第1章 音楽との出会い
私の名前はフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ。1809年2月3日、ドイツのハンブルクで生まれました。幼い頃から、音楽は私の人生の中心でした。
私が初めてピアノの音色に魅了されたのは、3歳の時のことです。姉のファニーがピアノを弾いているのを聴いて、私は釘付けになりました。その美しい音色に、小さな胸が高鳴るのを感じたのを今でも覚えています。

「フェリックス、ピアノの音が聞こえるわ。また練習しているの?」
母の優しい声に、私は少し照れくさそうに答えました。
「うん、お母さん。この曲、とても美しくて。もっと上手く弾けるようになりたいんだ。」
母は微笑んで私の頭をなでてくれました。その温かい手の感触が、今でも心に残っています。
「あなたの情熱が素晴らしいわ。でも、休憩も大切よ。外で遊ぶのもいいわね。」
母の言葉に、私は少し考え込みました。確かに、外で遊ぶのも楽しいです。でも、ピアノを弾いているときの喜びには代えられません。
「分かったよ、お母さん。でも、もう少しだけ練習させて。この部分がうまく弾けないんだ。」
母は優しく笑って、許可してくれました。私は再びピアノに向かい、懸命に練習を続けました。
私が6歳の時、家族でベルリンに引っ越しました。そこで、私の音楽の才能は急速に開花していきました。ベルリンは当時、芸術と文化の中心地でした。街のあちこちで音楽が聴こえ、劇場では素晴らしい演劇が上演されていました。この環境が、私の創造性を大いに刺激しました。
ある日、父が私に尋ねました。
「フェリックス、君は本当に音楽が好きなんだね。将来、音楽家になりたいのかい?」
私は迷わず答えました。
「はい、お父さん!音楽は僕の人生そのものです。必ず素晴らしい音楽家になって、みんなを感動させたいんです!」
父は微笑んで私の頭をなでてくれました。父の目には、誇りと少しの不安が混ざっているように見えました。
「そうか。それなら、もっと勉強しなくてはならないね。君の才能を伸ばすために、最高の先生をつけよう。」
こうして、私はカール・フリードリヒ・ツェルターという素晴らしい先生に師事することになりました。ツェルター先生は厳しくも温かい方で、私の音楽の基礎を徹底的に叩き込んでくれました。
最初の授業の日、私は緊張で手が震えていました。ツェルター先生は私をじっと見つめ、こう言いました。
「フェリックス、音楽は技術だけではない。心を込めて演奏することが大切だ。さあ、君の音楽を聴かせてくれ。」

私は深呼吸をして、ピアノの前に座りました。そして、心を込めて演奏を始めました。弾き終わると、先生は満足そうに頷いてくれました。
「君には才能がある。しかし、才能だけでは不十分だ。努力と情熱が必要だ。私が君を一流の音楽家に育て上げよう。」
その言葉に、私は大きな勇気をもらいました。これから始まる音楽の旅に、胸が高鳴りました。
第2章 天才少年の誕生
9歳になった私は、初めて公の場でピアノを演奏する機会を得ました。それは、ベルリンの小さなホールでのことでした。緊張で手が震えそうでしたが、ステージに立つと不思議と落ち着きました。
観客席を見渡すと、両親や姉のファニー、そしてツェルター先生の姿が見えました。彼らの期待に応えたい、その思いが私を支えてくれました。
深呼吸をして、私はピアノに向かいました。最初の音を奏でた瞬間、周りの世界が消えていきました。あるのは私と音楽だけ。指が鍵盤の上を踊るように動き、美しい旋律が会場に響き渡りました。

演奏が終わると、会場は大きな拍手に包まれました。その時の喜びは今でも忘れられません。観客の中には涙を流している人もいました。
「フェリックス、素晴らしい演奏だったわ!」と母が涙ぐみながら言ってくれました。
「ありがとう、お母さん。でも、もっと上手くなりたいんだ。」
