第1章:幼少期の記憶
私の名前はジャン・カルヴァン。1509年7月10日、フランスのピカルディー地方にあるノワイヨンという小さな町で生まれました。父はジェラール・コーヴァン、母はジャンヌ・ル・フランでした。父は司教座聖堂参事会の書記で、教会との関わりが深かったのです。
幼い頃の私の記憶は、教会の鐘の音と聖歌隊の歌声で満ちています。ノワイヨンの町を見下ろすように建つ大聖堂は、私にとって第二の家のようでした。その威厳ある石造りの建物の中で、私は多くの時間を過ごしました。
ステンドグラスを通して差し込む色とりどりの光、香の煙が漂う祭壇、そして厳かに響く聖歌。これらの光景と音は、幼い私の心に深く刻まれました。
「ジャン、神様はいつも私たちを見守っておられるんだよ」
父の言葉を今でも覚えています。その頃の私には、その言葉の本当の意味がわかりませんでしたが、何か大切なことを言われているような気がしていました。父の眼差しには、信仰の深さと、私への期待が込められていたように思います。
私には兄のシャルルと、弟のアントワーヌがいました。三人兄弟の真ん中である私は、兄の真面目さと弟の好奇心旺盛な性格の両方を持ち合わせていたように思います。
シャルルは常に模範的な兄でした。彼の勤勉さと信仰心の深さは、私にとって大きな刺激となりました。一方、アントワーヌは常に新しいことを知りたがる性格で、彼の質問は時に大人たちを困らせることもありました。
「ねえ、ジャン。神様ってどんな人なの?」
ある日、アントワーヌがそう尋ねてきました。私は少し考えてから答えました。
「うーん、神様は私たちの父親みたいな存在かな。でも、もっと大きくて、もっと優しくて、そしてもっと厳しい存在なんだと思う」
その時の私の答えは、まだ幼く単純なものでしたが、後の人生で私が探求することになる神学の萌芽がそこにあったのかもしれません。
幼少期の私たちの生活は、教会の暦に沿って進んでいきました。復活祭、聖霊降臨祭、クリスマス。これらの祝祭日は、私たちの生活に彩りを添え、信仰の深さを感じさせてくれました。
特に印象に残っているのは、聖体行列の日です。町中の人々が集まり、聖体を掲げた司祭の後を厳かに歩く姿は、幼い私の目には神秘的で畏敬の念を抱かせるものでした。
「ジャン、あの聖体の中に本当にイエス様がいらっしゃるの?」とアントワーヌが尋ねたことがあります。
「そうだよ。目には見えないけれど、確かにそこにいらっしゃるんだ」と私は答えました。しかし、心の中では疑問も感じていました。後年、この聖体の教義について深く考察することになるとは、その時は想像もしていませんでした。
学校では、ラテン語の初歩を学び始めました。言葉の持つ力、特に神の言葉の重要性を、この頃から感じ取っていたように思います。聖書の言葉を原語で読むことの大切さは、後の私の神学研究の基礎となりました。
「言葉は神の賜物だ、ジャン。言葉を大切にし、正しく使うことを学びなさい」
先生のこの言葉は、私の心に深く刻まれました。
こうして、信仰と学問に囲まれた環境で、私の幼少期は過ぎていきました。後に私が宗教改革者となる道筋は、既にこの時期に敷かれていたのかもしれません。
第2章:学びの日々
14歳になった私は、パリ大学で学ぶ機会を得ました。1523年のことです。当時のパリは、ヨーロッパ中から学生が集まる学問の中心地でした。ノワイヨンの小さな町から大都市パリへの移動は、私にとって大きな冒険でした。
パリに到着した日、私は圧倒されました。ノワイヨンとは比べものにならないほど大きな街並み、そして活気に満ちた大学の雰囲気。狭い路地に立ち並ぶ家々、市場のにぎわい、そして様々な言語が飛び交う様子。すべてが新鮮で、私の心は興奮と不安で一杯でした。
大学の門をくぐった時、私は身の引き締まる思いがしました。ここで学ぶ機会を与えてくれた父への感謝の気持ちと、これから始まる新しい生活への期待が胸に込み上げてきました。
「カルヴァン君、君はまだ若いが、非常に優秀だ。これからの君の成長が楽しみだよ」
マチュラン・コルディエ先生は、私の才能を高く評価してくださいました。コルディエ先生は、ラテン語の教師として名高い方でした。先生の教え方は、単に文法や語彙を教えるだけでなく、古典の美しさや深い思想を伝えようとするものでした。
「言葉は単なる道具ではない。言葉には力がある。その力を正しく使えるようになることが、真の学問だ」
コルディエ先生のこの言葉は、私の心に深く刻まれました。後に私が聖書の言葉の力を説くようになったのも、この教えが基礎になっていたのかもしれません。
