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ホーキング | 偉人ノベル
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ホーキング物語

世界史

第1章: 好奇心旺盛な少年時代

私の名前はスティーヴン・ホーキング。1942年1月8日、第二次世界大戦の真っ只中のイギリス、オックスフォードで生まれました。両親はフランク・ホーキングとアイザベル・ホーキング。父は熱帯病の研究者で、母は秘書として働いていました。

幼い頃から、私は宇宙や星に魅了されていました。夜空を見上げると、無限に広がる宇宙の神秘に心を奪われたものです。「あの星々の向こうには何があるんだろう?」「宇宙にはどんな秘密が隠されているんだろう?」そんな疑問が、幼い私の頭の中を駆け巡っていました。

8歳の時、家族でロンドンに引っ越しました。新しい環境に戸惑いもありましたが、そこで出会った本が私の人生を変えることになります。それは、アインシュタインの相対性理論についての本でした。難しい数式だらけでしたが、時間と空間が曲がるという考えに、私は心を奪われました。

「お父さん、この本に書いてあることは本当なの?」と私は尋ねました。

父は微笑んで答えました。「そうだよ、スティーヴン。アインシュタインは宇宙の仕組みを新しい方法で理解しようとしたんだ。君もいつか、そんな大発見ができるかもしれないね」

その言葉が、私の心に火をつけました。それ以来、私は科学への興味をますます深めていきました。

学校では、数学と科学が大好きでした。先生方は私の好奇心を大いに刺激してくれました。特に、ディキンソン先生との出会いは忘れられません。

ある日の授業で、私は宇宙の始まりについて質問しました。「先生、宇宙はどうやって始まったんですか?」

ディキンソン先生は、クラスの皆の前で私の質問を取り上げてくれました。「素晴らしい質問だ、スティーヴン。実は、その問いに対する完全な答えはまだ誰も知らないんだよ。でも、君のような好奇心旺盛な若者が、いつかその謎を解き明かすかもしれない」

そして、先生はこう付け加えました。「スティーヴン、君の頭の中は宇宙そのものだね」

「どういう意味ですか?」と私は尋ねました。

「君の質問や考え方は、まるで宇宙のように広大で深遠だということさ。その好奇心を大切にしなさい。きっと素晴らしい発見につながるはずだよ」

先生の言葉は、私の心に深く刻まれました。それ以来、私はさらに熱心に勉強に打ち込みました。

家族や友人たちは、私の変わった趣味を面白がっていました。夏休みには、庭に天文台を作ろうとしたこともあります。

「スティーヴン、屋根に穴を開けるのはやめなさい!」と母が叫んだのを覚えています。

「でも、望遠鏡を設置するには必要なんだ!」と私は必死に説明しましたが、結局その計画は断念せざるを得ませんでした。

代わりに、父が古い双眼鏡をくれました。「これで星を観察してみたらどうだ?」と父は提案しました。その夜、私は庭で何時間も過ごし、月のクレーターや木星の縞模様を観察しました。その経験は、私の宇宙への興味をさらに深めることになりました。

そんな私を、両親はいつも温かく見守ってくれていました。父は科学の話を聞かせてくれ、母は私の夢を応援してくれました。家族の支えがあったからこそ、私は自分の興味を追求し続けることができたのだと思います。

学校では、時々「変わり者」と呼ばれることもありました。数学の問題を解くのが好きで、休み時間も図書館で本を読んでいることが多かったからです。でも、私にはそれが楽しかったのです。

ある日、クラスメイトのトムが私に声をかけてきました。「なあ、スティーヴン。君はいつも難しそうな本を読んでるけど、面白いの?」

私は少し考えてから答えました。「うん、とても面白いよ。宇宙のことを知れば知るほど、もっと知りたくなるんだ。まるで大きなパズルを解いているみたいなんだ」

トムは首をかしげました。「僕には難しそうだけど、君が楽しそうなら良いんじゃないかな」

この会話を通じて、私は自分の興味が特別なものだということを改めて実感しました。同時に、それを恥じる必要はないとも思いました。むしろ、自分の好奇心を大切にし、それを追求することの重要性を学んだのです。

