第1章:生まれと幼少期
私の名前はアウン・サン・スー・チー。1945年6月19日、ビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)で生まれました。父はアウン・サン将軍、母はキン・チーです。
幼い頃の記憶は、父の姿がほとんどありません。父は国の独立のために奔走していたからです。それでも、たまに家に帰ってくると、父は私を膝の上に乗せて、こう言ったものです。
「スー・チー、お前は強く、賢く、そして優しくなるんだ。この国の未来はお前たち子供たちにかかっているんだよ。」
当時の私には、その言葉の重みがわかりませんでした。ただ、父の温かい腕の中で安心感に包まれていただけです。
ある日、父が珍しく早く帰ってきました。私は嬉しくて飛びつきました。
「お父さん、今日は遊んでくれる?」
父は優しく微笑んで答えました。「ごめんね、スー・チー。今日は大切な会議があるんだ。でも、約束するよ。独立したら、たくさん遊ぼうね。」
私は少し寂しくなりましたが、父の言葉を信じました。「うん、約束だよ!」
しかし、その幸せな時間は長くは続きませんでした。1947年7月19日、私が2歳の時、父は政敵によって暗殺されたのです。その日の朝、父は私の頬にキスをして出かけていきました。それが父との最後の触れ合いになるとは、誰も想像していませんでした。
母は悲しみに打ちひしがれましたが、強く生きる決意をしました。母は私にこう言いました。
「スー・チー、あなたのお父さまは国のために命を捧げたの。私たちも、お父さまの遺志を継いで、この国のために生きていかなければならないわ。」
私は母の言葉を胸に刻み、父の遺志を継ぐことを誓いました。それが、後の私の人生を決定づけることになるとは、当時の私には想像もつきませんでした。
幼い私は、父の不在を理解するのに時間がかかりました。夜になると、父の帰りを待ち続けました。
「お母さん、お父さんはいつ帰ってくるの?」と、何度も尋ねました。
母は涙を堪えながら答えました。「お父さまは、もう帰ってこないの。でも、いつもあなたを見守っているわ。」
その言葉を聞いて、私は泣きました。しかし、母は私を強く抱きしめ、こう言いました。
「スー・チー、泣いてもいいのよ。でも、忘れないで。あなたは強い子なの。お父さまの娘なのよ。」
その言葉が、私の心に深く刻まれました。それから私は、父の写真を見るたびに、強くなることを誓いました。
第2章:海外での学び
1960年、私が15歳の時、母がビルマ大使としてインドに赴任することになり、私も一緒にデリーに移りました。インドでの生活は、私の視野を大きく広げてくれました。
デリー大学のレディー・シュリーラム・カレッジで政治学を学び始めた私は、マハトマ・ガンディーの非暴力主義に深く感銘を受けました。ある日、クラスメイトのラジーヴと議論をしていた時のことです。
「ガンディーの非暴力主義は理想的だけど、現実的じゃないと思わない?」とラジーヴが言いました。
私は首を横に振り、こう答えました。「いいえ、むしろ非暴力こそが最も強力な武器だと思うわ。暴力は新たな暴力を生むだけ。でも、非暴力は敵の心さえも変えることができるのよ。」
ラジーヴは驚いた様子で言いました。「でも、スー・チー、君の国ビルマでは軍事政権が支配しているんだろう?非暴力で彼らを倒せると本当に思うのか?」
私は少し考えてから答えました。「簡単ではないわ。でも、私は信じているの。人々の心に訴えかけ、平和的に変革を求め続ければ、いつかは必ず変わると。それに、暴力で勝ち取った平和は長続きしないわ。」
この考えは、後に私の政治活動の核となりました。
1964年、私はオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジに進学しました。イギリスでの生活は、私に新たな視点をもたらしました。民主主義、人権、法の支配といった概念を深く学び、これらの価値観が私の中に根付いていきました。
