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マリア・テレジア | 偉人ノベル
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マリア・テレジア物語

世界史政治

1. 幼少期と教育

私の名前はマリア・テレジア。1717年5月13日、オーストリアのウィーンで生まれました。父はカール6世、母はエリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルです。長い名前でしょう?私も覚えるのに苦労しました。

幼い頃の私は、ウィーンの華やかな宮廷で育ちました。シェーンブルン宮殿は私のお気に入りの場所で、広大な庭園で遊ぶのが大好きでした。春になると、庭には色とりどりの花が咲き乱れ、その香りに包まれながら走り回るのは最高の楽しみでした。

「テレジア、そんなに走り回っていては、将来の女帝にふさわしくありませんよ」

よく母に叱られたものです。母は厳格な人で、常に私に「淑女としての振る舞い」を求めました。正直、窮屈に感じることも多かったです。でも、父はそんな私を見て笑っていました。

「まあまあ、子供らしく遊ばせてやろう。テレジアには、これから学ぶべきことがたくさんあるのだから」

父の言葉に、私はほっとしたものです。父は忙しい人でしたが、時間があるときは私と一緒に庭を散歩してくれました。その時間が、私にとってはとても貴重でした。

「テレジア、見てごらん。あの花はチューリップというんだ。オランダから来た花でね…」

父は植物の話や、外国の話を聞かせてくれました。その話を聞きながら、私は大きな世界に思いを馳せたものです。

私の教育は厳しいものでした。歴史、地理、言語、そして政治学まで。特に言語の勉強は大変でした。ドイツ語、ラテン語、フランス語、イタリア語、そしてスペイン語。覚えなければならない単語や文法がたくさんあって、頭がパンクしそうでした。

「なぜこんなにたくさんの言葉を覚えなければいけないの?」と、私が不満を漏らすと、先生はこう答えました。

「マリア・テレジア様、あなたは将来、多くの国々を治める立場になられます。その時、それぞれの国の言葉で話せることは、とても重要なのです」

その言葉を聞いて、私は少し背筋が伸びる思いがしました。そうか、これは単なる勉強ではなく、将来の私の役割のための準備なんだ、と。

でも、私には秘密の味方がいました。侍女のマリーです。彼女は私と同い年で、勉強の合間に一緒に遊んでくれました。

「テレジア様、今日はどの言語を練習しましょうか?」

「うーん、フランス語かな。でも、その前にかくれんぼしない?」

「もう、テレジア様ったら!でも、いいですよ。見つけられたら、フランス語で10文言ってくださいね」

そんなふうに、遊びを通して楽しく学んでいきました。マリーとの時間は、厳しい宮廷生活の中で、私にとってかけがえのない息抜きでした。

ある日、私たちが庭で遊んでいると、突然父が現れました。

「テレジア、ちょっと話があるんだ」

父の表情は真剣で、私は少し緊張しました。父に連れられて書斎に入ると、そこには大きな地図が広げられていました。

「これがハプスブルク帝国だ。我々の国はヨーロッパの中心にあり、多くの国々と接している。だからこそ、常に警戒が必要なんだ」

父の話を聞きながら、私は地図を食い入るように見つめました。これほど広大な国を、いつか私が治めることになるのか…その責任の重さに、胸が締め付けられる思いがしました。

しかし、私の人生は決して平坦ではありませんでした。父には男子の後継者がいなかったのです。そのため、父は「帝国詔書」という法律を作り、女子である私が跡を継げるようにしました。でも、それは周りの国々から認められていませんでした。

ある日、父が私を呼びました。父の表情は疲れていて、心配そうでした。

「テレジア、お前はいずれこの国を治めることになる。それは決して楽な道のりではない。覚悟はできているか?」

私は少し怖くなりましたが、強く答えました。

「はい、父上。私にできることなら何でもします」

父は優しく微笑み、私の頭をなでてくれました。

「よく言った。お前なら必ずやれる。だが、忘れてはならないことがある。それは、常に民のことを思い、公平に国を治めることだ」

その言葉は、私の心に深く刻まれました。これが、私の人生を決定づける瞬間だったのです。

その夜、私は眠れませんでした。窓から見える星空を見上げながら、未来に思いを馳せました。私には、この国を守り、発展させる責任がある。そのためには、もっと学ばなければ。もっと強くならなければ。