第2章: オックスフォード大学での日々

17歳になった私は、オックスフォード大学に入学しました。物理学を専攻し、宇宙の謎に迫る研究者になることを夢見ていました。大学生活は、新しい発見と挑戦の連続でした。

入学当初は、周りの学生たちの優秀さに圧倒されました。「本当に自分にはここでやっていけるのだろうか」という不安も感じました。しかし、そんな不安も、宇宙への好奇心が打ち消してくれました。

講義は難しく、時には挫折しそうになることもありました。特に、量子力学の概念は私にとって大きな挑戦でした。粒子が同時に波でもあるという考えは、直感に反するものでした。

ある日、量子力学の講義後、私は教授に質問しました。「先生、シュレーディンガーの猫の思考実験は本当に現実を表しているのでしょうか?」

教授は微笑んで答えました。「ホーキング君、その質問は物理学者たちを何十年も悩ませてきたものだよ。量子の世界は、私たちの日常的な経験とはかけ離れている。だからこそ、新しい考え方が必要なんだ」

この会話は、私に大きな影響を与えました。難解な概念に直面しても、それを理解しようと努力し続けることの重要性を学んだのです。

夜遅くまで図書館で勉強し、友人たちと熱い議論を交わしました。特に、親友のロジャーとの議論は、私の思考を鍛えてくれました。

ある日、図書館で勉強していた時のことです。

「スティーヴン、君は本当に宇宙のことが好きだね」とロジャーが言いました。

「うん、宇宙には答えのない謎がたくさんあるんだ。それを解き明かしていくのが楽しいんだよ」と私は答えました。

「でも、そんなに難しいことを考え続けて疲れないの?」

「疲れることもあるよ。でも、新しいことを理解できた時の喜びは何にも代えがたいんだ」

ロジャーは少し考え込んでから言いました。「君の情熱を見ていると、私も頑張らなきゃって思えてくるよ」

この会話は、私にとって大きな励みになりました。自分の情熱が他人にも良い影響を与えられることを知り、さらに研究に打ち込む決意を固めました。

大学生活は、学問だけでなく、人間的にも成長する機会でした。様々な背景を持つ学生たちとの交流は、私の視野を広げてくれました。科学以外の分野、例えば哲学や芸術についても学ぶ機会があり、それらが後の私の研究にも影響を与えることになります。

しかし、大学3年生の時、私は奇妙な症状に悩まされるようになりました。時々、つまずいたり、物を落としたりするのです。最初は疲れのせいだと思っていましたが、症状は徐々に悪化していきました。

ある日、階段を降りている時に転んでしまいました。幸い大きなけがはありませんでしたが、この出来事は私に大きな不安を感じさせました。

「何か変だ。体が思うように動かない」と、私は友人のロジャーに打ち明けました。

ロジャーは心配そうに言いました。「スティーヴン、それは本当に深刻かもしれない。医者に診てもらったほうがいいよ」

私も同意し、心配した両親は、私を病院に連れて行きました。そこで、私は人生を大きく変える診断を受けることになるのです。

第3章: 運命の診断

21歳の時、私は筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されました。医師の言葉は、まるで雷に打たれたかのようでした。