ある晩、友人のサラと夜遅くまで議論をしていました。
「スー・チー、あなたはビルマに戻るつもりなの?」とサラが尋ねました。
私は窓の外の暗闇を見つめながら答えました。「ええ、いつかは必ず。私にはビルマで果たすべき使命があるの。父の遺志を継ぎ、国の民主化のために戦うことよ。」
サラは心配そうな顔で言いました。「でも、それは危険じゃない?軍事政権が支配しているんでしょう?」
「そうね。でも、誰かがやらなければ何も変わらないわ。私には責任があるの。」
サラは黙って私の手を握りました。「あなたは本当に勇敢ね。でも、約束して。自分の身は自分で守ってね。」
私は微笑んで頷きました。「ありがとう、サラ。約束するわ。」
その時の私の決意は固く、将来の困難を予感させるものでした。しかし、同時に、この決意が私の人生の道筋を決定づけることになるとは、まだ想像もしていませんでした。
オックスフォードでの日々は、私の思想をさらに深めていきました。図書館で長時間過ごし、世界の歴史や哲学を学びました。特に、プラトンの「国家」やロックの「市民政府論」に強く影響を受けました。
ある日、政治哲学の授業で教授が私に質問しました。
「ミス・スー・チー、あなたの考える理想の国家とは何ですか?」
私は少し考えてから答えました。「理想の国家とは、全ての市民が平等に扱われ、自由に意見を表明でき、そして何より、恐怖から解放されている国家だと思います。」
教授は満足そうに頷きました。「そして、そのような国家を実現するために、あなたは何をしますか?」
「まず、教育です。人々が自分の権利を理解し、それを行使する方法を知ることが重要です。そして、対話です。異なる意見を持つ人々が、互いを尊重しながら議論できる環境を作ることが必要です。」
この会話は、私の将来の政治活動の基礎となりました。
第3章:結婚と家庭
1972年、ニューヨークの国連で働いていた時、私はマイケル・アリスと出会いました。彼はチベット学を専攻するイギリス人学者で、私たちはすぐに意気投合しました。
マイケルと私は、1972年に結婚しました。私たちは互いの文化や価値観を尊重し合い、深い絆で結ばれていました。しかし、私の心の奥底には常にビルマへの思いがありました。
結婚式の日、マイケルは私にこう言いました。「スー・チー、君の心の中にビルマがあることはわかっているよ。僕は君の使命を尊重し、支えていくつもりだ。」
私は涙を浮かべながら答えました。「ありがとう、マイケル。あなたの理解が、私にとって何よりの力になるわ。」
1973年に長男のアレクサンダー、1977年に次男のキムが生まれました。母として、妻として幸せな日々を過ごしながらも、私の中でビルマへの思いは日に日に強くなっていきました。
ある日、アレクサンダーが私に尋ねました。「ママ、どうしてビルマのおばあちゃんに会いに行かないの?」
私は息子を抱きしめながら答えました。「ママにはね、ビルマでやらなければならないことがあるの。でも、今はあなたたちと一緒にいることが大切なの。」
キムも加わって言いました。「ぼくたちも一緒にビルマに行けばいいじゃない?」
私は微笑みながらも、心の中で葛藤していました。子供たちを危険にさらすわけにはいきません。しかし、いつかは彼らにも私の使命を理解してもらわなければなりません。
ある夜、子供たちを寝かしつけた後、マイケルと真剣な話をしました。
「マイケル、私、ビルマに戻りたいの。」
マイケルは驚いた様子もなく、静かに頷きました。「わかっていたよ、スー・チー。君の目には常にビルマへの思いが映っていた。でも、子供たちはどうする?」
私は深く息を吐き出しました。「そうね…。子供たちのことを考えると胸が痛むわ。でも、私にはビルマで果たすべき使命があるの。父の遺志を継ぎ、国の民主化のために戦わなければ。」
マイケルは私の手を取り、優しく言いました。「君の決意はわかった。僕は君を支持するよ。でも、約束してくれ。身の安全だけは必ず守ってくれ。」
