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キュリー夫人(マリ・キュリー) | 偉人ノベル
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キュリー夫人(マリ・キュリー)物語

世界史

第1章:ワルシャワの少女時代

私の名前はマリア・スクウォドフスカ。1867年11月7日、ポーランドの首都ワルシャワで生まれました。幼い頃から、私の心の中には大きな夢がありました。それは、世界の謎を解き明かすことです。

父のウワディスワフは物理学の教師で、母のブロニスワワは女子寄宿学校の校長でした。両親の影響で、私は幼い頃から科学に興味を持つようになりました。私たち家族は、姉のゾフィア、兄のユゼフ、そして妹のエラと一緒に暮らしていました。

「マニャ(私の愛称です)、この世界は不思議なことでいっぱいなんだよ。」父はよくそう言って、私に物理学の話をしてくれました。父の書斎には、様々な実験器具が並んでいて、私はそれらを見るのが大好きでした。

ある日、父の実験室で光る試験管を見たときの興奮を今でも覚えています。窓から差し込む薄暗い光の中で、青白く輝く試験管は、まるで魔法のように見えました。

「わあ!きれい!これは何?」と私が尋ねると、父は優しく微笑んで答えました。

「これはリン光といって、特殊な物質が光を放つ現象なんだ。自然界には、まだまだ私たちの知らない不思議がたくさんあるんだよ。」

その瞬間、私の心に科学への情熱が芽生えたのです。それは小さな火花のようでしたが、やがて大きな炎となって、私の人生を照らすことになるのです。

しかし、私たちの生活は決して楽ではありませんでした。当時のポーランドは、ロシア帝国の支配下にありました。ロシア帝国は、ポーランド人の民族意識を抑圧するために、学校でのポーランド語の使用を禁止し、ロシア語での教育を強制していました。

父は、そんな状況に抵抗して、秘密裏にポーランド語での授業を行っていました。ある日、父が私たちにこう語ったことを覚えています。

「子供たちよ、私たちの言葉と文化を守ることは、とても大切なことだ。しかし、同時に他の文化も尊重しなければならない。知識と理解こそが、真の自由をもたらすのだ。」

その言葉は、幼い私の心に深く刻まれました。科学への興味と同時に、自由と平等の大切さを学んだのです。

特に、女性が高等教育を受けることは難しい時代でした。多くの女性は、結婚して家庭を守ることが期待されていました。しかし、私の両親は違いました。

「マニャ、あなたには無限の可能性があるのよ。」母はよくそう言って、私を励ましてくれました。「性別なんて関係ないわ。大切なのは、あなたの情熱と努力よ。」

そんな両親の支えがあったからこそ、私は夢を諦めずに済んだのだと思います。

しかし、幸せな日々は長くは続きませんでした。私が8歳のとき、姉のゾフィアがチフスで亡くなりました。家族全員が深い悲しみに包まれました。そして、その2年後、今度は母が結核で亡くなったのです。

母が亡くなったとき、私はまだ10歳でした。突然の出来事に、私の世界は暗闇に包まれたかのようでした。毎晩、枕を濡らして泣いた日々を今でも鮮明に覚えています。

「なぜ…なぜ母さんが…」私は理解できませんでした。

そんな私を支えてくれたのは、残された家族と、そして科学でした。悲しみに暮れる中、私は勉強に打ち込みました。それが、母への最高の贈り物だと信じていたからです。

父は、悲しみの中にあっても私たちをしっかりと支えてくれました。

「マニャ、お母さんはもういないけれど、きっと天国から見守ってくれているよ。私たちは、お母さんの分まで強く生きていかなければならないんだ。」

父の言葉に勇気づけられ、私は一層勉強に励みました。学校では常にトップの成績を維持し、特に数学と科学の分野で頭角を現していきました。

しかし、ロシア帝国の支配下では、女性が大学に進学することは許されていませんでした。私の心には、もどかしさと焦りが募っていきました。

「このままでは、私の夢は叶わない…」

そんな時、姉のブロニャが一つの提案をしてくれました。

「マニャ、パリに行って勉強しない?ソルボンヌ大学なら、女性でも受け入れてくれるわ。」

その言葉は、私の心に新たな希望の光をもたらしました。パリ。科学の都。そこなら、きっと私の夢を叶えられる。そう信じて、私は新たな計画を立て始めたのです。

第2章:パリへの旅立ち

18歳になった私は、姉のブロニャとともにパリへ留学する計画を立てました。しかし、経済的な理由から、最初は姉が留学し、私は家庭教師として働きながら姉を支援することになりました。