「ホーキングさん、あなたの症状はALSによるものです。この病気は進行性で、やがて体の機能のほとんどを失うことになります」

私は呆然としました。「どれくらい生きられるのでしょうか?」と、震える声で尋ねました。

医師は重々しく答えました。「通常、2〜3年程度です」

その瞬間、私の世界は崩れ落ちたように感じました。せっかく描いていた未来の夢、宇宙の謎を解き明かすという目標、すべてが砂上の楼閣のように思えました。

診断後、私は深い絶望に陥りました。なぜ自分がこんな病気になったのか、どうして若くして人生を終えなければならないのか、そんな思いが頭の中を駆け巡りました。

両親は私を励まそうとしてくれましたが、その言葉も空虚に聞こえました。「スティーヴン、希望を捨てないで」と母は言いましたが、私には希望が見出せませんでした。

友人のロジャーは、私の状況を知ると、毎日のように病院に来てくれました。彼は私に最新の物理学の話題を持ってきてくれ、私の気を紛らわせようとしてくれました。

ある日、ロジャーはこう言いました。「スティーヴン、君の頭脳は健在だ。体は不自由になるかもしれないけど、君の素晴らしい頭脳で、まだ多くのことができるはずだよ」

その言葉は、私の心に小さな光を灯してくれました。そうだ、私にはまだ頭脳がある。それを使って、できることがあるはずだ。

しかし、完全に希望を取り戻すまでには時間がかかりました。ある日、病院の窓から外を眺めていると、車椅子に乗った男性が、笑顔で家族と話しながら通り過ぎていくのが見えました。その光景は、私に大きな衝撃を与えました。

「障害があっても、幸せに生きることができるんだ」

その瞬間、私の中で何かが変わりました。自分の状況を嘆くのではなく、残された可能性に目を向けようと決意したのです。

そして、ある日、私の人生を変える出来事が起こりました。それは、同じ大学院に通っていたジェーン・ワイルドとの出会いでした。

ジェーンは私の状況を知りながらも、私を一人の人間として見てくれました。彼女の存在が、私に生きる希望を与えてくれたのです。

「スティーヴン、あなたの頭脳は素晴らしいわ。病気があっても、きっと素晴らしい研究ができるはずよ」

ジェーンの言葉に、私は勇気づけられました。そして、自分の置かれた状況を受け入れ、残された時間で何ができるかを考えるようになりました。

「たとえ体が動かなくなっても、頭は働く。だったら、できる限りのことをしよう」

そう決意した私は、再び研究に打ち込み始めました。ALSとの闘いは始まったばかりでしたが、同時に宇宙の謎に挑む新たな旅が始まったのです。

この経験を通じて、私は人生の価値が、単に健康や寿命だけでないことを学びました。どんな状況でも、自分にできることを見つけ、それに全力を尽くすことが大切なのだと気づいたのです。

また、周りの人々の支えの重要性も痛感しました。家族、友人、そしてジェーンの存在が、私に生きる勇気を与えてくれたのです。彼らの支えがなければ、私はここまで来ることはできなかったでしょう。

診断から数ヶ月後、私は車椅子を使い始めました。最初は抵抗がありましたが、次第にそれを受け入れるようになりました。車椅子は私の移動の自由を奪うものではなく、むしろ新たな可能性を与えてくれるものだと考えるようになったのです。

「この車椅子は、私の新しい足だ。これで、宇宙の謎を追いかける旅を続けられる」

そう考えることで、私は前を向いて生きる力を得ました。ALSとの闘いは始まったばかりでしたが、同時に宇宙の謎に挑む新たな旅が始まったのです。

第4章: 研究者としての挑戦

ケンブリッジ大学の大学院に進学した私は、宇宙論の研究に没頭しました。体の状態は徐々に悪化していきましたが、頭脳は冴えわたっていました。

指導教官のデニス・シアマ教授は、私の可能性を信じてくれました。彼は私の障害を全く気にせず、純粋に私の研究能力を評価してくれました。

ある日、シアマ教授は私にこう言いました。「スティーヴン、君の理論は革新的だ。ブラックホールの研究を深めてみてはどうかね?」

この提案は、私の研究人生を大きく変えることになります。ブラックホールは、当時まだ多くの謎に包まれていました。その研究は、一般相対性理論と量子力学という、一見相反する2つの理論を結びつける鍵になるかもしれないと考えたのです。

研究は困難を極めました。複雑な数式を頭の中で組み立て、検証していく作業は、健常者でも難しいものです。しかし、私にとってはそれが唯一の方法でした。体が動かなくなっていく中で、頭脳だけが私の武器だったのです。