私の向上心は日に日に強くなっていきました。この経験を通じて、音楽には人々の心を動かす力があることを実感しました。それは私にとって、大きな発見でした。
11歳の時、私は初めて作曲した曲を発表しました。それは小さなピアノ曲でしたが、聴いてくれた人々は驚きの表情を浮かべていました。
「こんな若い子が、こんなに素晴らしい曲を作れるなんて!」

そんな声が聞こえてきて、私は嬉しさと同時に、もっと頑張らなければという思いに駆られました。
作曲の過程は、私にとって新しい冒険でした。音符を紙に書き記していくうちに、頭の中で鳴り響いていた旋律が形になっていく。それは魔法のような体験でした。
しかし、最初から上手くいったわけではありません。何度も書き直し、時には徹夜で作業することもありました。ツェルター先生は私の努力を見守りながら、適切なアドバイスをくれました。
「フェリックス、音楽は数学のようなものだ。しかし、そこに感情を込めなければ、真の芸術にはならない。」
先生の言葉を胸に刻み、私は作曲に打ち込みました。
12歳になると、私はゲーテに会う機会を得ました。ゲーテは当時、すでに大文豪として名を馳せていました。彼に会えると聞いた時、私は興奮で眠れませんでした。
ゲーテの邸宅に到着すると、私は緊張で足がすくみそうになりました。しかし、ゲーテの優しい笑顔に迎えられ、すぐにリラックスすることができました。
「フェリックス、君の音楽について多くの噂を聞いているよ。さあ、聴かせてくれないか。」
私はピアノの前に座り、自作の曲を演奏し始めました。演奏中、ゲーテの表情が徐々に変わっていくのが分かりました。曲が終わると、彼は深い感動の表情を浮かべていました。
「フェリックス、君の音楽には魂がある。これからも音楽を愛し続けなさい。君の才能は、世界を変える力を持っているかもしれない。」
ゲーテの言葉は、私の心に深く刻まれました。この出会いは、私の音楽家としての決意をさらに強くしてくれました。
第3章 苦悩と成長
順風満帆だった私の人生にも、試練が訪れました。13歳の時、初めて大きな挫折を味わったのです。
ベルリンで開催された若手音楽家のためのコンクールに、私は自信を持って参加しました。しかし、結果は予想外のものでした。私の作品は酷評されてしまったのです。
「この曲には独創性が欠けている。模倣に過ぎない。」

審査員の厳しい言葉に、私は打ちのめされました。それまで順調だった私の音楽人生に、初めて大きな壁が立ちはだかりました。
「僕の音楽には価値がないのかもしれない…」
自信を失った私は、数日間ピアノに触れることができませんでした。部屋に閉じこもり、音楽のことを考えるのも辛かったです。

そんな私を見かねて、姉のファニーが声をかけてくれました。
「フェリックス、あなたの音楽は素晴らしいわ。一時の評価に惑わされないで。」
ファニーは私の隣に座り、優しく肩を抱いてくれました。
「でも、ファニー。審査員の人たちが言うように、僕の音楽は模倣に過ぎないのかもしれない…」
「そんなことないわ。確かに、まだ発展の余地はあるかもしれない。でも、あなたの音楽には他の人にはない魅力があるの。それを忘れないで。」
ファニーの言葉に、少しずつ勇気が湧いてきました。
「そうだね。ありがとう、ファニー。もう一度、頑張ってみるよ。」
この経験から、私は大切なことを学びました。批評を恐れず、それを糧にして成長すること。そして、自分の音楽を信じ続けることの大切さを。
失敗から学んだことを生かし、私は再び作曲に打ち込みました。毎日何時間も机に向かい、新しいアイデアを探求しました。時には夜中まで作業することもありましたが、音楽への情熱が私を支えてくれました。
そして、より深みのある作品を作り上げていきました。以前よりも、自分の感情や経験を音楽に込めるようになりました。それは、聴く人の心により深く響く音楽になったと思います。