「マニャ、あなたの番が来たら、私が全力であなたを支えるわ。」姉はそう言って、パリへ旅立ちました。姉の後ろ姿を見送りながら、私の胸は期待と不安で一杯でした。

その後の数年間、私は家庭教師として働きながら、独学で勉強を続けました。昼間は裕福な家庭の子供たちに勉強を教え、夜は自分の勉強に励みました。

ある日、私が教えていた家の主人が私の勉強している姿を見て、こう言いました。

「マリアさん、あなたはとても賢い。なぜそんなに一生懸命勉強するのかね?」

私は迷わず答えました。「私には夢があるんです。いつかパリで科学を学び、世界の謎を解き明かしたいんです。」

主人は驚いた様子で言いました。「女性が科学者になるなんて、難しいだろう。」

その言葉に、私は強い決意を込めて答えました。「難しくても、私は諦めません。必ず夢を叶えてみせます。」

夜遅くまで本を読み、実験を繰り返す日々。それは決して楽ではありませんでしたが、科学への情熱が私を支えてくれました。時には、疲れ果てて机に突っ伏すこともありました。しかし、そんな時も、母の言葉を思い出すのです。

「マニャ、あなたには無限の可能性があるのよ。」

その言葉に勇気づけられ、私は再び本を開くのでした。

ついに24歳になった私は、念願のパリ留学を実現させました。1891年11月、私はソルボンヌ大学の門をくぐりました。石造りの荘厳な建物を前に、私の心は高鳴りました。

「ここで、私の夢を叶えるのよ。」そう心に誓いながら、新しい生活が始まったのです。

しかし、パリでの生活は想像以上に厳しいものでした。言葉の壁、文化の違い、そして何より経済的な困難。私は6階建てのアパートの屋根裏部屋で、質素な暮らしを始めました。

冬は寒く、夏は暑い。食事も最小限に抑え、時にはパンとミルクだけということもありました。それでも、私は決して諦めませんでした。

「これくらいの苦労、何でもないわ。」私は自分に言い聞かせました。「母さん、父さん、見ていてね。私は必ず成功してみせるわ。」

大学での勉強は、想像以上に刺激的でした。物理学、化学、数学。新しい知識を吸収していく喜びは、何物にも代えがたいものでした。

特に、物理学の授業は私のお気に入りでした。教授の情熱的な講義に、私は完全に魅了されていました。

「物質の最小単位は何か?」教授はある日、こんな質問を投げかけました。「原子だと思っている人もいるだろう。しかし、本当にそうだろうか?私たちはまだ、物質の真の姿を知らないのかもしれない。」

その言葉は、私の心に強く響きました。未知の世界への探求心が、さらに強くなるのを感じました。

しかし、パリでの生活は決して楽ではありませんでした。貧しい下宿で質素な暮らしをしながら、必死に勉強を続けました。時には、お金がなくて食事を抜くこともありました。

ある冬の日、私は体調を崩してしまいました。高熱に苦しみながら、一人寂しくベッドで横たわっていました。そんな時、隣室に住むフランス人の女性が私を見舞ってくれました。