私は涙を堪えながら頷きました。「ありがとう、マイケル。あなたの支えがなければ、この決断はできなかったわ。」
その夜、私たちは長い時間抱き合っていました。この決断が、私たち家族にどれほどの試練をもたらすことになるか、その時の私には想像もつきませんでした。
翌日、私は子供たちに話をしました。
「アレクサンダー、キム、ママはしばらくビルマに帰ることになったの。」
アレクサンダーが尋ねました。「僕たちも一緒に行くの?」
私は首を横に振りました。「ごめんね。ママは一人で行かなければならないの。でも、必ず戻ってくるわ。」
キムが泣き出しそうな顔で言いました。「でも、ママがいないと寂しいよ。」
私は二人を強く抱きしめました。「ママもとても寂しいわ。でも、ビルマの人々にはママの助けが必要なの。あなたたちは強い子よ。パパと一緒に待っていてくれる?」
二人は泣きながらも頷きました。その姿を見て、私の心は引き裂かれそうでした。しかし、これが私の使命だと信じていました。
第4章:ビルマへの帰還
1988年、私は母の看病のためにビルマに戻りました。しかし、そこで目にしたのは、軍事政権による抑圧と、それに抗議する民主化運動の高まりでした。
8月8日、全国的な民主化要求デモが勃発しました。私はラングーン総合病院の窓から、通りを埋め尽くす人々を見ていました。彼らは「民主主義を!」「自由を!」と叫びながら行進していました。
その時、私の心に父の言葉が蘇りました。「この国の未来はお前たち子供たちにかかっているんだよ。」
私は決意しました。もはや傍観者ではいられない。この国の民主化のために、自分の力を尽くさなければならない。
8月26日、シュエダゴン・パゴダの西門の階段に立ち、50万人もの群衆を前に演説をしました。
「私たちは恐れてはいけません。暴力に訴えることなく、平和的な方法で民主主義を勝ち取らなければなりません。それが、私たちの力となるのです。」
群衆は熱狂的に私の言葉に反応しました。その瞬間、私は自分の運命を受け入れたのです。これが私の闘いの始まりでした。
演説後、若い学生のミンが私に近づいてきました。
「スー・チーさん、あなたの言葉に勇気をもらいました。でも、軍は私たちの声を聞こうとしません。どうすれば彼らを変えられるのでしょうか?」
私はミンの肩に手を置いて答えました。「ミン、変化は一夜にして起こるものではありません。でも、私たちが団結し、平和的に声を上げ続ければ、必ず彼らの心に届くはずです。暴力で勝ち取った自由は長続きしません。私たちの強さは、非暴力にあるのです。」
ミンは真剣な表情で頷きました。「わかりました。私たちも非暴力で闘い続けます。」
しかし、軍事政権の反応は迅速かつ残酷でした。9月18日、国軍がクーデターを起こし、デモ隊を武力で鎮圧しました。街には銃声が響き渡り、多くの犠牲者が出ました。
その夜、私は隠れ家で支持者たちと今後の方針を話し合っていました。若い活動家のミンが、怒りに震える声で言いました。
「彼らは私たちの同志を殺しました!我々も武器を取るべきです!」
私は静かに、しかし強い口調で答えました。「いいえ、ミン。暴力に暴力で応えれば、それは終わりのない悪循環を生むだけです。我々の力は非暴力にあるのです。それこそが、最も強力な武器なのです。」
ミンは納得していない様子でしたが、黙って頷きました。
別の活動家のアウンが尋ねました。「でも、スー・チーさん、このまま平和的に抗議を続けても、軍は聞く耳を持たないのではないでしょうか?」
私は深く息を吐いてから答えました。「確かに、すぐには変わらないかもしれません。でも、私たちが非暴力を貫くことで、国際社会の支持を得ることができます。そして何より、暴力に訴えないことで、私たちは道徳的な優位性を保つことができるのです。」
部屋の中は静まり返りました。皆、私の言葉を深く考えているようでした。