15歳の時、私は「真夏の夜の夢」序曲を作曲しました。この曲は、後に私の代表作の一つとなります。シェイクスピアの戯曲に触発されたこの曲には、妖精たちの踊りや森の神秘的な雰囲気が表現されています。
作曲の過程で、私は何度も原作を読み返しました。登場人物たちの感情や、物語の展開を音楽で表現しようと試みました。時には、アイデアが浮かばず苦しむこともありました。しかし、諦めずに取り組み続けました。
完成した曲を初めて家族に聴いてもらった時のことは、今でも鮮明に覚えています。
「フェリックス、この曲は本当に素晴らしいわ。」と母が言ってくれました。その目には、喜びの涙が光っていました。
「ありがとう、お母さん。でも、まだまだ改良の余地があるんだ。完璧な曲を作りたいんだ。」
私の追求心は、年齢とともにますます強くなっていきました。この曲を通じて、私は自分の音楽スタイルを確立していったように思います。
しかし、成功に満足することなく、常に新しい挑戦を求めていました。音楽は無限の可能性を秘めています。その可能性を追求し続けることが、私の人生の目標となりました。
第4章 ヨーロッパ遊学の旅
17歳になった私は、音楽の勉強のためにヨーロッパ各地を旅することになりました。これは父の提案でした。ヨーロッパの様々な音楽や文化に触れることで、私の音楽がさらに豊かになることを期待してのことでした。
最初の目的地は、音楽の都ウィーンでした。ここで、私はベートーヴェンの足跡を辿りました。彼の住んでいた家を訪れ、彼が歩いた街路を歩きました。ベートーヴェンの魂が今も宿っているような感覚に包まれ、深い感動を覚えました。
ウィーンでの経験は、私の音楽観を大きく変えました。クラシック音楽の伝統を尊重しつつ、新しい表現を模索する。そんな思いが芽生えました。
次の目的地、パリでは、ショパンと出会いました。彼のピアノ演奏に魅了された私は、自分の演奏技術をさらに磨こうと決意しました。
ショパンとの出会いは、偶然でした。あるサロンでのコンサートで、彼の演奏を聴く機会がありました。その繊細で情熱的な演奏に、私は言葉を失いました。
コンサート後、勇気を出して彼に話しかけました。
「ショパンさん、素晴らしい演奏でした。あなたの音楽には魂が宿っているようです。」
ショパンは優しく微笑んで、こう答えてくれました。
「メンデルスゾーン、君の音楽には独特の魅力がある。君の作品をいくつか聴いたことがあるよ。」
「ありがとうございます。ショパンさんから、そう言っていただけて光栄です。」
「音楽は言葉を超えた言語だ。君の音楽は、人々の心に直接語りかける力を持っている。その才能を大切にしなさい。」

ショパンの言葉は、私に大きな影響を与えました。技術だけでなく、感情を込めて演奏することの大切さを、改めて学びました。
「ありがとう、ショパン。あなたの演奏からも多くを学ばせてもらいました。これからも精進していきます。」
パリでの日々は、私の音楽性を大きく豊かにしてくれました。フランス音楽の優雅さと繊細さを学び、それを自分の音楽に取り入れようと試みました。
イタリアでは、古典音楽の深い伝統に触れ、新たな創作の糧を得ました。ローマの美しい風景に心を奪われ、交響曲第4番「イタリア」の構想を練り始めました。
ローマの街を歩きながら、私は常にメロディーを頭の中で紡いでいました。古代ローマの遺跡、ルネサンス期の芸術、そして街に溢れる活気。それらすべてが、私の音楽のインスピレーションとなりました。
「この国の美しさを、音楽で表現したい。」
そんな思いで、私は作曲に没頭しました。ホテルの一室で、何時間も机に向かいました。時には夜明けまで作業することもありました。
イタリアの陽光、青い空、そして人々の陽気な笑い声。それらを音符に変換する作業は、私にとって至福の時間でした。

完成した「イタリア」は、私の中でも特別な作品となりました。この曲には、イタリアでの体験がすべて詰まっています。聴く人が、イタリアの風景を思い浮かべてくれたら嬉しいです。
