第1章 農家の少年時代
私の名は渋沢栄一。1840年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で生まれました。父の市郎兵衛は、農業を営む傍ら、藍玉の製造販売も手がける豪農でした。母のちせは温厚で慈愛に満ちた人でした。
幼い頃から、私は家業を手伝いながら、村の寺子屋で学んでいました。寺子屋では、読み書きや算盤を学びましたが、私は特に歴史書を読むことが好きでした。日本の歴史を学ぶうちに、世の中の仕組みや人々の生き方に興味を持つようになりました。
ある日、私が12歳の時のことです。父と一緒に畑仕事をしていると、父が突然話しかけてきました。
「栄一、お前はどんな大人になりたいんだ?」
私は少し考えてから答えました。「まだよくわかりません。でも、多くの人の役に立つ人になりたいです。」
父は優しく微笑んで言いました。「そうか。それはいい心がけだ。でも、そのためには学問が大切だぞ。」
その言葉がきっかけとなり、私は更に熱心に勉強に打ち込むようになりました。特に『論語』に深く感銘を受け、その教えを生涯の指針としていくことになります。
ある日、私は村の長老である田中老人を訪ねました。田中老人は、若い頃に江戸で商売をしていた経験があり、私はよく彼から話を聞きに行っていました。
「田中さん、商売というのはどういうものなのですか?」と私は尋ねました。
田中老人は穏やかな笑顔で答えてくれました。「商売というのはな、栄一、単にモノを売り買いすることじゃない。人々の暮らしを豊かにすることなんだ。自分の利益だけを考えるのではなく、買う人の立場も考えなければならない。そうすれば、自然と信用が生まれ、商売も繁盛するんだよ。」
この言葉は、後の私の経営哲学の基礎となりました。人々の役に立ちながら利益を得る、という考え方は、まさに田中老人から学んだものだったのです。
14歳になった私は、父の勧めで近くの韮塚村の名主である尾高惇忠のもとで本格的に学問を学ぶことになりました。尾高家では、四書五経をはじめとする漢学を学びました。ここでの学びが、後の私の思想形成に大きな影響を与えることになります。
第2章 尊王攘夷運動への参加
18歳になった私は、従兄の尾高惇忠に誘われ、尊王攘夷運動に参加することになりました。当時の日本は、欧米列強の圧力に屈して開国を迫られており、多くの志士たちが立ち上がっていたのです。
1858年、日米修好通商条約が結ばれ、日本は開国へと向かっていました。しかし、この条約は不平等なものであり、多くの人々が反発していました。私もその一人でした。
「なぜ外国に屈しなければならないのか」「日本の伝統を守るべきだ」という思いが、私の心の中で渦巻いていました。
私たちは密かに仲間を集め、攘夷のための計画を練っていました。ある夜、私たちは秘密の会合を開いていました。
「我々は何としても外国の侵略から日本を守らねばならない!」と、仲間の一人が熱く語りました。
私も同意して言いました。「そうだ。しかし、ただ攘夷を叫ぶだけでは足りない。我々は国を強くする方法を考えなければならない。」
その時はまだ、私自身が後に外国との交流を通じて日本の近代化に貢献することになるとは、想像もしていませんでした。
しかし、尊王攘夷運動に参加する中で、私は次第に疑問を感じるようになりました。ある日、私は尾高惇忠に自分の思いを打ち明けました。
「惇忠さん、私たちの行動は本当に日本のためになっているのでしょうか?」
惇忠は真剣な表情で答えました。「栄一、その疑問は大切だ。確かに、ただ外国を排斥するだけでは日本の未来は開けない。しかし、今は日本の独立を守るために行動する時なんだ。」
この会話を通じて、私は日本の将来について深く考えるようになりました。単に外国を排除するのではなく、どうすれば日本を強くできるのか、その方法を模索し始めたのです。
第3章 一橋慶喜に仕える
21歳の時、私は一橋慶喜に仕えることになりました。慶喜は将軍候補の一人で、私は彼の側近として働きました。この経験は、後の私の人生に大きな影響を与えることになります。
慶喜は聡明で先見の明がある人物でした。彼のもとで働く中で、私は政治の世界を学び、同時に日本の将来について考える機会を得ました。
ある日、慶喜との対話の中で、私は自分の考えを述べる機会がありました。
「殿、私は思うのです。日本が真に強くなるためには、西洋の知識や技術を学ぶ必要があるのではないでしょうか。」
慶喜は真剣な表情で私の意見を聞いてくださいました。「栄一、その考えは面白い。確かに、敵を知ることは重要だ。しかし、どのようにして学ぶというのだ?」
「まずは、書物を通じて学び、そして可能であれば、実際に西洋を見聞することが大切だと考えます。」
この会話が、後の私のパリ行きにつながっていくことになるのです。
慶喜のもとで働く中で、私は多くの重要な人物と出会いました。その中の一人が、後に明治政府で活躍することになる大久保利通でした。
ある日、大久保と話す機会がありました。