「マリア、大丈夫?何か必要なものはある?」

その優しさに、私は思わず涙がこぼれました。故郷を離れ、孤独を感じていた私にとって、その言葉はとても温かく感じられたのです。

「ありがとう…本当にありがとう。」

その経験から、私は人々との繋がりの大切さを学びました。科学への情熱だけでなく、人々への愛や思いやりも、私の人生に不可欠なものだと気づいたのです。

第3章:ピエールとの出会い

1894年、私の人生を大きく変える出会いがありました。物理学者のピエール・キュリーとの出会いです。

ある日、私は磁性に関する研究をしていた際、実験装置の使い方で困っていました。そんな時、一人の男性が近づいてきて、優しく声をかけてくれたのです。

「何かお困りですか?」

振り返ると、そこには温厚な表情の男性が立っていました。それが、ピエール・キュリーでした。

「はい、少し…」私は恥ずかしそうに答えました。

「マドモアゼル・スクウォドフスカ、あなたの研究に興味があります。」ピエールはそう言って、私に話しかけてきました。

彼との会話は、まるで魔法のようでした。科学への情熱、世界を変えたいという思い。私たちは多くの共通点を見出しました。

「マリア、一緒に研究をしませんか?」ピエールの誘いに、私の心は躍りました。

しかし、最初は戸惑いもありました。私には、ポーランドに帰る計画があったのです。

「でも、私には祖国があります。いつかはポーランドに戻って…」

ピエールは真剣な表情で言いました。「マリア、あなたの才能は世界中の人々のために使うべきです。ポーランドだけでなく、ここフランスでも、あなたは大きな貢献ができるはずです。」

その言葉に、私は深く考えさせられました。祖国への愛と、科学への情熱。どちらも私にとって大切なものです。しかし、ピエールの言葉には真実があると感じました。

「ピエール、あなたの言葉、よく分かりました。私…ここに残ります。一緒に研究を続けましょう。」

ピエールの顔に、喜びの表情が広がりました。

そして、1895年7月26日、私たちは結婚しました。科学への愛、そして互いへの愛。2つの愛に導かれて、新しい人生が始まったのです。

結婚式は、とてもシンプルなものでした。私た

ちは、華美な衣装や派手な祝宴よりも、互いの愛と科学への誓いを大切にしたかったのです。

式の後、ピエールは私にプレゼントをくれました。それは、一台の自転車でした。

「マリア、これからは一緒にパリの街を探索しよう。そして、科学の世界も一緒に探索しよう。」

その言葉に、私は心から幸せを感じました。自転車に乗って風を切りながら、私たちは未来への希望を語り合いました。

「ピエール、私たちなら、きっと世界を変えられるわ。」

「ああ、マリア。君となら、どんな困難も乗り越えられる気がするよ。」

新婚生活は、科学研究と家庭生活の両立という新たな挑戦でもありました。朝早くから夜遅くまで、私たちは研究に没頭しました。時には、実験がうまくいかず、落胆することもありました。

しかし、そんな時こそ、私たちは互いを励まし合いました。

「マリア、諦めないで。必ず道は開けるはずだ。」

「ええ、ピエール。私たちなら、きっと答えを見つけられるわ。」

そして、1897年には長女のイレーヌが生まれました。小さな命を腕に抱きながら、私は新たな決意を胸に刻みました。

「イレーヌ、ママとパパは、あなたのためにも、よりよい世界を作るわ。科学の力で、人々の役に立つ発見をするのよ。」

家事と育児、そして研究。多忙な日々でしたが、それでも研究への情熱は冷めることはありませんでした。むしろ、家族の存在が私たちの研究をさらに後押ししてくれたのです。

第4章:放射能の発見

1896年、私たちの研究人生に大きな転機が訪れました。アンリ・ベクレルによるウラン放射線の発見です。この発見に触発され、私たちは新しい研究テーマを見つけました。それは、ウラン鉱石から未知の物質を発見することでした。

「ピエール、この鉱石から何か新しいものが見つかるかもしれないわ。」私の直感は、正しかったのです。

何日も何週間も、私たちは実験を繰り返しました。眠る時間も惜しんで、未知の物質を追い求めました。実験室は、私たちの第二の家となりました。

ある日、私たちは奇妙な現象に気づきました。ウラン鉱石の近くに置いた写真乾板が、光に当てていないのに感光していたのです。

「ピエール、これは…」

「ああ、マリア。この鉱石から何かが放出されているんだ。」

私たちは興奮して、さらに研究を進めました。様々な元素を調べ、測定を重ねました。そして、ついに私たちは新元素を発見したのです。

1898年7月、最初の新元素を発見した時の喜びは、言葉では表現できないほどでした。

「ポロニウム!」私は興奮して叫びました。「私の祖国ポーランドにちなんで、この名前を付けましょう。」

ピエールは私の手を取り、優しく微笑みました。「素晴らしい名前だ、マリア。君の祖国への愛が、この発見に込められているね。」

さらに同年12月、私たちは2つ目の新元素を発見しました。

「ラジウム。」ピエールが静かに言いました。「光を放つという意味をこめて。」

「ピエール、私たちは歴史を作ったのよ。」私は感動で声を震わせながら言いました。

「ああ、マリア。でも、これは始まりに過ぎないんだ。この発見が、世界をどう変えるか、私たちにはまだ分からない。」

ピーールの言葉は、予言のように的中しました。これらの発見により、私たちは「放射能」という新しい概念を世界に示すことができました。しかし、その影響の大きさは、当時の私たちの想像をはるかに超えるものでした。