イギリスでは、私の音楽が特に高く評価されました。ロンドンでのコンサートは大成功を収め、イギリス王室からも称賛の言葉をいただきました。
ロンドンの音楽界は、私を暖かく迎えてくれました。コンサートホールは満員で、観客の熱気に圧倒されました。演奏後の拍手は鳴り止まず、何度もカーテンコールに応じました。
そして、驚くべきことに、ビクトリア女王陛下が私の演奏会にお越しくださいました。演奏後、女王陛下から直接お言葉をいただいたのです。
「メンデルスゾーン氏、あなたの音楽は人々の心を癒すものです。これからも素晴らしい音楽を作り続けてください。」
「身に余るお言葉、恐縮です。これからも精進して参ります。」
女王陛下のお言葉に、私は深く感動しました。音楽の力を信じ、これからも努力を続けていく決意を新たにしました。
この旅を通じて、私は音楽家として大きく成長しました。同時に、ヨーロッパ各地の文化や芸術に触れることで、私の音楽観も大きく広がりました。
異なる国々の音楽、文化、そして人々との出会い。それらすべてが、私の音楽に新しい息吹を吹き込んでくれました。この経験は、私の後の作品に大きな影響を与えることになります。
第5章 指揮者としての活躍
20代半ばになると、私は作曲家としてだけでなく、指揮者としても活躍するようになりました。指揮者という役割は、私に新たな挑戦をもたらしました。
1835年、私はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任しました。この楽団は、当時ヨーロッパでも最高峰の一つでした。就任の知らせを受けた時、私は喜びと同時に大きな責任を感じました。
就任初日、楽団員の前に立った時の緊張は今でも鮮明に覚えています。深呼吸をして、私は楽団員に向かって話し始めました。
「皆さん、私たちで最高の音楽を作り上げましょう。一人一人の才能を最大限に引き出し、心を一つにして演奏することで、聴衆の心に残る音楽を創造していきたいと思います。」
楽団員たちの目に、期待と不安が混ざっているのが見て取れました。若い指揮者である私を、彼らがどう受け止めるか不安でした。しかし、音楽への情熱は私たちを結びつけてくれました。
指揮者としての仕事は、想像以上に大変でした。楽団員一人一人の個性を理解し、それを生かしながら、全体としての調和を作り出すのは難しい挑戦でした。時には意見の衝突もありました。
ある日、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の練習中、第一ヴァイオリンのコンサートマスターと意見が対立しました。
「メンデルスゾーン先生、このフレーズはもう少しゆっくりと演奏した方が良いのではないでしょうか?」
「いいえ、ここは作曲者の意図を尊重し、テンポを維持すべきだと思います。」
議論は白熱しましたが、最終的に私たちは妥協点を見出すことができました。この経験から、指揮者は単に指示を出すだけでなく、楽団員との対話を通じてより良い音楽を作り上げていくことの大切さを学びました。
しかし、その苦労は大きな喜びをもたらしました。コンサートで観客が感動の涙を流す姿を見ると、私は言葉では表現できないほどの充実感を覚えました。
ある公演後、一人のヴァイオリン奏者が私のもとにやってきました。
「メンデルスゾーン先生、あなたの指揮で演奏できて光栄です。あなたの情熱が、私たち楽団員一人一人の心に火をつけてくれました。」
その言葉を聞いた時、私は音楽家冥利に尽きる思いでした。音楽を通じて人々の心を動かし、楽団員と共に成長していく。それこそが、指揮者としての醍醐味だと感じました。
指揮者としての経験は、私の作曲にも大きな影響を与えました。オーケストラの各楽器の特性をより深く理解することで、より豊かな音色と表現を作品に取り入れることができるようになりました。