1970年、私はブラックホールが実は完全な「黒」ではなく、微量の放射を放出しているという理論を発表しました。これは後に「ホーキング放射」と呼ばれるようになります。

この発見は、物理学界に大きな衝撃を与えました。ブラックホールは光さえも吸い込む天体だと考えられていましたが、私の理論はそれを覆すものだったのです。

多くの科学者が私の理論に興味を示し、議論が巻き起こりました。中には批判的な意見もありましたが、それも私の研究を深める原動力となりました。

ある学会で、著名な物理学者から厳しい質問を受けたことがあります。

「ホーキング博士、あなたの理論は従来の物理学の常識を覆すものです。本当にそれが正しいと言い切れるのですか?」

その時、私は自信を持って答えました。

「はい、私の計算は正確です。この理論は、量子力学と一般相対性理論を結びつける重要な鍵になると確信しています」

この答えに、会場は静まり返りました。そして、やがて大きな拍手が沸き起こったのです。

この経験は、私に大きな自信を与えてくれました。障害があっても、自分の頭脳と努力次第で、世界を変えるような発見ができるのだと実感したのです。

研究の成果が認められるにつれ、私の名声は高まっていきました。講演の依頼や、著名な科学誌への寄稿の機会も増えていきました。

しかし同時に、ALSの症状も進行していきました。話すことも、書くことも難しくなり、車椅子生活を余儀なくされました。日常生活のほとんどを介助者に頼らざるを得なくなりました。

ある日、私は介助者のジョンに言いました。「ジョン、体は動かなくなっても、頭の中では宇宙を旅しているんだ」

ジョンは笑って答えました。「博士、あなたの頭の中の宇宙は、私たちが見ている宇宙よりずっと広大なんでしょうね」

この会話は、私に改めて研究の意義を感じさせてくれました。体は不自由でも、想像力と思考力があれば、宇宙の果てまで探索できるのです。

1985年に気管切開手術を受けることになりました。手術後、私は発声能力を完全に失ってしまいました。コミュニケーションを取ることが極めて困難になり、研究生活の継続が危ぶまれました。

しかし、ここでも技術が私を救ってくれました。コンピューター制御の音声合成装置が開発され、私は再び「声」を取り戻すことができたのです。

この装置を使って、私は「ホーキング博士の声」として知られるようになった特徴的な話し方で、再び講義や講演を行えるようになりました。

「この声は最初は違和感がありましたが、今では自分の一部だと感じています。これのおかげで、私は世界中の人々と交流し、自分の考えを伝えることができるのです」

障害を乗り越え、研究を続ける私の姿は、多くの人々に勇気と希望を与えることになりました。私は単なる物理学者ではなく、困難に立ち向かう象徴としても見られるようになったのです。

この章での経験を通じて、私は科学の力と人間の可能性を改めて実感しました。どんなに困難な状況でも、諦めずに挑戦し続けることで、驚くべき成果を上げることができるのです。そして、その過程で多くの人々の支えと励ましがあったことを、私は決して忘れません。

第5章: 『時間順序簡潔史』と世界的名声

1988年、私は一般向けの著書『時間順序簡潔史』を出版しました。この本は、難解な宇宙論を一般の人々にも分かりやすく説明することを目指したものでした。

「宇宙の謎は、決して専門家だけのものではありません。誰もが宇宙について考え、その不思議さを楽しむことができるはずです」

そう考えた私は、できるだけ平易な言葉で宇宙の成り立ちから、時間の概念、ブラックホールまでを解説しました。

本の執筆は決して楽ではありませんでした。ALSの症状が進行し、文章を書くのにも多大な時間と労力がかかりました。一文を完成させるのに何時間もかかることもありました。

ある日、私は助手のジェーンに言いました。「この本を書くのは、まるで砂漠を歩いているようだ。ゴールが見えないし、一歩進むのも大変だ」

ジェーンは優しく微笑んで答えました。「でも、博士。砂漠の向こうには、きっと素晴らしいオアシスがあるはずです。あなたの言葉が、多くの人々にとってのオアシスになるんです」