研究は続きました。私たちは、ラジウムの単離に挑戦しました。これは、想像以上に困難な作業でした。何トンものピッチブレンド(ウラン鉱石の一種)から、わずかなラジウムを取り出す必要があったのです。

私たちは、古い木造の小屋を実験室として使いました。そこは、雨漏りがし、冬は寒く、夏は耐えられないほど暑い場所でした。しかし、私たちにとっては、まるで魔法の城のように感じられました。

「マリア、見て!」ある夜、ピエールが興奮した声で呼びかけました。

暗い実験室で、小さな試験管が青白い光を放っていました。それは、私たちが単離したラジウムでした。

「美しい…」私はため息をつきました。「まるで、夜空の星のようね。」

「ああ、マリア。私たちは、自然の神秘の一端を垣間見たんだ。」

その瞬間、私たちは科学の美しさと、その力強さを改めて実感しました。同時に、この発見が人類にもたらす影響の大きさも、薄々感じ始めていました。

しかし、栄光の陰で、私たちは大きな代償を払っていました。放射性物質を扱う危険性を知らなかった私たちは、健康を害していたのです。

「ピエール、あなたの手…」私は夫の手の火傷を心配しました。

「大丈夫だよ、マリア。これも研究の一部さ。」ピエールは笑顔で答えましたが、私の心配は消えませんでした。

後に、この放射線被曝が私たちの健康に深刻な影響を与えることになるとは、当時の私たちには想像もつきませんでした。

第5章:栄光と苦難

1903年、私たちの研究が認められ、ノーベル物理学賞を受賞しました。アンリ・ベクレルと共同での受賞でした。

授賞式の日、私は緊張していました。女性として初めてのノーベル賞受賞。その重責を感じずにはいられませんでした。

「大丈夫よ、マリア。」ピエールが私の手を握りしめました。「私たちはここまで一緒に来たんだ。」

その言葉に勇気づけられ、私は堂々とスピーチをすることができました。

「…この発見は、科学の進歩だけでなく、人類の未来を変える可能性を秘めています。私たちは、この力を正しく使う責任があります。」

スピーチを終えると、会場から大きな拍手が沸き起こりました。その瞬間、私は科学者としての使命を改めて感じました。

しかし、栄光の陰で、私たちは大きな代償を払っていました。放射性物質を扱う危険性を知らなかった私たちは、健康を害していたのです。

ある日、実験室で作業をしていると、ピエールが突然うめき声を上げました。

「ピエール!大丈夫?」私は慌てて駆け寄りました。

「ああ、大丈夫だ。ただ、手が…」

ピーールの手には、ひどい火傷の跡がありました。放射性物質を直接触っていたせいです。

「ピーール、もう少し気をつけて。」私は心配そうに言いました。

「分かっているよ、マリア。でも、この研究は人類にとって重要なんだ。少々の犠牲は覚悟の上さ。」

ピーールの言葉に、私は複雑な思いを抱きました。科学の進歩のために身を捧げる覚悟。それは崇高なものですが、同時に危険でもあります。

「でも、あなたの健康も大切よ。私たちには、まだやるべきことがたくさんあるわ。」

その後、私たちは放射性物質の取り扱いにより注意を払うようになりました。しかし、当時はまだ放射線の危険性が十分に理解されていませんでした。私たちの体は、少しずつ蝕まれていったのです。