また、様々な作曲家の作品を指揮することで、音楽の歴史と伝統をより深く学ぶことができました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなど、偉大な先人たちの作品を研究し、指揮することは、私にとって大きな学びの機会となりました。
指揮者としての活動は、私の音楽家としての視野を大きく広げてくれました。作曲家としての私と、指揮者としての私。この二つの側面が互いに影響し合い、私の音楽をより豊かなものにしていったのです。
第6章 バッハ復興
私の音楽人生において、特に重要な出来事の一つが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽の復興です。
バッハの音楽は、当時すでに忘れられかけていました。彼の死後、音楽の趣味が変わり、バッハの複雑で深遠な音楽は「古臭い」と見なされるようになっていたのです。しかし、私はバッハの音楽の素晴らしさを確信していました。
私がバッハの音楽に出会ったのは、まだ少年の頃でした。祖母が古い楽譜を持っていて、それを見せてくれたのです。その時の衝撃は今でも忘れられません。
「この音楽は…なんて美しいんだ。」
楽譜を見ながら、頭の中で音楽が鳴り響きました。その複雑な構造と深い感情表現に、私は魅了されました。
それ以来、私はバッハの音楽を学び続けました。そして、この素晴らしい音楽をもっと多くの人に知ってもらいたいと強く思うようになりました。
「バッハの音楽は、もっと多くの人に聴いてもらうべきだ。」
そう思った私は、1829年、バッハの「マタイ受難曲」の再演を企画しました。この曲は、バッハの死後約100年間、公の場で演奏されていませんでした。
企画を発表した時、周囲の反応は冷ややかでした。
「バッハ?誰も興味を示さないだろう。」
「そんな古い音楽を今さら演奏して何になるんだ。」
そんな声が聞こえてきました。しかし、私は諦めませんでした。バッハの音楽の素晴らしさを信じ、必ず人々の心に届くと確信していたのです。
練習は困難を極めました。楽団員の中には、バッハの音楽に馴染みのない人も多かったのです。複雑な対位法や、深い宗教的な内容を理解してもらうのに苦労しました。
「この部分は、こういう思いを込めて演奏してください。バッハは音楽を通して、人間の魂の深さを表現しようとしたのです。」
私は根気強く、バッハの音楽の魅力を伝えていきました。少しずつですが、楽団員たちもバッハの音楽の素晴らしさに気づき始めました。
そして迎えた本番。会場は満員で、緊張感に包まれていました。私は深呼吸をして、指揮棒を上げました。
演奏が始まると、会場は静寂に包まれました。そして、曲が進むにつれ、観客の表情が変わっていくのが分かりました。最初は戸惑いの表情だった人々が、次第に音楽に引き込まれていく。そして、多くの人々の目に涙が光るのが見えました。
演奏が終わると、会場は大きな拍手に包まれました。多くの人が立ち上がり、感動の拍手を送ってくれました。
「バッハの音楽が、こんなにも人々の心を動かすなんて…」
私は感動で胸が一杯になりました。バッハの音楽の力を、改めて実感した瞬間でした。
この公演を機に、バッハの音楽は再評価され、多くの人々に愛されるようになりました。私は、音楽の歴史に小さな貢献ができたことを誇りに思いました。
バッハの音楽の復興は、私にとって単なる過去の音楽の再現ではありませんでした。それは、音楽の本質的な価値を再確認する機会でもあったのです。バッハの音楽を通じて、私は音楽の持つ普遍的な力を再認識しました。
そして、この経験は私自身の音楽にも大きな影響を与えました。バッハの精緻な作曲技法や深い精神性を学ぶことで、私の音楽はより深みを増していったのです。
バッハの音楽の復興は、私の音楽家としての使命感をさらに強めてくれました。音楽を通じて人々の心に触れ、時代を超えた美しさを伝えていく。それが、音楽家としての私の役割だと感じたのです。
第7章 家族との絆
