私に大切なことを教えてくれました。恐れを乗り越え、自分の声を上げることの大切さです。後の人生で、大勢の前でスピーチをし、人々を導くリーダーになるとは、当時の私には想像もつきませんでしたが、この小さな一歩が、その後の大きな歩みにつながったのだと思います。

第2章:イギリスへの旅立ち

18歳になった私は、法律を学ぶためにイギリスへ留学することになりました。その決断は、私の人生を大きく変えることになる転機でした。旅立ちの日、家族や親戚が集まって私を見送ってくれました。

母は涙ぐみながら、私を強く抱きしめました。「モハン、あなたの夢を追いなさい。でも、私たちの教えを忘れないでね。お酒を飲まない、肉を食べない、そして…」母は少し躊躇してから続けました。「…女性に手を出さないって約束してね」

私は真剣な表情で母の目を見つめ、答えました。「約束します、お母さん。必ず守ります」

船に乗り込む直前、父が私の肩に手を置きました。「モハン、イギリスで学ぶことは多いだろう。でも、自分の価値観を忘れるな。インドの伝統と文化を誇りに思うんだ」

その言葉を胸に、私は未知の世界への一歩を踏み出しました。

イギリスでの生活は、カルチャーショックの連続でした。ロンドンに到着した日、私は目を見張りました。高層ビル、馬車が行き交う舗装された道路、そして様々な肌の色や服装の人々…すべてが新鮮で、時に圧倒されることもありました。

食事、服装、言葉、すべてが新しい経験でした。最初の数週間は、毎日が冒険のようでした。イギリス料理の味に慣れるのに苦労し、ベジタリアンの私にとって食事を見つけるのは一苦労でした。ある日、レストランで注文した料理に肉が入っていることに気づかず、一口食べてしまったことがありました。その時の罪悪感と母との約束を破ってしまったという後悔は、今でも鮮明に覚えています。

服装も大きな課題でした。インドの伝統的な服から、ヨーロッパ風のスーツやネクタイに着替えるのは、まるで別人になったような気分でした。鏡の前で何度もネクタイを結び直し、やっとの思いで外出できるようになりました。

言葉の壁も高かったです。授業中、教授の話す英語が理解できず、必死でノートを取りながら、後で辞書を引いて意味を確認する日々が続きました。でも、この苦労が後々、英語でスピーチをし、イギリス人と対等に議論できる力につながったのだと思います。

ある日、友人のジョンが私に声をかけてきました。「ヘイ、ガンジー!一緒にパブに行かないか?みんなで楽しく過ごそうぜ」

私は躊躇しました。母との約束を守りたい気持ちと、友人たちと打ち解けたい気持ちの間で葛藤がありました。「ごめん、ジョン。お酒は飲まないんだ」と、小さな声で答えました。

「なぜだい?」とジョンは不思議そうに聞きました。彼の目には、純粋な好奇心が浮かんでいました。

私は深呼吸をして、勇気を出して説明しました。「母との約束なんだ。インドの伝統を守ると誓ったからね。それに、私の信仰上も、お酒は控えているんだ」

ジョンは一瞬驚いた表情を見せましたが、すぐに理解を示してくれました。「そうか。君の信念を尊重するよ。でも、お茶でも飲みに行かないか?友達と過ごす時間は大切だと思うんだ」

その言葉に、私は心が温かくなるのを感じました。「ありがとう、ジョン。お茶なら喜んで」

この経験を通じて、私は自分の価値観を大切にすることの重要性を学びました。同時に、異なる文化や価値観を持つ人々と理解し合い、共存することの大切さも感じました。これは後の私の人生において、異なる宗教や民族の人々の間で平和を訴える際の基盤となる経験でした。

イギリスでの留学生活は、私を大きく成長させてくれました。法律の知識だけでなく、世界の多様性を理解し、自分の信念を持ちながらも他者を尊重する姿勢を学んだのです。この経験が、後の私の人生における非暴力・不服従運動の思想形成に大きな影響を与えることになるのです。