「私にはできる。必ずや、立派な女帝になってみせる」

そう心に誓いながら、私は静かに目を閉じました。明日からは、もっと真剣に勉強に取り組もう。そう決意して、私は眠りにつきました。

2. 皇位継承と結婚

18歳になった私は、重大な決断を迫られました。それは結婚相手を選ぶことです。政略結婚が当たり前だった時代、私には選択の自由がありました。父が私の幸せを願ってくれたからです。

候補者はたくさんいました。スペイン王子、バイエルン選帝侯、そしてロートリンゲン公フランツ・シュテファン。それぞれに会って話をする機会がありましたが、私の心は、フランツ・シュテファンに惹かれていました。

フランツとの出会いは、私の人生を大きく変えました。彼は私��同じ年で、知的で優しい人でした。初めて会った時、彼は私に微笑みかけてこう言いました。

「マリア・テレジア様、お会いできて光栄です。ウィーンの噂では、あなたは美しいだけでなく、聡明だとも聞いています」

その言葉に、私は顔を赤らめてしまいました。でも、すぐに気を取り直して答えました。

「フランツ様、お世辞は結構です。私が聡明かどうかは、これからの会話で判断してください」

フランツは楽しそうに笑いました。「なるほど、噂は本当のようですね」

それから、私たちは様々な話題について語り合いました。政治、芸術、そして私たちの夢について。フランツの考え方に、私は深く共感しました。彼は単なる権力者になりたいのではなく、本当の意味で国を良くしたいと考えていたのです。

しかし、結婚の決断は簡単ではありませんでした。ある日、父が私を呼びました。

「テレジア、お前の気持ちはわかる。だが、国のことも考えなければならない」

父の言葉に、私は悩みました。確かに、政治的にはもっと有利な選択肢もあります。でも、私の心は決まっていました。こう答えました。

「父上、私はフランツと結婚したいのです。彼となら、きっと良い国造りができると信じています」

父は深くため息をつき、そして微笑みました。

「わかった。お前の幸せが何より大切だ。フランツ・シュテファンとの結婚を認めよう」

1736年2月12日、私たちは結婚しました。式は華やかで、ウィーン中が祝福ムードに包まれました。大聖堂でのセレモニーは厳かで、私は緊張のあまり足が震えていました。でも、フランツが私の手を握ってくれると、不思議と落ち着きました。

「マリア、君と一緒に歩んでいけることを、心から嬉しく思う」

フランツの言葉に、私は幸せで胸がいっぱいになりました。

結婚後の生活は、幸せなものでした。フランツは私の良き理解者であり、助言者でもありました。私たちは政治の話をすることも多く、彼の意見は私にとって大変貴重でした。

しかし、幸せな日々は長くは続きませんでした。1740年10月20日、父が亡くなったのです。わずか23歳の私が、広大なハプスブルク帝国を継ぐことになりました。

父の死の知らせを聞いた時、私は言葉を失いました。悲しみと不安が押し寄せてきて、しばらくは何も考えられませんでした。フランツが私を抱きしめてくれましたが、それでも心の中は嵐のようでした。

戴冠式の日、私は緊張で震えていました。重い王冠をかぶり、玉座に座ると、突然の孤独感に襲われました。大聖堂に集まった貴族たちの視線が、まるで重荷のように感じられました。

「私にできるのだろうか…」

そんな不安を感じていた時、フランツが私の手を握ってくれました。

「大丈夫だ、マリア。君には必ずできる。私がいつも側にいるよ」

その言葉に勇気づけられ、私は決意を新たにしました。深呼吸をして、集まった人々に向かって話し始めました。

「皆さん、私はこれからハプスブルク帝国の女帝として、全力を尽くして統治にあたることを誓います。どうか、私をお支え下さい」

その瞬間、大聖堂に大きな拍手が沸き起こりました。その音を聞きながら、私は心の中で父に語りかけました。

「父上、安心してください。私が必ずやこの国を守り、発展させてみせます」

こうして、私の統治が始まりました。しかし、それは決して平坦な道のりではありませんでした。多くの困難が待ち受けていたのです。でも、その時はまだ知りませんでした。これから始まる激動の日々のことを…

3. オーストリア継承戦争

私が即位してすぐ、大きな試練が待っていました。それが「オーストリア継承戦争」です。

ある朝、急な報告が入りました。プロイセン王フリードリヒ2世が、突如シレジアに侵攻してきたのです。彼は父の「帝国詔書」を認めず、私の即位を否定しました。

「なんてことだ…」

私は絶望的な気分になりました。シレジアは豊かな地域で、帝国にとって重要な場所です。それを失うわけにはいきません。でも、どうすればいいのでしょう?

