第1章:貧しい少年時代
私の名前はエイブラハム・リンカーン。1809年2月12日、ケンタッキー州の寒村に生まれました。生まれた場所は、シンキング・スプリング農場という名の開拓地でした。丸太小屋で育った私の幼少期は、決して楽なものではありませんでした。
父のトマスは無学で厳しい人でしたが、母のナンシーは優しく、私に読み書きを教えてくれました。母は教育の大切さを知っていたのです。私が6歳の時、家族でインディアナ州に引っ越しました。そこでの生活は更に厳しいものでした。
「エイブ、今日は薪を割るんだ」
父の声に目覚める日々が続きました。重い斧を持ち上げるのも一苦労でしたが、家族のために頑張りました。
しかし、私が9歳の時、最愛の母が突然の病気で亡くなってしまいました。その日のことは今でも鮮明に覚えています。
「エイブ、お母さんはもう戻ってこないんだよ」
父の声は震えていました。私は何も言えず、ただ泣きました。母の死は私に大きな衝撃を与え、長い間立ち直れませんでした。
1年後、父は再婚し、義母のサラがやってきました。最初は戸惑いましたが、サラは本当に良い人で、私たち兄弟を実の子供のように愛してくれました。彼女は、私の人生に大きな影響を与えた人物の一人です。
ある日、サラが私に言いました。
「エイブ、あなたは賢い子ね。もっと勉強したいと思わない?」
「ええ、でも…学校に行く余裕はないでしょう」と私は答えました。
「大丈夫よ。私が本を買ってあげる。あなたの将来のためだもの」
サラの励ましで、私は猛烈に勉強しました。昼間は農作業を手伝い、夜は蝋燭の灯りで本を読みふけりました。学校に通えたのは1年足らずでしたが、私は読書が大好きでした。特に、ジョージ・ワシントンの伝記に夢中になりました。
「いつか、ワシントンのような偉大な人になりたい」
そう思いながら、私は毎晩遅くまで本を読みました。
16歳の時、初めて賃金をもらう仕事をしました。木材を筏に組んでミシシッピ川を下り、ニューオーリンズまで運ぶ仕事です。その旅で、私は初めて奴隷制の現実を目の当たりにしました。
市場で奴隷が売買されている光景を見て、私は心の底から怒りを覚えました。
「なぜ人間を物のように売り買いするのだ」と、仲間に言いました。
「そういうものさ、エイブ。世の中はそんなもんだよ」と友人は答えましたが、私は納得できませんでした。
「いつか、この不正を正さなければならない」
その日、私は心に誓いました。当時の私には、その誓いが後に歴史を変えることになるとは想像もつきませんでした。
第2章:青年期の苦悩と成長
21歳になった私は、イリノイ州に移り住みました。ニューセーラムという小さな村で、様々な仕事を経験しました。店員、郵便配達員、測量士…私は自分の居場所を探し続けていました。
店員として働いていた時、私は村人たちと多くの会話を交わしました。彼らの生活や悩み、希望を聞くうちに、私は人々のために何かしたいという思いを強くしていきました。
ある日、友人のジョシュアが私に言いました。
「エイブ、お前は頭がいいんだから、法律を勉強してみたらどうだ?」
「でも、俺には大学に行くお金なんてないよ」と私は答えました。
「独学でもできるさ。お前ならきっとやれるはずだ」
ジョシュアの言葉に励まされ、私は法律の独学を始めました。昼間は仕事をし、夜は蝋燭の灯りで法律書を読みふけりました。時には眠気と戦いながら、それでも諦めませんでした。
「いつか、この知識を使って人々を助けられるはずだ」
そう信じて、私は勉強を続けました。
しかし、勉強だけでなく、私生活でも苦悩の日々が続きました。恋に落ちた女性、アン・ラトレッジとの結婚を夢見ていましたが、彼女は突然の病で亡くなってしまったのです。
「なぜだ…なぜアンが」
私は深い悲しみに沈みました。生きる意味さえ見いだせなくなり、うつ状態に陥りました。
そんな時、親友のジョシュア・スピードが私を支えてくれました。
「エイブ、お前にはまだやるべきことがあるはずだ。アンもそれを望んでいるはずだよ」
ジョシュアの言葉に、少しずつ立ち直る勇気をもらいました。そして、法律の勉強にさらに打ち込むようになりました。
1836年、ついに私は弁護士の資格を取得しました。法廷に立った時の緊張と興奮は今でも忘れられません。
「リンカーン弁護士、あなたの主張は?」と裁判官に問われた時、私は深呼吸をして答えました。
「はい、私の依頼人は無実です。そして、それを証明してみせます」
初めての裁判で勝訴した時の喜びは言葉では表せません。正義のために戦う喜びを感じ、これこそが自分の天職だと確信しました。
弁護士として成功する中で、政治にも興味を持ち始めました。1834年にイリノイ州議会議員に当選し、政治家としての第一歩を踏み出しました。