パリでの学びは、私の視野を大きく広げました。古典文学、哲学、論理学。これらの学問は、私の思考を鍛え、後の神学研究の基礎となりました。特に、アリストテレスの論理学は、私の思考方法に大きな影響を与えました。
しかし、学問の道は決して平坦ではありませんでした。夜遅くまで勉強し、時には体調を崩すこともありました。寮生活の不便さ、家族や故郷への思いが募ることもありました。
そんな時、同級生のニコラ・コップが私を励ましてくれました。ニコラは、私と同じくらい勉学に熱心で、互いに刺激し合う良きライバルでもありました。
「ジャン、君ならできる。一緒に頑張ろう」
ニコラの言葉に勇気づけられ、私は再び勉学に打ち込みました。私たちは夜遅くまで議論を交わし、互いの考えを磨き合いました。この友情は、後に大きな意味を持つことになります。
パリでの学びの中で、特に印象に残っているのは、アウグスティヌスの著作との出会いです。「告白」を読んだ時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
「神よ、あなたは私たちをあなた自身に向けて創造されました。そして、私たちの心は、あなたのうちに安らぎを見出すまでは、休むことがありません」
アウグスティヌスのこの言葉は、私の心に深く刻まれました。人間の魂の本質、神との関係性について、深く考えさせられました。この言葉が、後の私の神学思想の基礎となったのです。
また、この時期のパリは、新しい思想の波が押し寄せていた時代でもありました。ルターの宗教改革の影響が、少しずつですが確実にフランスにも及んでいました。大学内でも、カトリック教会の教えに疑問を投げかける声が、密かに囁かれ始めていました。
「教会の教えと聖書の言葉が、時として矛盾しているように感じないか?」
ある日、ニコラがそっと私に尋ねました。その時の私は、まだこの問いの重大さを十分に理解していませんでした。しかし、この疑問は私の心の中で静かに芽生え、やがて大きく成長していくことになります。
パリ大学での学びは、私の人生に大きな影響を与えました。ここで私は、古典語や哲学、そして神学の基礎を学びました。そして何より、批判的に思考することの重要性を学びました。
「常に真理を追求し、権威に盲従することなく、自分の頭で考えることが大切だ」
コルディエ先生の最後の教えは、私の人生の指針となりました。この教えは、後に私が宗教改革の道を歩む上で、大きな支えとなったのです。
第3章:回心の時
1533年、私は24歳になっていました。パリ大学で法学を学んでいた私は、将来の法律家としてのキャリアを夢見ていました。法律の世界は、論理的思考と言葉の正確な使用が求められる点で、私の才能が生かせる分野だと考えていたのです。
しかし、神は私に別の計画を用意しておられたのです。その年の秋、私は深い霊的な経験をしました。後に私はこの経験を「突然の回心」と呼ぶことになります。
それは、ある静かな夜のことでした。私は自室で聖書を読んでいました。そのとき、まるで目の前のベールが取り払われたかのような体験をしたのです。聖書の言葉が、これまでとは全く違う意味を持って私の心に迫ってきました。
「私は自分の罪深さを痛感し、同時に神の無限の恵みを感じた」
私はその時の気持ちを、後に著書の中でこう表現しました。それは、言葉では十分に表現できないような、圧倒的な体験でした。自分の無力さと罪深さを痛感すると同時に、神の無限の愛と恵みを感じたのです。
この経験は、私の人生の方向性を大きく変えることになりました。法律家としてのキャリアを追求するのではなく、神の言葉を研究し、それを人々に伝えることが自分の使命だと感じたのです。
しかし、この決断は簡単なものではありませんでした。父の期待を裏切ることになるのではないか、という不安がありました。また、当時のフランスでは、カトリック教会の教えに疑問を投げかけることは危険を伴うことでもありました。
「神様、私はどうすればよいのでしょうか」
私は幾晩も眠れぬ夜を過ごし、祈り続けました。そして最終的に、神の召命に従う決意をしたのです。
この回心は私一人の出来事ではありませんでした。当時のフランスでは、マルティン・ルターの思想が静かに、しかし確実に広まっていました。多くの人々が、カトリック教会の教えと聖書の言葉の間にある矛盾に気づき始めていたのです。
私の親友ニコラ・コップもその影響を受けた一人でした。彼は私に、自分の考えを打ち明けてくれました。