その言葉に励まされ、私は執筆を続けました。時には夜中まで作業することもありましたが、宇宙の素晴らしさを多くの人と共有したいという思いが、私を突き動かしました。

本が出版されると、予想を遥かに超える反響がありました。『時間順序簡潔史』は世界的なベストセラーとなり、40以上の言語に翻訳されました。多くの人々が、初めて宇宙の不思議さに触れ、科学に興味を持つきっかけとなったのです。

ある日、一通の手紙が届きました。差出人は、14歳の少女でした。

「ホーキング博士、あなたの本を読んで、初めて宇宙のことが面白いと思いました。私も将来、宇宙物理学者になりたいです」

この手紙を読んだ時、私は大きな喜びを感じました。自分の言葉が若い世代に影響を与え、科学への興味を引き出せたことが嬉しかったのです。

本の成功により、私はメディアにも多く取り上げられるようになりました。テレビ番組に出演したり、著名人との対談を行ったりする機会も増えました。

ある番組で、司会者に「障害を抱えながら、どうしてそこまで前向きでいられるのですか?」と聞かれたことがあります。

私は答えました。「私には選択肢がありました。自分の状況を嘆き続けるか、それとも人生を最大限に生きるか。私は後者を選んだのです。好奇心と探究心が、私を前に進ませてくれています」

この言葉は、多くの人々の心に響いたようです。私は単なる科学者としてだけでなく、困難を乗り越える勇気の象徴としても見られるようになりました。

しかし、名声を得ることで新たな課題も生まれました。プライバシーの確保が難しくなり、常に公の目にさらされる生活は時に重荷に感じることもありました。

ある日、私は助手のサムに愚痴をこぼしました。「時々、普通の生活に戻りたくなるよ。静かに研究に打ち込みたいんだ」

サムは理解を示しながらも、こう言いました。「でも博士、あなたの存在が多くの人に希望を与えているんです。それも、あなたの大切な役割の一つじゃないでしょうか」

その言葉を聞いて、私は自分の立場を再認識しました。確かに、名声には負担もありますが、それは同時に多くの人々に影響を与える機会でもあるのです。

それ以来、私は公の場に立つ時、常にこう自分に言い聞かせるようにしました。「私の言葉が、誰かの人生を変えるかもしれない。だから、最善を尽くそう」

この経験を通じて、私は科学者としての役割だけでなく、社会的な影響力についても深く考えるようになりました。科学の素晴らしさを伝える使命感が、私を支え続けてくれたのです。

また、この時期に私は、科学と哲学、そして宗教の関係についても考えを深めました。宇宙の起源や人生の意味といった大きな問いに、科学がどこまで答えられるのか。そして、それ以外の領域では何が必要なのか。

これらの思索は、後の著書『グランドデザイン』につながっていきます。科学の限界と可能性、そして人間の知性の役割について、私なりの答えを模索し続けたのです。

第6章: 家族との絆と別れ

研究者として成功を収める一方で、私生活では多くの喜びと苦難がありました。1965年にジェーンと結婚し、3人の子供たちに恵まれました。家族の存在は、私にとってかけがえのない支えでした。

長男のロバートが生まれた時、医師から「あなたはおそらく息子の5歳の誕生日を見ることはできないでしょう」と言われました。しかし、私はその予想を覆し、子供たちの成長を見守ることができました。

家族との時間は、私にとって何よりも大切なものでした。子供たちと過ごす時間は、研究の疲れを癒してくれました。

ある日、末っ子のティムが学校から帰ってきて、こう言いました。

「パパ、友達が『君のお父さんは世界で一番頭がいいんだって?』って聞いてきたよ。本当なの?」

私は笑って答えました。「そんなことはないよ。パパはただ宇宙のことを一生懸命考えているだけさ。君たち一人一人にも、素晴らしい才能があるんだ」

この会話は、私に家族の大切さを改めて感じさせてくれました。世界的に有名になっても、子供たちにとっては単なる「お父さん」であることの意味を、深く考えさせられました。