そして、1906年4月19日、悲劇が起こりました。ピエールが交通事故で亡くなったのです。

その日の朝、ピーールは「今日は天気がいいから、歩いて行こう」と言って家を出ました。しかし、彼が二度と戻ってくることはありませんでした。

雨の降る中、警官が私に知らせに来ました。

「奥様、申し訳ありません。ご主人が…」

その瞬間、私の世界は崩れ落ちました。

「なぜ…なぜあなたが…」私は深い悲しみに暮れました。

葬儀の日、多くの人々が参列しました。科学界の重鎮たち、学生たち、そして家族や友人たち。皆が、ピーールの死を悼んでいました。

私は、悲しみに打ちひしがれながらも、強く立とうと努めました。2人の娘たち、イレーヌとエーヴの顔を見て、私は決意を新たにしました。

「ピーールの分まで、私が研究を続けなければ。」

その決意は、単なる義務感からではありませんでした。ピーールとの約束、科学への情熱、そして人類への貢献。それらすべてが、私を前に進ませる原動力となったのです。

悲しみの中にあっても、私は研究を続けました。それは、ピーールへの最高の追悼だと信じていたからです。

「ピーール、見ていてね。私たちの夢を、私が叶えてみせるわ。」

そう心に誓いながら、私は新たな挑戦に立ち向かっていったのです。

第6章:新たな挑戦

夫を失った悲しみの中でも、私は研究を続けました。1906年、ソルボンヌ大学で夫の後任として物理学の講座を担当することになりました。女性として初めての教授就任でした。

「私にできるでしょうか…」不安な気持ちで最初の講義に臨みました。

講堂には大勢の学生が集まっていました。中には、女性が教壇に立つことに驚いた表情を浮かべる者もいました。深呼吸をして、私は講義を始めました。

「皆さん、今日から私たちは一緒に物理学の世界を探検します。この世界は、まだ多くの謎に満ちています。その謎を解き明かすのは、他でもない皆さんです。」

講義が進むにつれ、学生たちの目が輝き始めるのが分かりました。彼らの中に、科学への情熱が芽生えていくのを感じたのです。

講義が終わると、学生たちから大きな拍手が起こりました。その瞬間、私は自信を取り戻しました。

「ピエール、あなたの思いを引き継いで、私は前に進みます。」心の中でそうつぶやきました。

教授としての仕事は、想像以上に忙しいものでした。講義の準備、研究、そして2人の娘の育児。時には、すべてを両立させることに困難を感じることもありました。

ある日、娘のイレーヌが私に尋ねました。

「ママ、どうしていつも忙しいの?」

その質問に、私は少し考えてから答えました。

「イレーヌ、ママには大切な使命があるの。世界をより良くするために、科学の力を使うの。でも、あなたたちも同じくらい大切よ。」

娘の顔を見つめながら、私は改めて家族の大切さを感じました。科学への情熱と家族への愛。この2つのバランスを取ることが、私の新たな挑戦となったのです。

1911年、私は2度目のノーベル賞を受賞しました。今度は化学賞です。ラジウムの発見と単離に対する評価でした。

授賞式の日、私は感慨深い思いで壇上に立ちました。

「この賞は、私一人のものではありません。亡き夫ピエール・キュリー、そして多くの同僚たちとの共同研究の成果です。科学は、一人の力ではなく、多くの人々の協力によって進歩するのです。」

しかし、栄光の陰で、私は厳しい批判にさらされていました。ポーランド出身であること、女性であること、そして当時のスキャンダルが、私への批判の的となったのです。

ある日、新聞に私を中傷する記事が掲載されました。それを読んだ娘のイレーヌが、涙ながらに私に尋ねました。

「mama、なぜ人々はあなたを批判するの?」

私は深く息を吸い、娘の目をまっすぐ見つめて答えました。

「それはね、人々が理解できないことを恐れるからよ。新しいこと、異なることを受け入れるのは、時に難しいの。でも、私たちは真実を追究し続けなければならないの。」

「でも、mama、それは辛くないの?」

「ええ、時には辛いわ。でも、私たちの研究が人々の役に立つと信じているから、頑張れるの。いつか、みんなが理解してくれる日が来るわ。」

その言葉は、娘を励ますためだけでなく、自分自身を奮い立たせるためでもありました。批判や中傷に負けず、研究を続ける。それが、私の使命だと信じていたのです。

第7章:第一次世界大戦と晩年

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。科学者として、私は何か役立つことができないかと考えました。そして、ひらめいたのです。