「ジャン、私たちは教会の改革が必要だと思う。現状のままでは、真の信仰は失われてしまう」
ニコラの言葉に、私も強く共感しました。カトリック教会の腐敗、免罪符の販売、聖職者の堕落。これらの問題に目をつぶることはできないと感じたのです。
しかし、改革派の思想を公に語ることは、当時のフランスでは危険を伴うことでした。異端とみなされれば、命の危険すらありました。私たちは、慎重に行動する必要がありました。
1533年11月1日、ニコラはパリ大学の学長就任演説で改革派の思想を語りました。その演説の原稿を書いたのは、実は私でした。演説の中で、私たちは教会の改革の必要性を訴え、聖書に立ち返ることの重要性を強調しました。
「真の信仰は、人間の伝統や制度ではなく、神の言葉にのみ基づくべきです」
これは、演説の中心的なメッセージでした。会場には静寂が広がり、多くの人々が深く考え込む様子が見られました。
しかし、この演説は大きな波紋を呼びました。カトリック教会の権威者たちは激怒し、私たちを異端者として追及し始めたのです。
「逃げなければ」
ニコラの切迫した声に、私も同意せざるを得ませんでした。私たちは急いでパリを脱出し、安全な場所を求めて逃亡の旅に出ることになったのです。
この出来事は、私の人生の大きな転換点となりました。法律家としての将来を捨て、神の言葉を研究し広める道を選んだのです。それは困難な道のりになることが予想されましたが、私の心は不思議な平安に満たされていました。
「神よ、あなたの御心のままに」
私はそう祈りながら、新たな人生の一歩を踏み出したのです。
第4章:逃亡の日々
パリを脱出した私たちは、身の安全を求めて逃亡の日々を送ることになりました。それは、恐怖と不安に満ちた日々でした。
最初の数日間、私たちはパリ近郊の農村地帯を転々としました。昼間は人目を避けて森の中に身を隠し、夜になると次の隠れ家を目指して移動しました。時には農家の納屋に身を寄せることもありました。
「神様、どうか私たちをお守りください」
毎晩、私はそう祈りました。不安と恐怖の中で、私の信仰は逆に強くなっていきました。困難な状況の中で、神の存在をより強く感じるようになったのです。
ニコラと私は、お互いを励まし合いながら逃亡を続けました。時には意見の相違で言い争うこともありましたが、共通の信念が私たちを結びつけていました。
「ジャン、私たちがしていることは正しいんだ。神の言葉を純粋な形で人々に伝えることが、私たちの使命なんだ」
ニコラの言葉に、私も強くうなずきました。
逃亡の途中、私たちは時折、改革派の思想に共感する人々の助けを借りることができました。彼らは私たちに食事と寝床を提供し、次の目的地への道を教えてくれました。こうした人々の存在は、私たちに大きな勇気を与えてくれました。
「改革の種は、既にフランス中に蒔かれているんだ」
そう実感した私は、将来への希望を感じました。
しかし、逃亡生活は私たちの体力と精神力を徐々に消耗させていきました。寒さと飢えに苦しむ日々が続き、時には病気に倒れることもありました。そんな中で、私は聖書の言葉に大きな慰めを見出しました。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」(詩篇23篇)
この言葉を口ずさみながら、私は困難に立ち向かう勇気を得ました。
1535年、私はついにバーゼルにたどり着きました。バーゼルは、当時改革派の思想に寛容な都市として知られていました。ここで私は、ようやく安全な環境で神学研究に打ち込むことができるようになったのです。
バーゼルでの生活は、パリでの逃亡生活とは打って変わって平穏なものでした。しかし、私の心は決して安逸に流されることはありませんでした。逃亡の日々の経験は、私の信仰をより強固なものにし、改革の必要性をより強く感じさせたのです。
バーゼルで、私は生涯の大著となる「キリスト教綱要」の執筆を始めました。この本は、私の信仰と神学思想を体系的にまとめたものです。執筆の過程で、私は自分の考えをより明確に整理し、深めていくことができました。
「この本を通じて、多くの人々が真の信仰を理解し、神の恵みを知ることができますように」
そう祈りながら、私は執筆に没頭しました。時には一日中机に向かい、食事も忘れて書き続けることもありました。
「キリスト教綱要」の中で、私は聖書のみが信仰の唯一の基準であること、救いは神の恵みのみによるものであること、そして教会は常に改革され続ける必要があることを主張しました。これらの主張は、後に「宗教改革の五大原則」として知られるようになります。