私の人生において、家族の存在は非常に大きなものでした。特に、姉のファニーは私にとって大切な存在でした。
ファニーも私と同じく音楽の才能に恵まれていました。幼い頃から、私たちは一緒に音楽を学び、演奏を楽しみました。ファニーのピアノの演奏は、いつも私を魅了しました。
しかし、当時の社会通念から、ファニーが公の場で音楽活動をすることは難しい状況でした。女性が職業音楽家として活動することは、まだ広く受け入れられていなかったのです。
ある日、ファニーが私に言いました。
「フェリックス、私の作った曲を聴いてくれる?」
ファニーがそう言って、ピアノの前に座りました。彼女の演奏を聴くと、私はいつも心を打たれました。美しいメロディー、繊細な和声、そして深い感情表現。ファニーの音楽には、独特の魅力がありました。
「ファニー、君の音楽は本当に素晴らしいよ。もっと多くの人に聴いてもらうべきだ。」
私はファニーの才能を高く評価し、彼女の曲をいくつか自分の名前で発表したこともありました。当時の社会では、女性の作品よりも男性の作品の方が受け入れられやすかったからです。
しかし、後になって、これが正しい選択だったのか悩むことになります。ファニーの才能を世に知らしめたいという思いと、彼女の作品を自分の名前で発表することへの罪悪感。その葛藤は、私の心の中で長く続きました。
ファニーは私の良き理解者であり、批評者でもありました。新しい曲を作るたびに、まず彼女に聴いてもらいました。彼女の的確なアドバイスは、私の音楽をより良いものにしてくれました。
「フェリックス、この部分はもう少し繊細な表現ができるんじゃないかしら?」
「そうだね。ファニー、君の意見はいつも参考になるよ。」
私たちは音楽を通じて、深い絆で結ばれていました。
しかし、1847年、突然の悲報が私を襲いました。ファニーが脳卒中で亡くなったのです。この出来事は、私に大きな衝撃を与えました。
「なぜファニーが…彼女にはまだやりたいことがたくさんあったはずなのに…」
悲しみに暮れる中、私は音楽に救いを求めました。ファニーへの思いを込めて、弦楽四重奏曲第6番を作曲しました。この曲には、私の深い悲しみと、ファニーへの愛が込められています。
作曲の過程は、まるで�ァニーとの対話のようでした。彼女が生前に私にくれたアドバイスや、私たちが共有した音楽の喜びが、一つ一つの音符となって紡がれていきました。
この曲を完成させた時、私は涙が止まりませんでした。ファニーはもういませんが、彼女の存在は永遠に私の音楽の中に生き続けるのです。
ファニーの死後、私は彼女の作品を出版する手続きを始めました。彼女の才能を世に知らしめることが、私にできる最後の贈り物だと思ったのです。
家族との絆、特にファニーとの関係は、私の音楽と人生に大きな影響を与えました。彼女の存在は、私に音楽の喜びを教えてくれ、常に前進する勇気を与えてくれました。
そして、ファニーとの思い出は、私の後の作品にも大きな影響を与えることになります。彼女への想いを込めた音楽は、聴く人の心により深く響くものとなりました。
家族の支え、特にファニーの存在があったからこそ、私は音楽家として成長し、多くの作品を残すことができたのだと思います。家族との絆は、私の音楽の根源となる大切なものだったのです。
第8章 最後の日々
1847年、38歳の私は体調を崩し始めました。過度の仕事と、ファニーの死による精神的ショックが原因だったのでしょう。医師からは休養を取るよう言われましたが、私は音楽への情熱を抑えることができませんでした。
「まだやり残したことがたくさんある。もっと多くの音楽を作りたい。」
そんな思いで、私は創作活動を続けました。体調の悪化を感じながらも、ピアノの前に座り、新しい旋律を紡ぎ出す日々が続きました。
ある日、妻のセシルが心配そうに私に言いました。
「フェリックス、少し休んだ方がいいわ。あなたの顔色が優れないわ。」
「大丈夫だよ、セシル。この曲を完成させたら休むから。」