子供たちは、私の障害を特別なものと考えていませんでした。彼らにとって、車椅子に乗り、機械の声で話す父親は、ごく自然な存在だったのです。

長女のルーシーは、こんなことを言ってくれました。「お父さんの車椅子は、私たちにとっては宇宙船みたいなものよ。お父さんと一緒にいると、いつも宇宙旅行をしているような気分になるの」

この言葉は、私の心を温かくしてくれました。子供たちが私の状況を前向きに捉えてくれていることに、深い感謝の念を覚えました。

しかし、家族との関係にも困難はありました。私の病気の進行と、研究への没頭は、妻のジェーンに大きな負担をかけていました。彼女は献身的に私をサポートしてくれましたが、次第に二人の関係にはストレスが溜まっていきました。

ある夜、ジェーンが私に打ち明けてくれました。「スティーヴン、あなたの研究は素晴らしいわ。でも、時々感じるの。私たち家族のことを忘れているんじゃないかって」

その言葉に、私は深く考え込みました。確かに、研究に没頭するあまり、家族との時間を疎かにしていた部分があったかもしれません。

「ジェーン、君の気持ちはよくわかるよ。これからは、もっと家族との時間を大切にするよ」

そう約束はしたものの、実際にそれを実行するのは難しかったです。研究のアイデアが浮かぶと、つい夜遅くまで考え込んでしまいます。家族との約束を忘れてしまうこともありました。

1990年、私たちは別居を決意しました。この決断は、私たち両方にとって辛いものでした。長年連れ添ってきた伴侶と離れ離れになることは、想像以上に心に重くのしかかりました。

別居後、私は自分の行動を深く反省しました。家族との絆の大切さを、改めて痛感したのです。

そして1995年、ジェーンとの離婚が成立しました。この決断は、私たち両方にとって辛いものでしたが、お互いの人生を尊重するための選択でした。

離婚の際、私はジェーンにこう言いました。「長年、本当にありがとう。君の支えがなければ、私はここまで来られなかった。これからは別々の道を歩むけれど、君と子供たちへの感謝の気持ちは変わらないよ」

ジェーンも涙ながらに答えてくれました。「スティーヴン、あなたとの人生は大変だったけど、素晴らしいものでもあったわ。これからもお互い、自分の道を歩んでいきましょう」

離婚後も、ジェーンと子供たちとの絆は続きました。彼らは定期的に私を訪ね、家族の絆を大切にしてくれました。

「父さんの研究は、世界中の人々に影響を与えています。でも、私たちにとっては、あなたはただの『お父さん』なんです」と長女のルーシーが言ってくれたことは、今でも心に残っています。

この言葉は、私に家族の大切さを改めて教えてくれました。世界的に有名な科学者であっても、家族にとっては何よりもまず「父親」なのだと。この気づきは、私の人生観を大きく変えることになりました。

家族との経験は、私に人生の大切なことを教えてくれました。科学の探究も重要ですが、愛する人々との絆もまた、人生を豊かにする大切な要素なのです。

この経験を通じて、私は仕事と私生活のバランスの重要性を学びました。どんなに偉大な発見をしても、それを分かち合う大切な人がいなければ、その喜びは半減してしまうのです。

また、困難な状況でも、家族の存在が大きな支えになることも実感しました。彼らの無条件の愛と支えが、私の研究を続ける原動力となっていたのです。

これらの経験は、後の私の著作や講演にも大きな影響を与えました。科学の探究と同時に、人間関係の大切さ、特に家族との絆の重要性を訴えるようになったのです。

第7章: 最後の挑戦と遺産

年を重ねるにつれ、私の体の状態はさらに悪化していきました。しかし、好奇心と探究心は衰えることはありませんでした。2000年代に入っても、私は精力的に研究を続け、講演活動も行いました。