第3章:南アフリカでの目覚め

法律の勉強を終えた私は、南アフリカの法律事務所で働くことになりました。1893年、24歳の私は、希望に胸を膨らませて南アフリカの地を踏みました。しかし、そこで待っていたのは、想像を超える人種差別の現実でした。

南アフリカは、当時イギリス帝国の植民地で、白人が支配する社会でした。インド人を含む有色人種は、「クーリー」と呼ばれ、人間以下の扱いを受けていました。私は、この不当な扱いに心を痛めましたが、最初のうちは「きっと時間が解決してくれる」と楽観的に考えていました。

ある日、私はダーバンからプレトリアへ向かう列車に乗りました。一等車の切符を持っていたにもかかわらず、白人の乗客が私の存在に不満を漏らし始めました。

「インド人が一等車に?冗談じゃない!」

車掌が近づいてきて、冷たい目で私を見下ろしました。「君、二等車か三等車に移れ」

私は静かに、しかし毅然とした態度で答えました。「いいえ、私には一等車の切符があります。ここにいる権利があるのです」

しかし、車掌は聞く耳を持ちませんでした。「規則だ。インド人は一等車に乗れない!」

次の駅で、私は荷物もろとも列車から放り出されてしました。冷たい夜風が頬を撫で、私は駅のベンチに座り込みました。周りには誰もおらず、ただ月明かりだけが私を照らしていました。

その夜、寒い駅のプラットフォームで一晩を過ごしながら、私は深く考えました。心の中で様々な感情が渦巻いていました。怒り、悲しみ、そして何よりも、「なぜ」という疑問が大きくなっていきました。

「なぜ、肌の色だけで人を判断するのだろう?これは間違っている。何かをしなければ」

その瞬間、私の中で何かが変わりました。これまで法律を学び、「システムの中で」物事を変えようとしてきた私ですが、そのシステム自体が不公平で不正なものだと気づいたのです。

翌朝、朝日が昇る頃、私は決意を固めました。「この不正に立ち向かわなければならない。でも、どうやって?暴力では何も解決しない…」

この出来事が、私の人生を大きく変えることになりました。非暴力による抵抗運動の種が、ここで芽生えたのです。

その後、私は南アフリカのインド人コミュニティのために働き始めました。人々の苦しみを目の当たりにし、その声に耳を傾けました。ある日、年老いたインド人労働者のラメーシュに出会いました。彼の背中は長年の重労働で曲がり、目には深い悲しみが宿っていました。

「ガンジーさん」とラメーシュは震える声で言いました。「私たちはここで人間扱いされていません。子供たちの未来が心配です」

その言葉に、私の決意はさらに強くなりました。「ラメーシュさん、あなたたちは一人じゃありません。私たちで変化を起こしましょう。でも、それは平和的な方法でなければなりません」

ラメーシュは不思議そうな顔をしました。「平和的に?でも、彼らは暴力的です。私たちにどんな力があるというのですか?」

私は微笑んで答えました。「私たちの力は、真理と正義にあります。暴力に暴力で応えれば、憎しみの連鎖は終わりません。私たちは、愛と非暴力で戦うのです」

この考えが、後に「サティヤーグラハ」(真理の力)として知られる非暴力抵抗運動の基礎となりました。それは単なる抵抗運動ではなく、愛と真理に基づいた生き方の哲学でもあったのです。

南アフリカでの21年間、私はこの理念を実践し、インド人コミュニティの権利のために闘いました。時には投獄され、暴力に遭うこともありましたが、非暴力の信念を貫き通しました。この経験が、後のインド独立運動における私の行動と思想の基盤となったのです。

第4章:サティヤーグラハの誕生

南アフリカでの差別に立ち向かうため、私は新しい闘争方法を考え出しました。それが「サティヤーグラハ」、つまり真理の力による非暴力の抵抗です。この概念は、単なる政治的戦略ではなく、生き方の哲学でもありました。

1906年、南アフリカ政府がインド人に対する新たな差別的な法律を制定しようとしていました。この法律は、すべてのインド人に指紋登録を義務付け、常に登録証を携帯することを要求するものでした。これは、まるで犯罪者のような扱いでした。