執筆の過程で、私は自分の思想がより明確になっていくのを感じました。逃亡の日々の経験、聖書研究、そして多くの先人たちの著作との対話。これらすべてが、私の神学思想を形作っていったのです。
1536年、「キリスト教綱要」の初版を出版した時、私は大きな達成感を感じました。同時に、これが新たな旅の始まりに過ぎないことも理解していました。
「この本が、多くの人々の心に届きますように」
そう祈りながら、私は次の一歩を踏み出す準備をしていました。神が私にどのような道を用意しているのか、その時の私にはまだわかりませんでした。しかし、神の導きを信じて前に進む決意は、固く心に刻まれていたのです。
第5章:ジュネーヴでの挑戦
1536年、「キリスト教綱要」の初版を出版した私は、イタリアへ向かう途中でジュネーヴに立ち寄りました。当初は一晩の滞在のつもりでしたが、この立ち寄りが私の人生を大きく変えることになるとは、想像もしていませんでした。
ジュネーヴでの最初の夜、私はギヨーム・ファレルという改革派の説教者と出会いました。ファレルは、ジュネーヴで宗教改革を進めていた情熱的な指導者でした。彼は私の著書「キリスト教綱要」を読んでおり、私の才能を高く評価していました。
「カルヴァン、あなたの才能は神から与えられたものです。ここジュネーヴで、その才能を神のために使ってください」
ファレルの熱意に満ちた要請に、私は戸惑いを感じました。私にはイタリアでの研究計画があり、公の場で改革を推進する準備はまだできていないと感じていたのです。
「申し訳ありません、ファレルさん。私にはまだその準備ができていません」
私がそう断ると、ファレルは激しい口調で私を諭しました。
「あなたの学問を口実に、神の召命から逃げようとするのですか?神の裁きがあなたの上に下るでしょう!」
ファレルの言葉は、私の心を深く揺さぶりました。彼の情熱と確信に満ちた態度に、私は神の導きを感じたのです。長い沈黙の後、私は決意を固めました。
「わかりました。神の御心であれば、私はここに留まります」
こうして、私のジュネーヴでの宗教改革の仕事が始まりました。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
ジュネーヴの人々は、カトリック教会の権威から解放されたばかりで、新しい秩序を受け入れる準備がまだできていませんでした。私たちが提案した厳格な教会規律は、多くの市民の反発を招きました。
「なぜ私たちの生活に干渉するのだ!」
「お前たちの言うことを聞く必要はない!」
市民たちの怒声が、教会の外まで聞こえてきました。私たちは、改革の必要性を粘り強く説明し続けました。
「私たちが目指しているのは、神の栄光を現すことです。そのためには、私たち一人一人の生活が聖書の教えに沿ったものでなければなりません」
私はそう説明しましたが、多くの人々の心には届きませんでした。
また、政治的な対立も激しくなっていきました。ジュネーヴの市政を握っていた「自由党」と呼ばれるグループは、私たちの改革に反対していました。彼らは、教会の影響力が強くなりすぎることを恐れていたのです。
1538年、ついに事態は最悪の展開を迎えました。イースターの礼拝で、私たちは聖餐式を行うことを拒否しました。これは、悔い改めの兆しが見られない市民たちに聖餐を与えることは適切ではないと判断したためです。
この決定は、市民たちの怒りを爆発させました。暴動が起こり、私とファレルはジュネーヴから追放されてしまいました。
「神様、私は失敗してしまったのでしょうか」
追放された私の心は、深い挫折感に満たされました。しかし、同時に、この経験が私に多くのことを教えてくれたことも感じていました。
「改革は、単に教義を正すだけでは不十分だ。人々の心を変える必要がある」
この気づきは、後の私の思想と活動に大きな影響を与えることになりました。
ジュネーヴを去る時、私の心は複雑な思いで一杯でした。挫折感と後悔、そして将来への不安。しかし同時に、神の計画を信じる強い思いもありました。
「神よ、あなたの御心のままに」
私はそう祈りながら、新たな道を歩み始めたのです。この経験は、後に私の思想をより成熟させる糧となりました。そして、思いもよらない形で、再びジュネーヴに戻る日が来ることになるのです。
第6章:ストラスブールでの日々
ジュネーヴを追われた私は、ストラスブールに身を寄せました。ストラスブールは、当時ドイツ語圏の自由都市で、宗教改革の重要な拠点の一つでした。ここで私は、マルティン・ブツァーという改革者の下で学ぶ機会を得ました。
