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エジソン | 偉人ノベル
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エジソン物語

世界史発明
年表
1847年
0才
オハイオ州ミラノで誕生
1859年
12才
グランドトランク鉄道で新聞や菓子の販売を始める
1863年
16才
電信技師として働き始める
1868年
21才
最初の特許(電気式投票記録機)を取得
1876年
29才
ニュージャージー州メンロパークに研究所を設立
1877年
30才
蓄音機(フォノグラフ)を発明
1879年
32才
実用的な白熱電球を発明
1881年
34才
ニューヨーク市に初の発電所(パールストリート発電所)を建設
1887年
40才
ウェストオレンジに新研究所を設立
1891年
44才
キネトグラフ(動画撮影機)とキネトスコープ(動画再生機)を発明
1893年
46才
世界初の映画撮影所「ブラック・マリア」を建設
1901年
54才
蓄電池の開発を開始
1908年
61才
モーションピクチャー・パテンツ・カンパニーを設立
1914年
67才
第一次世界大戦中、海軍研究委員会の委員長を務める
1915年
68才
海軍諮問委員会のメンバーに任命される
1927年
80才
米国議会から金メダルを授与される
1928年
81才
科学への貢献によりコングレッショナル・ゴールド・メダルを受賞
1931年
84才
死去
物語の長さ
5分11分

第1章:好奇心旺盛な少年時代

私の名前はトーマス・アルバ・エジソン。1847年2月11日、オハイオ州ミラノで生まれた。幼い頃から、世界中のあらゆるものに興味があった。なぜ空は青いのか、なぜ鳥は飛べるのか、そんな疑問が次から次へと湧いてきた。

父のサミュエルは、政治活動や商売など様々な仕事をしていた。厳しい人だったが、私の好奇心を理解してくれていた。母のナンシーは元教師で、私の教育に熱心だった。

「トム、質問することは素晴らしいことよ」と、母はいつも励ましてくれた。「でも、答えを見つけるのは自分自身なのよ」

この言葉が、私の人生の指針となった。

7歳の時、家族でミシガン州ポートヒューロンに引っ越した。そこで私の人生を大きく変える出来事が起こった。学校に通い始めたのだ。

最初は楽しみにしていた学校だったが、すぐに困難に直面した。私は質問好きで、先生の話を遮ってしまうことがよくあった。また、集中力が続かず、よく空想にふけっていた。

ある日のこと。
「エジソン君、また教室で空想しているのかい?」
先生の声に我に返る。「すみません、先生。考え事をしていました」
「何を考えていたんだい?」
「電気について考えていたんです。もし電気を自由に操れたら、世界はどう変わるでしょうか?」

クラスメイトたちから笑い声が聞こえた。でも、先生は微笑んでくれた。
「大きな夢だね、トム。でも、夢を持つことは素晴らしいことだ。ただし、授業中は集中するように」

私は授業に集中しようとしたが、すぐに難しさを感じた。耳が遠く、先生の話をよく聞き取れなかったのだ。後に分かったことだが、これは幼い頃に患った猩紅熱の後遺症だった。

聞こえづらさのせいで、「おバカさん」と呼ばれることもあった。クラスメイトのジムは特に意地悪だった。

「ねえ、聞こえないトム!今日も先生の話、全然分かんなかっただろ?」
ジムの言葉に、私は悔しさで胸が痛んだ。でも、母は違った。

「トム、あなたは特別な子よ。学校で学べないことは、自分で学べばいいの」
母の言葉に励まされ、私は独学を始めた。図書館で科学の本を読みあさり、実験を繰り返した。

10歳の時、家の地下室に最初の実験室を作った。古い瓶や使わなくなった道具を集めて、簡単な化学実験を始めた。

ある日、硫酸と亜鉛を混ぜる実験をしていたとき、予想外の反応が起きた。
「わっ!」
突然の煙と悪臭に驚いて、私は後ずさりした。その拍子に、棚の上の試薬の瓶を倒してしまった。