「レントゲン装置を移動式にできれば、前線の兵士たちの治療に役立つはず!」

私は科学の力で人々を助けたいと考え、移動式レントゲン車(通称:プチ・キュリー)を開発しました。

「この装置で、多くの兵士の命が救えるわ。」私は娘のイレーヌとともに、前線で活動しました。

戦場は、想像を絶する過酷な環境でした。爆撃の音、負傷兵の叫び声、そして死の匂い。しかし、私たちは懸命に働きました。

ある日、重傷を負った若い兵士が運ばれてきました。

「お願いです…助けてください…」彼は苦しそうに言いました。

私たちは急いでレントゲン撮影を行い、彼の体内に残った弾丸の位置を特定しました。その情報のおかげで、医師たちは迅速に手術を行うことができました。

「ありがとうございます、マダム・キュリー。あなたのおかげで、私は生きられました。」

後日、その兵士からお礼の手紙が届きました。その言葉に、私は科学の力が人々の命を救う可能性を改めて実感しました。

戦争が終わった後も、私の研究への情熱は衰えませんでした。ラジウム研究所を設立し、若い研究者たちを育てることに力を注ぎました。

研究所では、多くの若い科学者たちが熱心に研究に取り組んでいました。彼らの目の輝きを見ると、私は自分の若い頃を思い出しました。

「皆さん、科学の力を信じてください。そして、その力を人々のために使ってください。」私は若い研究者たちにそう語りかけました。

ある日、一人の若い女性研究者が私に質問してきました。

「マダム・キュリー、女性が科学者として成功するのは難しいでしょうか?」

私は彼女の目をまっすぐ見つめて答えました。

「確かに、困難はあるでしょう。しかし、あなたの情熱と能力を信じてください。性別は関係ありません。大切なのは、あなたの心の中にある科学への愛です。」

その言葉に、彼女の目に涙が光りました。

「ありがとうございます。私、頑張ります!」

彼女の決意に満ちた表情を見て、私は自分の使命を果たせたような気がしました。

しかし、長年の放射性物質との接触により、私の健康状態は徐々に悪化していきました。目の疲れ、手の痛み、そして全身の倦怠感。それでも、私は研究を続けました。

「まだ、やるべきことがあるの。」私は自分に言い聞かせました。

1934年7月4日、私はフランスのサナトリウムで静かに目を閉じました。66歳でした。

最期の瞬間、私の脳裏には、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡りました。ワルシャワの少女時代、パリでの苦学、ピエールとの出会いと研究、そして2度のノーベル賞…

「イレーヌ、エーヴ。」最期の瞬間、私は2人の娘の名前を呼びました。「科学を愛し、人々のために尽くしなさい。」

そして、私は永遠の眠りについたのです。

エピローグ

私の人生は、科学への情熱と、人々への愛に満ちていました。2つのノーベル賞、新元素の発見、そして多くの困難。

振り返れば、決して平坦な道のりではありませんでした。しかし、私は自分の信念を貫き、夢を追い続けました。

女性として、外国人として、多くの障壁がありました。しかし、それらの障壁は、私の決意をさらに強くしただけです。

「不可能」という言葉を、私は決して受け入れませんでした。

今、私の研究は多くの人々の手に引き継がれ、さらに発展しています。放射能の発見は、医療や様々な分野で人々の役に立っています。

同時に、私たちの発見がもたらした危険性についても、人々は理解を深めています。科学の力は、使い方次第で祝福にも呪いにもなり得るのです。

私の人生が、誰かの勇気や希望になれば、これほど嬉しいことはありません。特に、科学を志す若い女性たちに、こう伝えたいです。

「あなたの才能を信じてください。困難があっても、決して諦めないで。世界には、まだ多くの謎が残されています。その謎を解き明かすのは、他でもないあなたなのです。」

科学は、まだまだ多くの謎に満ちています。でも、好奇心と情熱さえあれば、きっと新しい発見があるはずです。

あなたも、自分の「ラジウム」を見つけてください。そして、その輝きで世界を照らしてください。

私の人生は終わりましたが、科学の旅路は続いています。その旅路の中で、私の物語が少しでも皆さんの励みになれば、これほど幸せなことはありません。

さあ、未知の世界へ。新しい発見が、あなたを待っています。

"世界史" の偉人ノベル

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