そんな時、側近のバルテンシュタインが私に言いました。

「陛下、今こそ強さを見せるときです。ハンガリーの貴族たちに支援を求めましょう」

その助言に従い、私はハンガリー議会に向かうことにしました。しかし、それは簡単な決断ではありませんでした。ハンガリーとの関係は複雑で、彼らは常にハプスブルク家の支配に不満を持っていたのです。

議会に向かう馬車の中で、私は不安に押しつぶされそうでした。そんな私を見て、フランツが優しく声をかけてくれました。

「マリア、君ならできる。ハンガリーの人々の心を動かせるはずだ」

その言葉に勇気づけられ、私は深呼吸をして心を落ち着かせました。

議会に到着すると、そこには厳しい表情の貴族たちが集まっていました。私は6ヶ月の赤ん坊だった長男ヨーゼフを抱いて演説台に立ちました。

「ハンガリーの皆さん」私は震える声を抑えて話し始めました。「私たちは今、危機に瀕しています。敵が我々の領土を脅かしているのです」

会場は静まり返っています。私は続けました。

「私は、皆さんの女王として、そしてこの子の母として、お願いします。どうか、私たちを守ってください。この子の未来を、そして我々の国の未来を守るために」

その言葉に、議会は沸きました。

「我々の女王陛下のために命を捧げよう!」

ハンガリーの貴族たちが立ち上がってくれたのです。その瞬間、私の目に涙が溢れました。感謝と安堵の涙です。

この支援を得て、私たちは反撃を開始しました。しかし、戦争は長く苦しいものでした。何度も負けそうになりました。

ある日、前線からの悪い知らせを聞いて、私は落胆のあまり泣き崩れてしまいました。そんな私を見て、フランツが優しく肩を抱いてくれました。

「マリア、諦めてはいけない。我々にはまだチャンスがある」

「でも、フランツ…もう勝ち目はないわ」

「いや、ある。君の強さを信じている。民も君を信じているんだ」

フランツの言葉に、私は少し勇気を取り戻しました。そうだ、諦めるわけにはいかない。父上の遺志を守るためにも…

「負けるわけにはいかない。父上の遺志を守るためにも…」

そう自分に言い聞かせ、戦い続けました。時には眠る時間も惜しんで作戦会議を行い、時には自ら兵士たちを激励しに行きました。

1748年、ついに和平が成立しました。シレジアはプロイセンに奪われてしまいましたが、それ以外の領土を守ることができました。

和平条約に署名する時、私の心は複雑でした。シレジアを失ったことは大きな痛手です。でも、それ以外の領土を守れたことは、小さくない勝利でもあります。

「これで、ようやく平和が…」

そう思った矢先、フランツが私の肩に手を置きました。

「マリア、これは終わりじゃない。むしろ始まりだ。これからが本当の戦いなんだ」

フランツの言葉に、私は頷きました。そうです。これからが本当の挑戦なのです。国を立て直し、より強くしていかなければなりません。

この戦争で、私は多くのことを学びました。外交の重要性、軍事力の必要性、そして何より、民の支持がいかに大切かということです。

「これからは、もっと国を強くしなければ」

私は心に誓いました。この経験が、のちの改革につながっていくのです。そして、私はまだ知りませんでしたが、これは私の人生の中で最も大きな挑戦の始まりに過ぎなかったのです。