「トーマス・アルバ・エジソン!何をしているんだ!」
父の怒鳴り声が響く。地下室に駆け降りてきた父の顔は真っ赤だった。

「す、すみません…実験をしていて…」
「危険だぞ!もう二度とこんな馬鹿なことはするな!」

父に叱られ、実験道具を片付けさせられた私は、落胆のあまり泣きそうになった。しかし、その夜、母が私の部屋に来てくれた。

「トム、お父さんはあなたの安全を心配しているのよ。でも、あなたの好奇心は素晴らしいものだわ。これからは安全に気をつけて、ね?」

母の言葉に勇気づけられ、私は決意を新たにした。「必ず、世界を驚かせるような発明をしてみせる」と、心に誓ったのだ。

第2章:若き起業家の誕生

12歳になった私は、家計を助けるために働き始めた。グランドトランク鉄道の列車内で、新聞や菓子、果物を売る仕事だ。毎日、デトロイトまでの往復7時間の車内で、乗客相手に商売をした。

この仕事で、私は多くのことを学んだ。人々とコミュニケーションを取ることの大切さ、ビジネスの基本、そして何より、世界の動きを知る喜びだ。新聞を売るために、自分でも熱心に読んだ。

ある日、いつものように駅で列車を待っていたとき、ぞっとするような光景を目にした。線路の上で、幼い男の子が遊んでいたのだ。

遠くから列車の汽笛が聞こえる。私は迷わず飛び出し、男の子を抱きかかえて線路脇に転がった。危機一髪のところで、列車が通り過ぎていった。

男の子の父親は駅長のマッケンジーさんだった。
「エジソン君、君は我が子の命の恩人だ。本当にありがとう」
マッケンジーさんは涙ぐみながら私の手を握った。
「何か恩返しをさせてくれないか?」

私は少し考えてから答えた。
「実は、モールス信号を学びたいんです」
「よし、教えてあげよう。毎日仕事の合間に、少しずつだが」

そうして私は電信技師としての第一歩を踏み出した。モールス信号の点と線の組み合わせに、私は魅了された。情報を離れた場所に瞬時に伝えられる。これは魔法のようだった。

仕事の合間を縫って、私はモールス信号の練習に励んだ。列車の中でも、頭の中で点と線を反復した。そして、驚くべきことに、わずか数ヶ月で熟達者と同じくらいの速さで信号を送れるようになった。

15歳になった私は、この技術を生かして最初の発明品「投票記録機」を作り上げた。これは、議会での投票を自動的に記録し集計する機械だった。

「これで、投票の集計が瞬時にできます!」
私は興奮して、議会で実演を行った。しかし、議員たちの反応は冷ややかだった。

「君、この機械は使えないな。我々には必要ない」
「そうだ。投票にはもっと時間がかかった方がいい。駆け引きの時間が必要なんだよ」

議員たちの言葉に、私は落胆した。せっかく作った機械が、誰にも必要とされない。この失敗は痛かった。

でも、この経験から大切なことを学んだ。
「人々が本当に必要としているものを発明しなければならない」

その夜、私は日記にこう書いた。
「今日の失敗は、明日への教訓だ。人々のニーズをよく観察し、本当に役立つものを作ろう」

この教訓を胸に、私は次の発明に取り組んだ。そして、電信技術の改良に成功。これが私の転機となった。

第3章:メンロパークの魔術師

22歳になった私は、ニューヨークに移り住んだ。大都会の喧騒と活気に、私はすぐに魅了された。そこで、株式相場表示機の改良に取り組んだ。

昼夜を問わず作業を続け、ついに改良に成功。この発明で4万ドルという大金を手に入れた。

「これで、夢の研究所が作れる!」
私は興奮して叫んだ。

1876年、ニュージャージー州メンロパークに研究所を設立。ここで、私は本格的な発明家としての第一歩を踏み出した。

「ここで、世界を変える発明をするんだ」
私は心に誓った。

研究所には、才能ある若者たちを集めた。その中の一人、ジョン・クルージーは特に優秀だった。

「ボス、次は何を発明するんです?」
クルージーが興味津々で尋ねた。

「音だ。音を記録し、再生する機械を作るんだ」
私の言葉に、クルージーは目を丸くした。
「そんなことができるんですか?」
「やってみなければ分からない。でも、きっとできるはずだ」