最後に、年配の活動家のウーが口を開きました。「スー・チーさんの言う通りです。私たちは、ガンディーやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの教えに従うべきです。非暴力こそが、最終的に勝利をもたらすのです。」
その言葉に、皆が同意の意を示しました。
私は決意を新たにしました。「これからの道のりは長く、困難に満ちているでしょう。でも、私たちは決して諦めてはいけません。平和的に、しかし断固として、自由と民主主義のために闘い続けましょう。」
この日以降、私たちの闘いは更に困難を極めることになりました。しかし、私は決して諦めませんでした。非暴力・不服従の精神こそが、最終的に勝利をもたらすと信じていたからです。
第5章:自宅軟禁と国民民主連盟
1989年7月20日、私は国民民主連盟(NLD)を結成しました。民主化運動の中心となるこの政党は、瞬く間に国民の支持を集めました。
NLD結成の日、私は支持者たちの前で演説しました。
「今日、私たちは新たな一歩を踏み出します。国民民主連盟は、ビルマの全ての人々のための政党です。私たちは、平和的な方法で民主主義を実現し、人権を守り、法の支配を確立することを目指します。」
会場は熱気に包まれ、人々は希望に満ちた表情で私の言葉に聞き入っていました。
しかし、軍事政権はNLDの活動を快く思っていませんでした。1989年7月20日、私は自宅軟禁に処されました。自由を奪われた私でしたが、それでも闘志は衰えませんでした。
自宅軟禁の初日、私は窓から外を見ていました。通りには軍の車両が並び、私の家を監視していました。その時、私は父の写真を手に取り、静かに語りかけました。
「お父さま、私は正しいことをしているのでしょうか?この道を選んだことを後悔したことはありません。でも、時々怖くなります。」
そんな私の思いを察したかのように、庭に一羽の鳥が舞い降りました。その姿を見て、私は不思議と勇気づけられました。
自宅の庭で、私は毎日瞑想をしていました。ある日、警備の兵士の一人が私に話しかけてきました。
「なぜそんなに頑張るんですか?楽な道を選べば、あなたは自由になれるのに。」
私は微笑んで答えました。「自由とは、ただ束縛から解放されることではありません。真の自由とは、正しいことを行う勇気を持つことです。私は、ビルマの人々のために闘っているのです。」
兵士は何も言わず立ち去りましたが、その目には何か複雑な感情が浮かんでいました。
1990年5月27日、総選挙が実施されました。NLDは圧倒的勝利を収めましたが、軍事政権は結果を無視し、政権移譲を拒否しました。
選挙結果が発表された時、私は自宅軟禁中でしたが、支持者たちが家の外で喜びの声を上げているのが聞こえました。私の心は喜びと同時に不安で一杯でした。
「これで変化が始まる」と思う一方で、「軍がこの結果を受け入れるだろうか」という懸念もありました。
案の定、軍事政権は選挙結果を無視しました。この知らせを聞いた時、私は深い失望を感じました。しかし、すぐに気持ちを立て直しました。
「これは終わりではない。むしろ、私たちの闘いはこれからが本番なのだ。」
この不当な扱いに対し、国際社会から非難の声が上がりました。1991年、私はノーベル平和賞を受賞しましたが、自宅軟禁中だったため授賞式に出席することはできませんでした。
息子のアレクサンダーが代理で賞を受け取りました。彼の声が、ラジオを通して私の耳に届きました。
「母は、ビルマの人々の自由のために闘っています。彼女の勇気と決意は、世界中の人々に希望を与えています。」
私は涙を流しながら、ラジオに向かって小さく呟きました。「ありがとう、アレクサンダー。母さんは決して諦めないわ。」
その夜、私は一人で静かに涙を流しました。家族と離れ離れになり、自由を奪われた状況で、この栄誉ある賞を受賞することの複雑な思いが胸に去来しました。しかし、同時に、この賞が私たちの闘いに対する国際社会の支持を示すものだということも理解していました。