この不当な法律に対して、私たちインド人コミュニティは立ち上がることを決意しました。ヨハネスブルグのインペリアル劇場に3000人以上のインド人が集まり、抵抗の誓いを立てました。

その日、私は壇上に立ち、震える声ながらも力強く語りかけました。

「友よ、我々は重大な岐路に立っています。この不当な法律に従うか、それとも我々の尊厳のために立ち上がるか。しかし、覚えておいてください。暴力で暴力に立ち向かっても、何も解決しないのです」

会場からはざわめきが起こりました。ある男性が立ち上がり、叫びました。「でも、ガンジーさん!彼らは我々を踏みにじっているんです。黙っていられますか?」

私は深呼吸をして、穏やかに答えました。「あなたの怒りはよくわかります。しかし、暴力は新たな暴力を生むだけです。私たちの武器は、愛と真理なのです。我々は法を破りますが、平和的に。逮捕されても抵抗せず、喜んで刑務所に行きましょう。我々の苦しみが、世界の良心に訴えかけるのです」

この瞬間、「サティヤーグラハ」の概念が生まれました。それは、真理と非暴力による抵抗、そして自己犠牲の精神を意味していました。

多くの人々が私の考えに共感し、運動は大きくなっていきました。しかし、全員が最初から賛同したわけではありません。

ある日、若い活動家のラジューが私のもとを訪れました。彼の目には疑問と不安が浮かんでいました。

「ガンジーさん、非暴力で本当に勝てるんですか?彼らは銃を持っています。我々には何もない」

私は微笑んで答えました。「ラジュー、勝つことが目的ではないんだ。正しいことをすることが大切なんだよ。我々の武器は、魂の力なんだ。それは、どんな銃よりも強いんだよ」

ラジューはしばらく考え込んでいましたが、やがてゆっくりと頷きました。「わかりました、ガンジーさん。私もこの道を歩んでみます」

サティヤーグラハの実践は、決して容易なものではありませんでした。多くの仲間が逮捕され、私自身も何度も投獄されました。しかし、我々は決して暴力に訴えることなく、平和的に抵抗し続けました。

刑務所の中で、私は自分の信念をさらに深めました。独房の冷たい床の上で、ガンディーヴァ(ヒンドゥー教の聖典)を読み、瞑想をしました。そこで、非暴力の真の意味を理解したのです。それは単に暴力を避けることではなく、敵対する相手の中にも神の存在を見出し、愛することでした。

7年間の闘いの末、私たちは南アフリカ政府との合意にこぎつけ、インド人の権利を部分的に勝ち取ることができました。これは、サティヤーグラハの力を世界に示す最初の大きな勝利となりました。

この経験は、後のインド独立運動において、私の行動の指針となりました。サティヤーグラハは、単なる政治的手法ではなく、真理と非暴力に基づいた生き方そのものとなったのです。

第5章:インドへの帰還

1915年、私はインドに帰国しました。祖国の姿を目にして、胸が痛みました。貧困、差別、イギリスによる植民地支配…解決すべき問題が山積みでした。

インドに到着した日、私は深い感動と同時に大きな責任を感じました。多くの人々が駅に集まり、私を歓迎してくれました。その中には、貧しい農民や労働者の姿もありました。彼らの目には、希望と期待が輝いていました。

「ガンジーさん、私たちを救ってください!」
「イギリス人から自由を勝ち取ってください!」

そんな声が、あちこちから聞こえてきました。私は静かに頷きながら、心の中で誓いました。

「私たちの国を変えなければならない。しかし、それは一人ではできない。みんなの力が必要だ」

インド国民会議派に加わった私は、全国を旅して人々の声に耳を傾けました。都市部のエリートだけでなく、農村の貧しい人々の生活を直接見て、彼らの苦しみを理解しようと努めました。