そして、1877年、ついに「フォノグラフ」が完成した。円筒に錫箔を巻き、そこに音声を記録する。そして、その溝をなぞることで音を再生する。

初めて自分の声を録音し再生したとき、私は震えた。
「メリーさんは小羊を飼っていた…」
かすれた音だったが、確かに私の声だった。

「すごい!これは革命的だ!」
クルージーが興奮して叫んだ。
「ボス、あなたは魔法使いですね」

この発明で、私は「メンロパークの魔術師」と呼ばれるようになった。新聞は連日、私の発明を大々的に報じた。

しかし、成功の陰で、私生活には影が忍び寄っていた。妻のメアリーは、私の仕事中毒を心配していた。

「アル、たまには家族と過ごす時間も必要よ」
メアリーは優しく諭した。
「分かっているんだ。でも、今は重要な時期なんだ。もう少しだけ待ってくれないか」

私の言葉に、メアリーは悲しそうな顔をした。しかし、それ以上は何も言わなかった。

フォノグラフの成功で、私の挑戦はまだ終わっていなかった。次なる目標は、人類が太古の昔から夢見てきたものだった。

第4章:光を灯す

電灯の発明。これが私の次なる挑戦だった。当時、照明と言えばガス灯が主流だった。しかし、ガス灯には大きな問題があった。火災の危険性だ。

「安全で明るい光を作り出せないだろうか」
私はそう考え、電灯の開発に着手した。

白熱電球の開発は、想像以上に困難を極めた。フィラメントとなる適切な素材を見つけるのに、何千回もの実験を重ねた。

「ボス、もう1000回以上失敗していますよ。諦めませんか?」
ある日、助手のフランシス・アプトンが尋ねた。疲れ切った表情だった。

「諦める?とんでもない。我々は1000の方法が上手くいかないことを発見しただけだ」
私は笑顔で答えた。
「次は上手くいく。そう信じているんだ」

アプトンは呆れたような、感心したような表情を浮かべた。
「ボス、あなたの根性には敵いませんね」

そして、1879年10月21日。ついに、40時間以上続く電球の開発に成功した。炭素化した綿糸をフィラメントに使用することで、長時間の点灯が可能になったのだ。

「やった!我々は光を手に入れたぞ!」
研究所中が歓声に包まれた。アプトンは涙を流しながら私に抱きついた。
「ボス、私たちはやり遂げました!」

この発明は、世界を変えた。街は明るく照らされ、人々の生活は一変した。夜間の仕事や読書が容易になり、生産性は飛躍的に向上した。

しかし、電球の発明は始まりに過ぎなかった。次は、この電球を広く普及させる必要があった。

「電力を各家庭に届けるシステムを作らなければ」
私は次なる挑戦に向けて、早速動き出した。

第5章:発明王の栄光と苦悩

電球の発明後、私の人生は激変した。「発明王」と呼ばれ、世界中から注目を集めるようになった。

1881年、ニューヨーク市に初の発電所を建設。パールストリート発電所の完成により、街全体に電気を供給する夢が現実となった。

開業式の日、私は緊張と興奮で胸が高鳴るのを感じていた。
「さあ、スイッチを入れるぞ」
私の合図で、大きなレバーが倒された。

一瞬の静寂の後、街中が明るく照らし出された。群衆から歓声が上がる。
「エジソン、万歳!」
「新しい時代の幕開けだ!」

人々の喜びの声を聞きながら、私は深い達成感を味わった。しかし、成功と同時に、新たな問題も生まれた。

ある日、若い発明家がやってきた。ニコラ・テスラという名前だった。

「エジソンさん、あなたの直流方式は危険です。交流の方が効率的で、送電距離も長くできます」
テスラは自信に満ちた様子で語った。

私は直流にこだわった。安全性を重視したからだ。
「テスラ君、交流は危険すぎる。高電圧は人命に関わるんだ」

しかし、テスラは譲らなかった。こうして、いわゆる「電流戦争」が始まった。

この論争は次第にエスカレートしていった。私は交流の危険性を示すため、動物実験まで行った。しかし、結果的にテスラの交流方式が採用された。

この「電流戦争」で、私は大きな痛手を負った。評判を落とし、多額の投資も水の泡となった。

「なぜ分かってくれないんだ。直流の方が安全なのに」
私は落胆し、一時は全てを投げ出したくなった。

そんな時、妻のミナ(2度目の妻)が私を励ましてくれた。