ブツァーは、私よりも年上の経験豊富な改革者でした。彼は私に多くのことを教えてくれました。特に、教会運営の実践的な面について学ぶことができました。
「カルヴァン、理論だけでなく実践も大切だ。人々の心に寄り添いながら、改革を進めていく必要がある」
ブツァーの言葉は、私の中に深く刻まれました。ジュネーヴでの失敗を反省し、より現実的なアプローチの必要性を感じていた私にとって、この教えは貴重なものでした。
ストラスブールでの3年間は、私にとって充実した時間でした。ここで私は、フランス人難民のための教会を設立し、牧師として働きました。この経験は、私に多くのことを教えてくれました。
教会の運営、説教の準備、信徒の相談に乗ること。これらの実践的な仕事を通じて、私は神学者としてだけでなく、牧師としての能力も磨いていきました。
「神の言葉を説くことは、単に知識を伝えることではない。人々の心に触れ、彼らの人生を変える力を持つものでなければならない」
この気づきは、私の説教スタイルを大きく変えました。より分かりやすく、より情熱的に、そしてより実践的に神の言葉を伝えるよう心がけるようになりました。
また、ストラスブールでは神学の講義も行いました。若い神学生たちに教えることで、私自身の思想もより明確になっていきました。彼らの質問に答えることで、自分の考えをより深く掘り下げる機会を得たのです。
そして、個人的な面でも大きな変化がありました。1540年、イドレット・ド・ビュールという女性と結婚したのです。イドレットは、私の仕事を深く理解し、支えてくれる素晴らしいパートナーでした。
「ジャン、あなたの使命を支えていきたいわ」
イドレットの優しい言葉に、私は大きな励ましを感じました。彼女の存在は、孤独だった私の人生に温かな光をもたらしてくれました。
しかし、平穏な日々は長くは続きませんでした。1541年、ジュネーヴの状況が混乱し、市当局が私の帰還を要請してきたのです。
「カルヴァン、もう一度ジュネーヴで共に働こう」
ファレルからの手紙を読み、私は深く考え込みました。ジュネーヴに戻るべきか、それともストラスブールに留まるべきか。私の決断が、多くの人々の人生に影響を与えることになるのです。
「神よ、私に正しい道を示してください」
私は幾晩も眠れぬ夜を過ごし、祈り続けました。そして最終的に、ジュネーヴに戻る決意をしたのです。
「イドレット、私はジュネーヴに戻らなければならない」
妻に告げると、彼女は静かにうなずきました。
「あなたの決断を支持します。私もあなたと共に行きます」
イドレットの言葉に、私は深い感謝の念を覚えました。
ストラスブールを去る前日、ブツァーは私にこう言いました。
「カルヴァン、君はジュネーヴで大きな仕事をすることになるだろう。しかし、忘れないでくれ。改革は人々の心を変えることから始まるのだ」
この言葉を胸に刻み、私は再びジュネーヴへの旅に出たのです。
第7章:ジュネーヴでの改革
1541年9月、私はジュネーヴに戻りました。3年前に追放された街に戻ることは、複雑な思いを抱かせるものでした。しかし、市民たちの態度は、3年前とは大きく変わっていました。彼らは今、秩序と指導を求めていたのです。
「カルヴァン先生、私たちを導いてください」
多くの市民が、そう言って私を迎えてくれました。しかし、私は以前の失敗を繰り返さないよう、慎重に行動しました。
まず、私は「教会規則」を作成しました。これは、教会の組織と規律を定めたものです。教会の役職、礼拝の方法、道徳的規律などが詳細に規定されていました。
「この規則は、私たちの信仰生活を導く羅針盤となるでしょう」
私はそう説明しましたが、中には反発する人々もいました。
「これは自由の侵害だ!」
「カルヴァンは独裁者になろうとしている!」
そんな声も聞こえてきました。しかし、私は信念を曲げませんでした。
「これは神の栄光のためであり、皆さんの魂の救いのためなのです」
粘り強く説得を続けた結果、徐々に人々の理解を得ることができました。
教会の改革と並行して、私は神学校の設立にも力を注ぎました。将来の牧師たちを育てることが、改革を持続させる鍵だと考えたのです。
「若い皆さん、神の言葉を学び、それを人々に伝える使命を担ってください」
神学校での講義は、私にとっても大きな喜びでした。若い学生たちと聖書を学び、議論を交わす中で、私自身の理解も深まっていきました。