「この賞は私一人のものではない。ビルマの自由のために闘うすべての人々のものだ。」
自宅軟禁は、私の身体の自由を奪いましたが、私の精神は決して折れませんでした。むしろ、この試練は私の決意をさらに強くしたのです。
第6章:長い闘いの日々
自宅軟禁は、断続的に続きました。解放と再拘束を繰り返す中で、私は常に民主化運動の象徴であり続けました。
ある日、短期間の解放中に、若い活動家のティンと話す機会がありました。
「スー・チーさん、あなたはこんなに長い間、自由を奪われているのに、どうして諦めないのですか?」とティンが尋ねました。
私は微笑んで答えました。「ティン、自由は外側からではなく、内側から来るものよ。私の体は拘束されているかもしれないけれど、私の心と精神は自由なの。そして、その自由な心で、私はビルマの人々のために闘い続けるわ。」
ティンは感動した様子で頷きました。「わかりました。私たちも、あなたの精神を受け継いで闘い続けます。」
2010年11月13日、私は7年ぶりに解放されました。自宅の門の前には、何千人もの支持者が集まっていました。
私は群衆に向かって演説しました。「自由のための闘いは終わっていません。私たちはまだ長い道のりの途中にいるのです。しかし、団結すれば、必ず勝利を掴むことができます。」
群衆は熱狂的に私の言葉に反応しました。その中に、かつて私と話をした警備の兵士の姿を見つけました。彼は民間人の服装で、群衆の中に紛れていましたが、私との目が合うと、小さく頷きました。
その瞬間、私は改めて感じました。変化は、一人一人の心の中で静かに、しかし確実に起こっているのだと。
しかし、解放後も困難は続きました。2012年4月1日の補欠選挙でNLDは圧勝し、私も国会議員となりましたが、軍部の影響力は依然として強く、真の民主化への道のりは遠いものでした。
国会議員として初めて議会に足を踏み入れた日、私は深い感慨に包まれました。かつては想像もできなかった光景です。しかし、同時に、これはほんの始まりに過ぎないことも理解していました。
ある日、若い活動家のアウンが私のオフィスを訪れました。彼の目には失望の色が浮かんでいました。
「スー・チーさん、私たちの闘いは無駄だったのでしょうか?軍はまだ強大な力を持っています。本当に変化は起こせるのでしょうか?」
私は彼の肩に手を置き、優しく言いました。「アウン、変化は一夜にして起こるものではありません。それは長い過程なのです。私たちがしなければならないのは、希望を持ち続け、諦めないことです。一人一人の小さな行動が、やがて大きな変化を生み出すのです。」
アウンは少し元気を取り戻したように見えました。「はい、わかりました。私たちは闘い続けます。」
私は続けました。「そうよ、アウン。そして忘れないで。私たちの闘いは、単に政治的な権力を得るためのものではありません。それは、全てのビルマの人々が、自由に、尊厳を持って生きられる社会を作るためのものなのです。」
アウンは真剣な表情で頷きました。「はい、スー・チーさん。私たちは、その理想のために闘い続けます。」
2015年11月8日、総選挙が実施されました。NLDは圧倒的勝利を収め、2016年3月30日、私は国家顧問に就任しました。これは事実上の首相職でした。
就任式の日、私は深い感慨に包まれながら、父の写真を見つめていました。
「お父さま、私たちはついにここまで来ました。でも、これは終わりではありません。むしろ、新たな闘いの始まりなのです。」
しかし、権力を手にしたことで、新たな課題が生まれました。国内の少数民族問題、特にロヒンギャ問題への対応は、国際社会から厳しい批判を浴びることになりました。
私は苦悩しました。一方では人権を守る必要があり、他方では国内の複雑な民族問題と軍部との関係を考慮しなければなりませんでした。
ある夜、私は一人で書斎に座り、父の写真を見つめていました。
「お父さま、私は正しいことをしているのでしょうか?」