4. 内政改革

戦争が終わり、私は国内の改革に力を入れ始めました。まず取り組んだのは、行政と財政の立て直しです。

戦争で疲弊した国庫を見て、私は愕然としました。このままでは、国が立ち行かなくなってしまいます。

「このままでは、国が立ち行かなくなってしまう…」

私は、信頼できる側近たちと夜遅くまで話し合いを重ねました。カウニッツ伯爵、ハウグヴィッツ伯爵など、優秀な人材に恵まれたことは、私の大きな強みでした。

ある夜の会議で、ハウグヴィッツ伯爵が一つの提案をしました。

「陛下、税制を改革し、貴族にも税金を払ってもらうのはどうでしょう?」

これは大胆な提案でした。当時、貴族は税金を払っていなかったのです。案の定、この案が漏れ聞こえると、貴族たちから猛反対の声が上がりました。

ある日、怒った貴族たちが宮殿に押しかけてきました。

「とんでもない!我々の特権を奪うつもりか?」

彼らの怒声を聞きながら、私は深呼吸をして冷静さを保とうとしました。そして、こう答えました。

「皆さん、この国をより強く、より豊かにするためには、皆で力を合わせなければなりません。貴族の皆さんにも、その一翼を担っていただきたいのです」

しかし、貴族たちは簡単には納得しませんでした。何日も、何週間も、粘り強く説得を続けました。時には夜遅くまで個別に話し合いを持ち、時には公の場で演説をしました。

ある日、疲れ果てた私は、フランツに弱音を吐いてしまいました。

「もう無理かもしれない…貴族たちの反対が強すぎるわ」

フランツは優しく私の手を取り、こう言いました。

「マリア、君は正しいことをしているんだ。諦めてはいけない。時間はかかるかもしれないが、必ず理解してくれる人が出てくる」

その言葉に勇気づけられ、私は再び立ち上がりました。そして、ついに新しい税制を導入することができたのです。

教育改革にも力を入れました。それまで教育は主に教会が担っていましたが、私は国家が管理する公教育制度を作りました。

「すべての子供たちに、平等に学ぶ機会を与えたい」

そう考えた私は、6歳から12歳までの義務教育制度を導入しました。これは、当時のヨーロッパでは画期的なことでした。

しかし、この改革も簡単ではありませんでした。教会からの反対もあれば、「農民の子供に教育は必要ない」という声もありました。

ある日、私は地方の小さな村を訪れました。そこで出会った一人の少女が、私の心を動かしました。

「陛下、私は字が読めるようになりたいんです。でも、うちには学校に行くお金がありません…」

その少女の瞳に映る希望と失望を見て、私は決意を新たにしました。どんな反対があっても、この改革は絶対に成し遂げなければならない。すべての子供たちに、平等な機会を与えるために。

また、医療制度の改革も行いました。ウィーンに大きな総合病院を建設し、医学教育も充実させました。

「病気で苦しむ人を一人でも減らしたい」

その思いで、私は夜遅くまで病院を視察し、患者たちの声に耳を傾けました。医師たちとも話し合い、より良い治療法や衛生管理の方法を模索しました。

これらの改革は、決して簡単ではありませんでした。反対する人も多くいました。でも、私は諦めませんでした。

「より良い国を作るためなら、どんな困難も乗り越えてみせる」

そう心に誓いながら、改革を進めていきました。時には失敗もありましたが、少しずつ成果が表れ始めました。税収は増え、教育を受ける子供たちの数も増えていきました。

そんな中、1765年、最愛の夫フランツが突然亡くなりました。大きな悲しみに襲われましたが、私は国のために立ち上がらねばなりませんでした。

フランツの葬儀の日、私は黒い喪服に身を包み、棺の前に立ちました。涙が止まりませんでしたが、それでも強くあろうとしました。

「フランツ、私に力を貸して…」

夫の遺志を胸に、私はさらなる改革に取り組んでいったのです。それは、フランツとの約束でもありました。より良い国を作ること。そして、私たちの子供たち、そしてすべての国民のために、よりよい未来を築くこと。

その後も、私は改革の手を緩めませんでした。時には反対にあい、時には挫折しそうになり���したが、その度に私は立ち上がりました。なぜなら、これは単なる私の夢ではなく、この国の、そしてこの国に生きるすべての人々の未来がかかっているからです。

5. 七年戦争

1756年、再びプロイセンとの戦争が始まりました。これが「七年戦争」です。

「また戦争か…」

私の胸は痛みました。前回の戦争の傷跡がまだ癒えていないのに、また多くの命が失われることを思うと、言葉にできない悲しみがこみ上げてきました。

しかし、今度は前回の教訓を活かし、同盟国をしっかりと確保していました。フランス、ロシア、そしてスウェーデンとの同盟です。

「今度こそ、シレジアを取り戻すわ」

そう決意して、戦いに臨みました。しかし、現実は厳しいものでした。

戦況は一進一退。勝ったり負けたりの連続でした。前線からの報告を聞くたびに、私の心は揺れ動きました。勝利の知らせに喜び、敗北の報告に落胆する。そんな日々が続きました。