ある村で、やせこけた農民のラムに出会いました。彼の目は落ち窪み、手には深いしわが刻まれていました。

「ガンジーさん、私たちはもう限界です。高い税金を払えず、飢えています。子供たちは学校にも行けません」とラムは訴えました。

私はラムの手を取り、こう言いました。「あなたの苦しみがわかります。一緒に戦いましょう。でも、暴力は使いません。私たちの武器は、真理と非暴力です」

ラムは不安そうでしたが、私の言葉に希望を見出したようでした。「でも、どうやって戦うのですか?」

私は微笑んで答えました。「まず、自分たちの力を信じることです。そして、団結することです。私たちが一つになれば、どんな困難も乗り越えられるはずです」

この会話は、私にインドの現実を深く理解させてくれました。独立は重要ですが、それと同時に、貧困や社会的不平等といった問題にも取り組まなければならないと感じました。

私は、インドの伝統的な価値観と近代的な考え方を融合させようと試みました。村々を訪れ、手紡ぎ車(チャルカ)の使用を奨励しました。これは単なる経済活動ではなく、自立と自尊心の象徴でもありました。

「スワデシ(自国製品愛用)」と「スワラージ(自治)」のスローガンを掲げ、インド人の自信と誇りを取り戻そうと努めました。

しかし、道のりは決して平坦ではありませんでした。多くの人々が私の非暴力の理念に共感してくれましたが、一方で「非現実的だ」と批判する声もありました。

ある集会で、熱心な若者のアショクが私に詰め寄りました。「ガンジーさん、非暴力では時間がかかりすぎます。武力で立ち向かうべきではないですか?」

私は静かに、しかし確信を持って答えました。「アショク、暴力は一時的な解決策にすぎません。真の自由と平和は、非暴力によってのみ達成できるのです。それには時間がかかるかもしれません。しかし、その過程自体が私たちを成長させ、より強い国を作り上げるのです」

アショクは納得していないようでしたが、私の言葉を深く考えているようでした。

このように、私はインド中を旅しながら、非暴力と真理の力を説き続けました。それは単なる政治運動ではなく、インド人一人一人の心と魂を目覚めさせる運動でもありました。

独立への道のりは長く、困難に満ちていましたが、私は希望を失いませんでした。なぜなら、インドの人々の中に、変化を求める強い意志と、より良い未来への憧れを見出したからです。

この時期の経験は、後の大規模な非暴力運動の基礎となりました。人々の苦しみを直接見聞きし、彼らと共に歩むことで、私は真の指導者としての資質を磨いていったのです。

第6章:独立への長い道のり

イギリスからの独立を目指し、私たちは様々な非暴力運動を展開しました。その道のりは長く、困難に満ちていましたが、インドの人々の勇気と忍耐、そして非暴力への信念が、私たちを前進させ続けました。

1930年、私たちは「塩の行進」を行いました。当時、イギリス政府は塩の製造と販売を独占し、インド人に重い塩税を課していました。これは、最も貧しい人々にとって大きな負担でした。

3月12日、私は78人の仲間とともに、グジャラート州のサバルマティ・アシュラムを出発しました。私たちの目的地は、アラビア海沿岸のダンディーでした。そこで海水から塩を作り、不当な塩法に抵抗する計画でした。

24日間、400キロメートルの道のりを歩き続けました。途中、多くの人々が私たちに加わり、その数は何万人にも膨れ上がりました。

ある日、12歳の少年マノージが私に近づいてきました。彼の目は決意に満ちていました。

「ガンジーじい、私も歩いていいですか?」

私は優しく微笑んで答えました。「もちろんだよ、マノージ。でも、これは楽な旅ではないよ。準備はできているかい?」

マノージは力強く頷きました。「はい!私も国のために何かしたいんです」

この少年の勇気に、私は深く感動しました。若い世代が、非暴力と自由のために立ち上がる姿を見て、希望が湧いてきました。

4月6日、ついにダンディーの海岸に到着しました。そこで私は海水をすくい、塩を作りました。この simple な行為が、イギリス帝国への大きな挑戦となったのです。

全国各地で人々が塩の製造を始め、逮捕を恐れずに法に抵抗しました。6万人以上が投獄されましたが、私たちは決して暴力に訴えることはありませんでした。

この運動は、世界中の注目を集めました。イギリス政府は、インド人の決意の強さに驚きました。これが、独立への大きな一歩となったのです。

しかし、独立への道のりはまだ遠く、多くの試練が待っていました。第二次世界大戦が勃発し、情勢は複雑化しました。1942年、私たちは「クイット・インディア(インドを去れ)」運動を開始しました。