答えはありませんでしたが、私は決意を新たにしました。完璧な解決策はないかもしれない。しかし、私にできることは、この国をより良い方向に導くために全力を尽くすことだけです。
翌日、私は閣僚会議を開きました。
「私たちは、全ての市民の権利を守る責任があります。同時に、国の安定と発展も考慮しなければなりません。これは簡単な課題ではありませんが、私たちは知恵を絞り、最善の解決策を見出さなければなりません。」
閣僚たちは真剣な表情で頷きました。私たちの前には、まだ多くの課題が横たわっていました。
第7章:新たな試練
2021年2月1日、軍によるクーデターが発生しました。私は再び拘束され、ミャンマーは再び軍事政権下に置かれました。
クーデターの朝、私は突然の物音で目を覚ましました。窓の外には軍の車両が並んでいました。私はすぐに状況を理解し、側近に向かって言いました。
「落ち着いて。私たちは非暴力を貫くわ。人々に、平和的な抵抗を続けるよう伝えて。」
その直後、兵士たちが家に押し入ってきました。私は冷静に彼らに向き合いました。
「あなたたちは法を破っています。この行為は、民主主義への重大な侵害です。」
しかし、兵士たちは私の言葉を無視し、私を連行しました。
拘束された私は、再び自由を奪われましたが、心の中では闘志を燃やし続けていました。独房の中で、私は過去の経験を振り返り、今後の戦略を練っていました。
ある日、若い女性警官が私の食事を持ってきました。彼女は周りを確認してから、小声で話しかけてきました。
「スー・チーさん、外では多くの人々があなたのために闘っています。彼らは決して諦めていません。」
私は微笑んで答えました。「ありがとう。その言葉が私の力になります。あなたも、正しいと信じることのために闘い続けてください。」
彼女は急いで立ち去りましたが、その目には決意の色が浮かんでいました。
獄中にいても、私の思いは常に外の世界、そしてミャンマーの人々と共にありました。若者たちが街頭で非暴力の抗議活動を続けていることを聞き、私は誇りと同時に心配も感じていました。
「彼らの安全を守りたい。しかし、自由のための闘いを止めるわけにはいかない。」
私は獄中でも、可能な限り外部との連絡を取り、民主化運動の指針を示し続けました。それは困難を極めましたが、私の言葉は少しずつ、しかし確実に人々の心に届いていきました。
ある日、私は密かに外部の支持者に向けてメッセージを送りました。
「暴力に訴えてはいけません。平和的な抵抗を続けてください。そして、互いに助け合い、支え合ってください。私たちの力は団結にあるのです。」
このメッセージは、秘密裏に人々の間で広まっていきました。
獄中生活は厳しいものでしたが、私は決して希望を失いませんでした。毎日、瞑想を行い、心の平静を保つよう努めました。そして、父や、これまで民主化のために闘ってきた多くの人々のことを思い出しては、勇気を奮い立たせました。
「この試練も、いつかは終わる。そして、その時こそが、私たちが真の民主主義を築く機会となるのだ。」
私はそう信じて、日々を過ごしていました。
第8章:未来への希望
現在も、私の闘いは続いています。獄中にあっても、私の精神は決して折れることはありません。
私は常に、非暴力と対話による解決を訴え続けています。暴力は新たな暴力を生むだけです。真の変革は、互いを理解し、尊重することから始まるのです。
ある日、私は獄中で一枚の紙を手に入れることができました。そこに、私は若い世代へのメッセージを書きました。
「親愛なる若者たちへ
あなたたちの中に、この国の未来があります。恐れることなく、正しいと信じることのために声を上げ続けてください。しかし同時に、憎しみや暴力に頼ることなく、愛と理解の心を持ち続けてください。それこそが、真の強さなのです。
民主主義は、一朝一夕で実現するものではありません。それは、日々の小さな行動の積み重ねによって築かれるものです。あなたたち一人一人が、自由と民主主義のために闘う勇気を持つこと。そして、互いの違いを認め合い、対話を重ねること。それが、私たちの国を変える力となるのです。