ある日、私は前線の兵士たちを訪れることにしました。彼らの士気を高めるためです。しかし、実際に目にしたものは、私の想像をはるかに超えていました。

兵士たちの疲れ切った顔、傷ついた体、そして空虚な目。彼らの姿を見て、私は胸が締め付けられる思いでした。

「皆さん、本当にありがとう。あなた方の勇気と献身に、心から感謝します」

私はできる限り明るく、力強く語りかけました。すると、兵士たちは涙ぐみながら私に敬礼しました。

「陛下のために、我々はどこまでも戦います!」

その言葉に、私も涙が止まりませんでした。彼らの忠誠心と勇気に、深く感動したのです。

「必ず、皆さんの犠牲に報いてみせます。この戦いに勝利し、平和な国を作り上げます」

そう誓いながら、私は前線を後にしました。

戦争は7年も続きました。その間、私は毎日のように戦況を確認し、作戦会議に参加しました。時には夜遅くまで資料を読み、時には早朝から外交交渉に臨みました。

多くの人命が失われ、国の財政も大きな打撃を受けました。毎日のように届く戦死者のリストを見るたびに、私の心は痛みました。

「これ以上、犠牲を出してはいけない…」

そう思いながらも、戦いを止めることはできませんでした。なぜなら、この戦いに負ければ、国の存続さえ危うくなるからです。

1763年、ついに和平が成立しました。しかし、結果は思わしくありませんでした。シレジアを取り戻すことはできず、多大な犠牲を払っただけでした。

和平条約に署名する時、私の手は震えていました。これで終わりなのか。これだけの犠牲を払って、得たものは何なのか。

「こんなことのために、多くの命が…」

私は深く落胆しました。書斎に一人閉じこもり、涙が止まりませんでした。

そんな時、長男のヨーゼフが部屋に入ってきました。彼はすでに成人し、共同統治者として私を支えてくれていました。

「母上、確かに我々は大きな犠牲を払いました。しかし、この経験から学ぶべきことがあるはずです」

ヨーゼフの言葉に、私は顔を上げました。

「何を学べばいいというの?」

「戦争の無意味さです。そして、平和の尊さです。これからは、戦争を避け、外交で問題を解決する方法を考えるべきではないでしょうか」

ヨーゼフの言葉に、私は深く考え込みました。そうだ、彼の言う通りです。この苦い経験から、私たちは大切なことを学んだのです。

「戦争は最後の手段でなければならない。外交でできることは、まず外交で解決すべきだ」

この教訓は、私の後の政策に大きな影響を与えることになります。

戦後、私はさらに内政改革に力を入れました。軍の近代化、産業の育成、そして教育の充実。これらを通じて、国を内側から強くしていったのです。

「二度とこのような悲劇を繰り返さないために…」

そう誓いながら、私は前を向いて歩み続けました。それは決して容易な道のりではありませんでしたが、私には明確な目標がありました。より強く、より豊かで、より平和な国を作ること。そして、次の世代に、より良い未来を残すこと。

この経験は、私に多くのことを教えてくれました。戦争の恐ろしさ、平和の尊さ、そして何より、人々の命の大切さ。これらの教訓を胸に刻み、私はこれからの統治に臨んでいくことを決意したのです。

6. 晩年と遺産

時が流れ、私も年を重ねていきました。子供たち、特に長男のヨーゼフが成長し、政治に関わるようになりました。

ヨーゼフは、私よりもっと急進的な改革を望んでいました。彼の情熱と理想は素晴らしいものでしたが、時として現実離れしているように感じられました。

ある日、ヨーゼフが私の執務室に入ってきました。彼の目は輝いていましたが、その表情には焦りも見えました。

「母上、もっと大胆な改革が必要です。農奴制を廃止し、宗教の自由を認めるべきです」

彼の主張に、私は戸惑いを感じました。確かに、彼の言うことは理想的です。しかし、現実はそう簡単ではありません。

「ヨーゼフ、急ぎすぎてはいけない。改革は大切だが、伝統も尊重しなければならないのよ」

「でも母上、このままでは国が遅れをとってしまいます。我々は変わらなければならないのです」

ヨーゼフの熱意は理解できます。しかし、私には長年の経験から得た知恵がありました。

「変化は必要よ。でも、急激な変化は反発を招くだけ。人々の心を動かし、理解を得ながら、少しずつ進めていくべきなの」

私たちは、しばしば意見が対立しました。しかし、それは国をより良くしたいという思いの表れでもありました。時には激しい議論になることもありましたが、最後には必ず歩み寄りの道を見つけ出しました。