しかし、すべてが順調だったわけではありません。1553年、スペインの神学者ミカエル・セルベトゥスが異端の罪で処刑されるという事件が起こりました。セルベトゥスは三位一体説を否定する著作を書いており、カトリック教会からもプロテスタントからも異端とされていました。
私もこの決定に関与したことで、後世の批判を受けることになります。当時の私は、異端は社会の秩序を乱し、多くの魂を惑わすものだと考えていました。しかし、処刑という極端な措置には疑問も感じていました。
「神よ、私の判断は正しかったのでしょうか」
この出来事は、私に大きな葛藤をもたらしました。信仰の自由と社会の秩序、寛容と真理の擁護。これらのバランスをどう取るべきか、私は深く悩みました。
この経験は、私の思想をより成熟させることになりました。寛容の重要性、そして同時に真理を守ることの難しさ。これらの課題に、私は生涯取り組むことになるのです。
ジュネーヴでの改革は、徐々に実を結んでいきました。教会は整備され、道徳的な規律も守られるようになりました。しかし、最も重要な変化は、人々の心の中に起こっていました。
「神の言葉が、私たちの生活のすべてを導くものとなりました」
ある信徒の言葉に、私は深い感動を覚えました。これこそが、私が目指していた改革の本質だったのです。
しかし、改革の道のりは終わりのないものでした。常に新たな課題が現れ、それに対処していく必要がありました。政治的な対立、経済的な問題、そして常に存在するカトリック教会との緊張関係。これらの課題に、私は生涯を通じて取り組み続けることになるのです。
第8章:晩年と遺産
年月が過ぎ、私の健康は徐々に衰えていきました。しかし、私の改革への情熱は衰えることはありませんでした。
1559年、長年の夢であったジュネーヴ・アカデミー(現在のジュネーヴ大学の前身)を設立することができました。ここで、次世代の改革者たちを育てることができると、私は大きな希望を抱きました。
「若い諸君、ここで学んだことを世界中に広めてほしい」
開校式での私の言葉に、学生たちは熱心にうなずいていました。彼らの目の輝きに、私は改革の未来を見ました。
アカデミーは、すぐに評判を呼び、ヨーロッパ中から学生が集まるようになりました。ここで学んだ学生たちは、後にそれぞれの国で改革運動の中心的な役割を果たすことになります。
この時期、私は「キリスト教綱要」の改訂にも取り組んでいました。初版から20年以上が経ち、私の思想もより成熟し、体系化されていました。最終版は、プロテスタント神学の集大成とも言えるものになりました。
しかし、私の体調は日に日に悪化していきました。長年の過労と病気が、私の体を蝕んでいたのです。それでも、私は最後まで働き続けました。
「まだやるべきことがたくさんある」
そう言いながら、私は毎日聖書の研究と説教の準備に励みました。
1564年5月27日、私は友人たちに囲まれて最期の時を迎えました。ベッドの周りには、長年共に働いてきた同志たちが集まっていました。
「神の栄光のために生きてきました。これからは、皆さんに託します」
これが、私の最後の言葉でした。友人たちの顔を見回すと、彼らの目に涙が光っているのが見えました。しかし、それは悲しみの涙だけではありませんでした。決意の涙でもあったのです。
私の死後、私の教えは「カルヴァン主義」として広く知られるようになりました。スコットランドのジョン・ノックスや、オランダのテオドール・ド・ベーズなど、多くの弟子たちが私の思想を世界中に広めてくれました。
カルヴァン主義は、単なる神学体系以上のものとなりました。それは、人生観、世界観、そして社会のあり方にまで影響を与える思想となったのです。
予定説、聖書主義、教会改革の継続性。これらの教えは、後の世代に大きな影響を与えることになります。時には誤解され、批判されることもありましたが、多くの人々の信仰と生活を導く指針となりました。
私の人生を振り返ると、多くの困難がありました。追放、対立、病気。しかし、神の導きによって、私は自分の使命を全うすることができたと信じています。
「神の栄光のために」
これが、私の人生の指針でした。すべては神の栄光のためであり、神の恵みによるものでした。
今、私の魂は安らかです。私が蒔いた種が、これからも世界中で実を結び続けることを願っています。そして、真の改革が続いていくことを。なぜなら、教会は常に改革され続ける必要があるからです。
「Ecclesia reformata, semper reformanda」(改革された教会は、常に改革され続ける)
この言葉が、私の遺産となることを願っています。
(終わり)