私は妻を安心させようとしましたが、内心では不安を感じていました。体が思うように動かず、頭痛に悩まされる日が増えていたのです。
しかし、音楽への情熱は衰えることはありませんでした。むしろ、残された時間が少ないかもしれないという焦りから、より一層創作に打ち込みました。
最後の数週間、私は新しいオラトリオの作曲に取り組んでいました。この作品に、私の音楽家としての集大成を込めようと思っていたのです。
「この曲で、私の音楽の全てを表現したい。」
そんな思いで、私は必死に作曲を続けました。しかし、その作品を完成させることはできませんでした。
1847年11月4日、私は突然の脳卒中に襲われました。ピアノの前で作曲をしていた時のことです。突然、激しい頭痛に襲われ、意識が遠のいていきました。
意識が遠のく中、私の頭の中には美しい旋律が響いていました。それは、完成することのなかった最後の作品の一部だったのかもしれません。
「この音楽を、もっと多くの人に…」
それが、私の最後の思いでした。
私は家族に見守られながら、静かに息を引き取りました。38年という短い人生でしたが、音楽に捧げた日々は充実したものでした。
私の死後、多くの人々が追悼の意を表してくれました。私の音楽が、多くの人々の心に残っていたことを知り、音楽家冥利に尽きる思いでした。
そして、私の遺した音楽は、時代を超えて多くの人々に愛され続けています。「真夏の夜の夢」、「ヴァイオリン協奏曲」、「交響曲第4番『イタリア』」など、私の作品は今も世界中で演奏されています。
私の人生は短かったかもしれません。しかし、音楽に捧げたその日々は、かけがえのないものでした。音楽を通じて、人々の心に触れ、感動を与えることができた。それこそが、私の人生の意義だったのだと思います。
エピローグ
私、フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディの人生は、38年という短いものでした。しかし、その間に私が作り出した音楽は、今もなお多くの人々に愛され続けています。
私の人生を振り返ると、音楽への情熱、家族との絆、そして多くの人々との出会いが、私を支え、導いてくれたことに気づきます。
幼い頃からピアノに魅了され、作曲を始めた日々。ヨーロッパ各地を旅し、様々な文化や音楽に触れた経験。指揮者として多くの音楽家たちと共に作り上げた感動の瞬間。そして、バッハの音楽を復興させ、音楽の歴史に新たな1ページを加えることができた喜び。
これらの経験すべてが、私の音楽を形作っていったのです。
音楽は、人々の心を結び付け、慰め、勇気を与える力を持っています。私の音楽が、これからも多くの人々の心に響き続けることを願っています。
そして、若い音楽家たちへ。音楽を愛し、努力を惜しまず、自分の信じる道を歩んでください。時には挫折や困難に直面するかもしれません。しかし、音楽への情熱を忘れなければ、必ず道は開けるはずです。
音楽には、世界を変える力があるのです。私がバッハの音楽を復興させた時、多くの人々が音楽の持つ力を再認識しました。皆さんの音楽も、きっと誰かの人生を変える力を持っているはずです。
また、音楽は時代や国境を超えて人々を結びつけます。私がヨーロッパ各地を旅した時、言葉は通じなくても、音楽を通じて心を通わせることができました。音楽は、まさに世界共通の言語なのです。
最後に、私の人生を支えてくれた全ての人々に感謝の意を表したいと思います。両親、姉のファニー、妻のセシル、そして私の音楽を愛してくれた全ての人々。皆さんの支えがあったからこそ、私は音楽家として生きることができました。
私の音楽が、少しでも皆さんの人生を豊かにできたのなら、これ以上の幸せはありません。音楽は、私たちの魂の言葉です。その言葉が、これからも多くの人々の心に届くことを願っています。
さようなら、そしてありがとう。音楽は永遠です。私の魂は、永遠に音楽と共にあります。