困難な時代かもしれません。しかし、希望を失わないでください。暗闇が深ければ深いほど、夜明けは近いのです。私たちは必ず、自由で民主的なミャンマーを実現することができます。
あなたたちの中に、無限の可能性があることを忘れないでください。教育を大切にし、世界に目を向け、そして何より、自分自身を信じてください。
私の闘いは、あなたたちの未来のためのものです。そして今、その闘いはあなたたちに託されています。
勇気を持って前進してください。私は、あなたたちを誇りに思います。」
このメッセージは、秘密裏に外部に伝えられ、若者たちの間で広まっていきました。
私の人生は、決して平坦な道のりではありませんでした。多くの試練と苦難がありました。しかし、私は常に信念を貫き、ミャンマーの民主化と人々の自由のために闘い続けてきました。
この闘いは、まだ終わっていません。しかし、私は希望を持ち続けています。いつの日か、ミャンマーが真の民主主義国家となり、全ての人々が自由と尊厳を持って生きられる日が来ることを。
そして、その日が来るまで、私は闘い続けます。それが、私の使命であり、ミャンマーの人々への約束なのです。
エピローグ
私、アウン・サン・スー・チーの物語は、まだ終わっていません。これは、一人の女性の物語であると同時に、一つの国の物語でもあります。
私の闘いは、単に政治的な権力を得るためのものではありません。それは、全てのミャンマーの人々が、自由に、尊厳を持って生きられる社会を作るためのものです。
この道のりは長く、困難に満ちています。時には挫折し、疑問を感じることもあります。しかし、私は決して希望を失うことはありません。
なぜなら、私は信じているからです。人々の中にある善意と勇気を。非暴力の力を。そして、いつの日か必ず訪れる、自由で民主的なミャンマーの未来を。
私の闘いは、まだ続いています。そして、これからも続いていくでしょう。それは私一人の闘いではなく、全てのミャンマーの人々との共同の闘いなのです。
私たちは必ず勝利します。なぜなら、私たちの側には真実があり、正義があるからです。そして何より、自由を求める人々の不屈の精神があるからです。
未来の世代へ。この物語を読んでくれたあなたへ。
どんなに暗い夜でも、必ず夜明けは来ます。希望を持ち続けてください。そして、正しいと信じることのために、声を上げ続けてください。
あなたたちの中に、この国の、そして世界の未来があるのです。
私の人生を振り返ると、多くの苦難がありました。しかし、同時に多くの喜びと希望もありました。私が経験したことの全てが、今の私を形作っています。
父の遺志を継ぐことを決意した少女時代。海外で学び、視野を広げた青年期。家族との別れを決意した壮年期。そして、幾度となく自由を奪われながらも、闘い続けてきた日々。
これらの経験全てが、私の中で一つになっています。そして、これらの経験が、私にミャンマーの未来のために闘う力を与えてくれるのです。
私の闘いは、まだ終わっていません。そして、恐らく私の生涯の中では終わらないかもしれません。しかし、それは決して無駄ではありません。
なぜなら、私たちの闘いは、次の世代に引き継がれていくからです。私たちが蒔いた種は、やがて芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶでしょう。
そして、その時が来たら、ミャンマーは真に自由で民主的な国となるのです。全ての人々が、平等に、尊厳を持って生きられる国となるのです。
その日まで、私は闘い続けます。そして、あなたたちにも闘い続けてほしいのです。
平和的に、しかし断固として。
愛を持って、しかし妥協することなく。
希望を持って、そして決して諦めることなく。
これが、私からあなたたちへのメッセージです。
そして、これが私の人生の意味なのです。