そして1842年、メアリー・トッドという女性と出会い、結婚しました。彼女は聡明で野心的な女性で、私の政治家としての歩みを常に支えてくれました。
「あなたなら、きっと大統領になれるわ」とメアリーはよく言いました。
「まさか、そんな…」と私は笑い飛ばしましたが、心の中では大きな目標が芽生え始めていました。
第3章:政治家としての成長
1846年、私は連邦下院議員に当選しました。ワシントンD.C.での生活は、田舎育ちの私にとって大きな挑戦でした。
初めて議会に足を踏み入れた時、私は圧倒されそうになりました。
「ここで本当に自分の声を届けられるのだろうか」
そんな不安を抱えながらも、私は決意を新たにしました。
議員として、私は奴隷制に反対する立場を明確にしました。しかし、それは多くの敵を作ることにもなりました。
ある日、南部出身の議員が私に詰め寄ってきました。
「リンカーン、お前は南部の伝統を理解していない。奴隷制は我々の経済の基盤なんだ」
「しかし、それは人間の尊厳を踏みにじるものです」と私は反論しました。
「人間には皆、平等に自由を追求する権利があるはずです」
この信念は、後に私の政治家としての核心となりました。
1854年、カンザス・ネブラスカ法が可決され、奴隷制の新たな領土への拡大を認めました。私はこの法律に強く反対し、共和党の結成に参加しました。
「この国が、奴隷制という悪に屈するわけにはいかない」
私はそう信じて、精力的に演説を行いました。
1858年、イリノイ州の上院議員選挙に出馬しました。対戦相手はステファン・A・ダグラスという強敵でした。我々は各地で討論会を行い、奴隷制問題について激しく議論を交わしました。
「ダグラス氏、奴隷制を新しい領土に広げることは、この国の建国の理念に反するのではないでしょうか」
私はこう問いかけました。
「リンカーン氏、それぞれの地域が自ら決定すべき問題です」
とダグラスは反論しました。
結果的に私は落選しましたが、この討論を通じて全国的に名が知られるようになりました。そして、奴隷制に反対する共和党の有力候補として注目されるようになったのです。
1860年、ついに大統領選に出馬することになりました。選挙戦は激しいものでした。南部の州からは、私が大統領になれば連邦から離脱すると脅迫めいた声明も出されました。
選挙の夜、私は家族と共に結果を待っていました。
「父さん、勝てるかな?」と息子のタッドが不安そうに聞きました。
「分からないよ、タッド。でも、結果がどうあれ、我々にはやるべきことがある」
私はそう答えながら、胸の高鳴りを抑えきれませんでした。
そして、ついに結果が発表されました。私、エイブラハム・リンカーンが、アメリカ合衆国第16代大統領に選出されたのです。
喜びと同時に、大きな責任を感じました。国は今、南北分裂の危機に瀕していたのです。
「これから困難な道のりになるでしょう」と私は家族に言いました。「しかし、この国を一つにするために、私にできることは全てやるつもりです」
大統領就任を目前に控え、私の心は決意と不安が入り混じった複雑な思いでいっぱいでした。
第4章:大統領としての苦悩
1861年3月4日、私は大統領として就任の宣誓を行いました。しかし、その時すでに南部の7州が連邦からの離脱を宣言していました。
就任演説で、私はこう訴えかけました。
「我々は敵ではありません。我々は友人です。敵対してはなりません」
しかし、私の言葉は南部には届きませんでした。
1861年4月12日、サウスカロライナ州のサムター要塞で内戦が勃発しました。私は軍の総司令官として、戦争の指揮を執ることになりました。
「大統領、我々はどう対応すべきでしょうか」と、閣僚たちが私に問いかけました。
「我々には選択肢がありません。連邦を守るために戦わねばならないのです」
私は重い口調で答えました。
戦争は長引き、多くの犠牲者が出ました。毎日のように戦死者のリストが届き、私の心は痛みで押しつぶされそうでした。
ある日、私は戦場を視察しました。負傷した兵士たちを見て、私は涙を抑えきれませんでした。
「大統領、なぜ泣いているんです?」と、ある兵士が尋ねました。
「君たちの勇気と犠牲に、感謝の念を禁じ得ないのだ」と私は答えました。
戦争の間、私は多くの苦難に直面しました。軍の指揮官たちとの意見の相違、北部内での反戦の声、そして何よりも、日々増え続ける犠牲者の数に心を痛めました。
しかし、私は決して諦めませんでした。この戦いが、単なる権力争いではなく、アメリカの理想を守るための戦いだと信じていたからです。
1862年9月、私は奴隷解放宣言の発布を決意しました。これは、道