そんな中、私の健康は少しずつ衰えていきました。でも、最後まで国のことを考え続けました。

1780年11月29日、私の人生の幕が下りようとしていました。臨終の床で、私は家族や側近たちに最後の言葉を残しました。

部屋には、ヨーゼフをはじめとする子供たち、そして長年私を支えてくれた側近たちが集まっていました。皆の顔に浮かぶ悲しみと不安を見て、私は最後の力を振り絞って話し始めました。

「私は、常に民のために全力を尽くしてきたつもりです。完璧ではなかったかもしれません。でも、この国をより良いものにしようと努力してきました」

一瞬、息を整えてから、続けました。

「これからは、あなた方にその責任を託します。どうか、民のことを第一に考え、公正に国を治めてください」

ヨーゼフが私の手を握り、涙ながらに頷きました。

「母上、あなたの遺志を必ず継いでみせます」

私は微笑み、そして静かに目を閉じました。

私の治世は40年に及びました。その間、多くの改革を行い、ハプスブルク帝国を近代国家へと導きました。教育制度、医療制度、行政改革など、私が始めたことの多くは、その後も続いていきました。

私の子供たちも、それぞれの道で活躍しました。ヨーゼフは私の後を継いで皇帝となり、さらなる改革を進めました。彼の改革は時として急進的すぎて反発を招きましたが、それでも多くの重要な変革をもたらしました。

マリー・アントワネットはフランス王妃となりましたが、フランス革命の中で悲劇的な最期を迎えることになります。彼女の運命を知ったとき、私はきっと天国で涙を流したことでしょう。

私の人生は、決して平坦ではありませんでした。戦争、改革への抵抗、家族の喪失など、多くの困難がありました。しかし、私は常に「為せば成る」という信念を持ち続けました。

振り返ってみれば、私の人生は波乱に満ちていましたが、充実したものでした。私が行った改革の多くは、後の時代にも影響を与え続けています。

教育制度の確立により、より多くの人々が知識を得る機会を持ちました。これは、国の発展に大きく寄与したはずです。

医療制度の改革は、多くの人々の命を救いました。病院の設立や医学教育の充実は、後の世代にも引き継がれ、さらに発展していったことでしょう。

行政改革や税制改革は、国家の基盤を強化しました。これにより、ハプスブルク帝国はその後も長く存続することができたのです。

しかし、私の治世にも限界はありました。農奴制の完全な廃止や、宗教の完全な自由化など、実現できなかったこともあります。これらの課題は、後の世代に引き継がれることになりました。

私の物語から、皆さんに何を感じ取ってもらえたでしょうか。リーダーとしての責任、改革の重要性、そして何より、民のために尽くすことの大切さ。これらのことを、心に留めておいてもらえたら嬉しいです。

また、変化と伝統のバランス、理想と現実の調和の難しさも感じ取っていただけたでしょうか。改革は必要ですが、同時に人々の理解と支持を得ることも重要です。この難しいバランスを取ることが、真のリーダーシップなのかもしれません。

そして、何より大切なのは、諦めないことです。私は多くの困難に直面しましたが、その度に立ち上がり、前を向いて歩み続けました。皆さんも、困難に直面したとき、諦めずに前を向いて歩んでいってください。

歴史は続いていきます。そして、その歴史を作るのは、他でもない皆さん一人一人なのです。どうか、自分の信じる道を歩み、よりよい世界を作ってください。

私の時代とは違う課題があるでしょう。新しい技術や考え方が生まれているかもしれません。でも、人々のために尽くすという基本的な姿勢は、いつの時代も変わらないはずです。

これが、マリア・テレジアことわたしからの、最後のメッセージです。皆さんの人生が、充実したものになりますように。そして、皆さんの手で、よりよい世界が作られていくことを、心から願っています。

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