8月8日、ボンベイ(現在のムンバイ)で開かれた集会で、私は熱烈な演説を行いました。

「イギリス人よ、インドを去れ!我々は自由を望む。それも今すぐに!我々は、自由か死かを選ぶ。奴隷の生活は望まない!」

この演説の翌日、私を含む多くの指導者が逮捕されました。しかし、運動は止まりませんでした。全国各地で抗議行動が起こり、多くの人々が逮捕され、時には命を落とすこともありました。

刑務所の中で、私は深い悲しみと同時に、強い決意を感じました。非暴力の道が正しいことを、改めて確信しました。なぜなら、暴力は新たな暴力を生むだけだからです。

1944年、健康上の理由で釈放されました。その時、私の心は複雑な思いで一杯でした。多くの仲間がまだ刑務所にいる中、自分だけが自由になることに罪悪感を覚えました。

釈放後、ある若い活動家のアマルが私のもとを訪れました。彼の目には疲れと焦りが浮かんでいました。

「ガンジーさん、こんなに苦しんでまで、本当に独立する価値があるんですか?多くの人が命を落としています」

私は静かに答えました。「アマル、自由には代えられないものがあるんだよ。私たちの子孫のために、今、耐え忍ぶ必要があるんだ。でも覚えておいてほしい。我々の闘いは、憎しみではなく愛に基づいているんだ。敵を倒すのではなく、敵の心を変えることが目的なんだ」

アマルは黙って考え込みました。そして、やがて彼の目に決意の光が宿るのを見て、私は心強く感じました。

独立への道のりは、まだまだ続きました。しかし、この長い闘いを通じて、インドの人々は団結し、自信を取り戻していきました。非暴力の力が、世界を動かし始めていたのです。

第7章:独立と分割の悲劇

1947年8月15日、ついにインドは独立を果たしました。長年の闘いが実を結び、インドの人々は自由を手に入れたのです。しかし、その喜びは大きな悲しみと共にやってきました。インドとパキスタンの分割という悲劇が起こったのです。

独立の前夜、デリーの街は興奮と期待で溢れていました。人々は通りに繰り出し、歓声を上げ、踊っていました。私は、ビルラ・ハウスのバルコニーから、この光景を見つめていました。

しかし、私の心は喜びで一杯というわけではありませんでした。分割の決定は、私にとって大きな痛手でした。ヒンドゥー教徒とムスリムが別々の国に分かれるという考えは、私の信念に反するものでした。

独立の日、ジャワハルラール・ネルー首相が「運命との約束」演説を行う中、私はカルカッタ(現在のコルカタ)にいました。そこで、宗教対立による暴力を鎮めようと努めていたのです。

街では、ヒンドゥー教徒とムスリムの間で激しい衝突が起きていました。家々が燃え、叫び声が響き渡る中、私は必死に平和を訴え続けました。

「兄弟姉妹たちよ!なぜ争うのですか?私たちは皆、同じ神の子ではないですか?」

私は、ヒンドゥー教の聖地とイスラム教のモスクを交互に訪れ、両宗教の聖典を朗読しました。この行動は、多くの人々の心を動かしました。

ある日、若いヒンドゥー教徒の男性が私のもとを訪れました。彼の目は憎しみに燃えていました。

「ガンジーさん、ムスリムたちは私の家族を殺しました。どうして彼らを許せというのですか?」

私は深く同情の念を抱きながら、静かに答えました。「あなたの痛みはよくわかります。しかし、憎しみは新たな憎しみを生むだけです。あなたの家族は、あなたが殺人者になることを望んでいるでしょうか?」

男性は泣き崩れました。私は彼を抱きしめ、共に祈りました。

宗教の違いによる対立と暴力の嵐が吹き荒れる中、私は必死に平和を訴え続けました。時に、私の言葉は人々の心に届き、敵対していた隣人同士が和解する場面も見られました。しかし、憎しみの連鎖を完全に断ち切ることは困難でした。