「あなたの発明は人々の生活を豊かにしています。それを忘れないで」

彼女の言葉に勇気づけられ、私は新たな挑戦に向かった。失敗にくじけず、前を向いて歩み続けること。それが、発明家としての私の使命だと悟ったのだ。

第6章:終わりなき挑戦

年を重ねても、私の好奇心は衰えなかった。1887年、ウェストオレンジに新しい研究所を設立。そこで、映画の撮影・再生装置「キネトスコープ」を発明した。

動く写真。それは、人類の夢の一つだった。多くの発明家が挑戦し、失敗してきた。しかし、私は諦めなかった。

「動きを分解し、それを高速で連続して見せれば、動いているように見えるはずだ」
私はそう考え、実験を重ねた。

ついに完成したキネトスコープ。映像が動く様子を初めて見たとき、私は子供のように喜んだ。
「これで、遠く離れた場所の出来事も見られるようになるんだ」

助手のウィリアム・ディクソンも興奮していた。
「ボス、これは革命的です!映画の時代が来るんですね」

「ああ、そうだ。でも、まだ課題がある。音だ。動く映像に音をつけられないだろうか」
私の言葉に、ディクソンは目を輝かせた。
「素晴らしいアイデアです!早速取り掛かりましょう」

こうして、サウンド映画の開発が始まった。

しかし、すべてが順調だったわけではない。聴力の問題は年々悪化し、ほとんど聞こえなくなっていた。会話は筆談か口の動きを読むことで行うようになった。

ある日、孫のセオドアが尋ねた。
「おじいちゃん、耳が聞こえなくて悲しくないの?」

私は微笑んで答えた。
「むしろ祝福だよ。静寂の中で集中できるからね。それに、耳が聞こえないからこそ、他の感覚が鋭くなったんだ」

セオドアは不思議そうな顔をした。
「でも、音楽が聴けないでしょ?」
「音楽は振動で感じられるんだよ。ピアノに触れると、その振動で音楽を感じることができるんだ」

孫との会話を通じて、私は改めて自分の状況を前向きに捉えることの大切さを感じた。

1914年、第一次世界大戦が勃発。アメリカも参戦し、私は海軍の研究委員会の委員長を務めることになった。

「エジソンさん、潜水艦の探知技術の開発をお願いします」
海軍大臣から要請があった。

私は躊躇した。平和を愛する者として、戦争に加担することに抵抗があった。しかし、一方で、この技術が多くの命を救う可能性もあった。

悩んだ末、私は開発に着手することを決意した。
「この技術で、少しでも犠牲を減らせるなら」

潜水艦探知技術の開発は困難を極めた。海中での音波の伝わり方、反射の仕方。すべてが未知の領域だった。しかし、チームと共に懸命に取り組んだ結果、ある程度の成果を上げることができた。

この経験を通じて、私は科学技術の両義性を痛感した。同じ技術が、人を殺すためにも、人を救うためにも使えるのだ。

「科学技術は人々を幸せにするためにあるべきだ」
私は強くそう思った。そして、戦後は平和利用のための技術開発に力を注いだ。

終章:光は永遠に

1931年10月18日、私は84歳でこの世を去った。最期まで、新しいアイデアを書き留めていたという。

死の直前、私はベッドで横たわりながら、人生を振り返っていた。

電球、フォノグラフ、映画…これらの発明が人々の生活を豊かにできたなら、私の人生は意味があったと言えるだろう。

しかし同時に、悔いも残った。家族との時間をもっと大切にすべきだった。テスラとの確執も、もう少し違う形で解決できたかもしれない。

そんな思いを巡らせていると、突然、まぶしい光が見えた。それは、私が生涯をかけて追い求めてきた「光」のようだった。

最期の瞬間、私は家族に囲まれていた。息子のチャールズが私の手を握り、こう言った。
「お父さん、あなたは世界を明るく照らしました。その光は、これからも永遠に輝き続けるでしょう」

私は微笑み、静かに目を閉じた。

若い世代へ伝えたい。好奇心を持ち続けること、失敗を恐れないこと、そして諦めないこと。これらが、新しい世界を切り開く鍵となる。

光は消えない。それは、次の世代へと受け継がれていく。私の人生が、誰かの心に小さな光を灯すきっかけになれば、これ以上の幸せはない。

"世界史" の偉人ノベル

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