2007年には、無重力飛行を体験する機会を得ました。医師たちは危険だと警告しましたが、私はその機会を逃すわけにはいきませんでした。

「人類が宇宙に進出する日が来れば、障害者も宇宙に行けるはずです。その可能性を示したいのです」

そう言って、私は無重力飛行に挑戦しました。飛行前、私は少し不安を感じていました。「本当に大丈夫だろうか」と。

しかし、無重力状態になった瞬間、その不安は喜びに変わりました。体が宙に浮かび、久しぶりに体の自由を感じたのです。

「まるで宇宙を泳いでいるようだ!」と、私は興奮して叫びました。

この経験は、私に新たな視点を与えてくれました。障害があっても、適切な支援があれば、宇宙という新たなフロンティアに挑戦できるのです。この体験は、後に私が障害者の宇宙旅行の可能性について語る際の重要な基盤となりました。

晩年には、人工知能の発展に対する警告も行いました。2014年のインタビューで、私はこう語りました。

「人工知能の完全な発展は、人類の終わりを意味するかもしれません。人工知能は急速に進化し、人間を凌駕する可能性があります。私たちは慎重に、そして賢明に技術を扱わなければなりません」

この発言は世界中で大きな反響を呼び、AI倫理に関する議論を活発化させました。多くの科学者や技術者が、AIの開発に対してより慎重なアプローチを取るようになりました。

私の警告は、単に技術の発展を止めようというものではありません。むしろ、技術の発展と人類の価値観のバランスを取ることの重要性を訴えたのです。

「技術は素晴らしいものです。しかし、それを使う私たち人間の倫理観が追いついていかなければ、危険なものになり得るのです」

この考えは、私の最後の著書『未来への回答』にも反映されています。この本で私は、気候変動やAIなど、人類が直面する様々な課題について考察し、それらに対する解決策を提案しました。

2018年3月14日、私は76歳でこの世を去りました。アインシュタインの誕生日と同じ日に亡くなったことに、運命的なものを感じた人も多かったようです。

私の葬儀には、世界中から科学者や政治家、一般市民が参列しました。そこで、私の長年の友人であるキップ・ソーンが追悼の言葉を述べてくれました。

「スティーヴンは、単なる科学者ではありませんでした。彼は、人間の可能性の象徴でした。彼は私たちに、どんな困難があっても、好奇心と探究心を持ち続けることの大切さを教えてくれました」

私の人生を振り返ると、多くの困難がありました。しかし同時に、素晴らしい発見と出会い、そして多くの人々の支えがありました。

私が残したメッセージは、こうです。

「上を向いて星を見てください。足元ばかり見ていてはいけません。好奇心を持ち、人生の意味を理解しようと努めてください。この宇宙には不思議がいっぱいです。それを理解できるのは、あなたなのです。困難があっても諦めないでください。どんなに人生が辛くても、必ずあなたのできることがあります。大切なのは、希望を捨てないことです」

私の人生は、障害を乗り越え、宇宙の謎に挑み続けた旅でした。その旅路で学んだことを、これからの世代に伝えていけたらと思います。

私の研究は、ブラックホールや宇宙の起源に関する理解を大きく前進させました。しかし、それ以上に重要なのは、人間の可能性を示したことかもしれません。どんな困難な状況でも、諦めずに挑戦し続ければ、驚くべき成果を上げることができるのです。

また、科学の重要性と同時に、人間性の大切さも訴え続けました。技術の発展だけでなく、倫理や哲学的な考察も同時に進めていく必要があります。それが、人類の明るい未来につながるのです。

宇宙には、まだ多くの謎が残されています。その謎を解き明かすのは、あなたたち若い世代の役割です。好奇心を持ち続け、諦めずに挑戦し続けてください。

そして忘れないでください。私たちは、この広大な宇宙の中のちっぽけな存在かもしれません。しかし、その宇宙を理解しようとする心と、互いを思いやる心があれば、私たちは偉大なことを成し遂げられるのです。

さあ、あなたの宇宙への旅を始めましょう。未知なる世界が、あなたを待っています。

(了)

"世界史" の偉人ノベル

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