「ヒンドゥー教徒もムスリムも、みんな同じ人間だ!なぜ争う必要があるんだ!」

私の叫びは、時に人々の心に届きましたが、時に届かないこともありました。それでも、私は諦めませんでした。断食を行い、自らの命を賭けて平和を訴えました。

この時期、私は深い悲しみと同時に、強い使命感を感じていました。独立は達成されましたが、真の自由と平和はまだ遠いところにあると感じたのです。

ある夜、疲れ果てて祈りの場に座っていた時、若い活動家のラヴィが私に近づいてきました。

「バプー(父という意味で、人々が私を呼ぶ愛称です)、あなたはずっと非暴力を説いてきました。でも、こんな状況でも本当に非暴力が答えなのでしょうか?」

私は深くため息をつき、ゆっくりと答えました。「ラヴィ、非暴力は弱さではない。それは最強の力なのだ。暴力は一時的な解決策かもしれないが、長期的には必ず失敗する。愛と理解こそが、永続的な平和をもたらすのだ」

ラヴィは黙って頷きました。彼の目に、新たな理解の光が宿るのを見て、私は少し希望を感じました。

この時期の経験は、私にとって最も苦しいものの一つでした。しかし、それは同時に、非暴力と愛の力を最も強く信じた時期でもありました。独立は達成されましたが、真の自由と調和のある社会を作るための闘いは、まだ始まったばかりだったのです。

終章:マハトマの遺産

1948年1月30日、私は暗殺されました。ニューデリーの祈りの集会に向かう途中、ナトゥラム・ゴドセという男性に銃で撃たれたのです。最期の瞬間、私は「ヘー・ラーム(おお、神よ)」と叫んだと言われています。

私の死は、インド中に衝撃を与えました。多くの人々が涙を流し、非暴力の使徒の死を悼みました。しかし、私の思想と精神は多くの人々の心に生き続けています。

非暴力、真理、愛…これらの価値観は、時代を超えて人々を導き続けるでしょう。私の教えは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師やネルソン・マンデラなど、世界中の平和活動家たちに影響を与えました。

私の人生を振り返ると、多くの苦難がありました。幼少期の臆病な少年から、インド独立の父と呼ばれるまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。南アフリカでの人種差別との闘い、インドでの独立運動、そして最後の分割の悲劇…。

でも、その一つ一つが私を成長させ、より強い人間に変えてくれたのだと思います。私は常に、自分の信念を貫き、真理と非暴力の道を歩み続けました。時には孤独を感じ、疑問に苛まれることもありました。しかし、人々の中に希望と勇気を見出すたびに、私は前に進む力をもらいました。

私が「マハトマ(偉大な魂)」と呼ばれるようになったのは、決して自分一人の力ではありません。共に闘ってくれた仲間たち、そして私の言葉に耳を傾け、行動してくれた多くの人々のおかげなのです。

今、この世を去った私から、皆さんに伝えたいことがあります。

自分の信じる道を歩んでください。たとえ困難があっても、愛と非暴力の心を忘れずに。そうすれば、きっと世界を変える力になれるはずです。

憎しみに憎しみを返せば、世界中が憎しみに満ちてしまいます。誰かが勇気を出して、その連鎖を断ち切らなければなりません。その「誰か」に、あなたがなってください。

そして、決して希望を失わないでください。一人一人の小さな行動が、やがて大きな変化を生み出すのです。「あなたが世界に望む変化に、自らなりなさい」。これが、私からのメッセージです。

最後に、こう付け加えたいと思います。私は完璧な人間ではありませんでした。多くの過ちも犯しました。しかし、常に真理を追求し、より良い世界を作ろうと努力し続けました。皆さんも、完璧を目指すのではなく、日々少しずつ成長し、周りの人々と共に歩んでいってください。

私の人生が、皆さんに何かのインスピレーションを与えられたなら、これ以上の喜びはありません。平和と愛が、あなたがたとともにありますように。

(終わり)

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"人権" の偉人ノベル

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