「渋沢殿、あなたは一橋家に仕えながら、どのように日本の将来を考えておられるのですか?」と大久保は尋ねました。
私は慎重に言葉を選びながら答えました。「大久保殿、私は日本の独立と繁栄を願っております。そのためには、徳川幕府であれ新たな政権であれ、西洋の長所を学び、日本の伝統と調和させていく必要があると考えています。」
大久保は深く頷きました。「その考えは興味深い。今後の日本にとって、重要な視点になるかもしれませんね。」
この対話を通じて、私は自分の考えがより明確になっていくのを感じました。日本の未来は、単に外国を排除することではなく、外国から学びながら日本の独自性を保つことにあると確信したのです。
第4章 パリ万博と西洋文明との出会い
1867年、私は慶喜の弟・徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会に参加しました。これは、私の人生を大きく変える経験となりました。
パリに向かう船の中で、私は期待と不安が入り混じった気持ちでいっぱいでした。「西洋とはどんな世界なのだろう」「日本は本当に西洋に追いつけるのだろうか」そんな思いが胸の中を駆け巡っていました。
パリに到着した時の興奮は今でも忘れられません。街並みの美しさ、人々の活気、そして最新の技術の数々。すべてが新鮮で驚きの連続でした。
万博会場で、私は様々な国の展示を見て回りました。特に印象的だったのは、工場で大量生産された製品の展示でした。
「これが資本主義経済の力か…」と、私は心の中でつぶやきました。
その時、隣にいた昭武が私に尋ねました。「栄一殿、どう思われる?これらの技術を日本に持ち帰ることはできるだろうか?」
私は熱く答えました。「はい、必ずや可能だと思います。しかし、単に技術だけでなく、その背後にある経済システムも学ぶ必要があります。」
この経験が、後の私の実業家としての活動の原点となったのです。
パリ滞在中、私はフランスの銀行や工場を見学する機会も得ました。ある日、パリ銀行を訪れた時のことです。
銀行の頭取が私たちに銀行の仕組みを説明してくれました。「我々の銀行は、個人や企業から預金を集め、それを元に融資を行います。これにより、経済全体が活性化するのです。」
私はこの説明に大きな衝撃を受けました。「なるほど、お金を循環させることで経済を動かすのか。これこそ日本に必要なシステムだ!」
また、工場見学では、分業システムの効率性に驚かされました。一つの製品を作るのに、多くの労働者がそれぞれ専門的な作業を担当し、驚くべき速さで製品が完成していく様子を目の当たりにしたのです。
「日本の手工業とは全く異なる生産方式だ。これを日本に導入すれば、生産性が飛躍的に向上するに違いない。」
パリでの経験を通じて、私は日本の近代化への道筋が見えてきました。技術だけでなく、経済システム、教育、社会制度など、あらゆる面で西洋から学ぶべきことがあると確信したのです。
第5章 明治維新と新しい日本
1868年、日本は大きな転換期を迎えました。明治維新です。私たちはパリから帰国し、新しい時代の幕開けを目の当たりにしました。
しかし、帰国後すぐに、私は難しい選択を迫られることになりました。徳川家の家臣である私は、新政府に仕えるべきか、それとも徳川家に忠誠を尽くすべきか、悩みました。
ある日、私は長年の友人である尾高惇忠と話し合う機会がありました。
「栄一、お前はどうするつもりだ?」と惇忠は真剣な表情で尋ねました。
私は深く考えてから答えました。「私は、新しい日本のために働きたい。それが徳川家のためにもなると信じている。」
惇忠は静かに頷きました。「そうか。お前らしい決断だ。」
この決断は、私にとって非常に重いものでした。徳川家への忠誠と、日本の未来への希望。この二つの間で揺れ動く心を抑えつつ、私は新しい道を選んだのです。
新政府に仕えることを決意した私は、大蔵省の役人として働き始めました。ここで私は、日本の財政システムの近代化に取り組むことになります。
大蔵省での仕事は、想像以上に困難なものでした。旧来の制度を改革し、新しいシステムを導入することへの抵抗は強く、多くの反対意見にぶつかりました。
ある日、同僚の一人が私に不満をぶつけてきました。「渋沢さん、あなたの提案する西洋式の会計システムは複雑すぎます。なぜ今までのやり方を変える必要があるのですか?」
私は粘り強く説明しました。「確かに新しいシステムは複雑に見えるかもしれません。しかし、これにより国家の財政を正確に把握し、効率的に運営することができるのです。日本が世界に伍していくためには、こうした改革が必要不可欠なのです。」
少しずつ、私の考えに賛同する人々が増えていきました。そして、日本の財政システムは徐々に近代化されていったのです。
この経験を通じて、私は改革の難しさと重要性を身をもって学びました。同時に、人々を説得し、共に働きかけることの大切さも理解しました。これらの学びは、後の私の実業家としての活動に大きく活かされることになります。
第6章 実業家への転身
1873年、私は官僚の職を辞し、実業家として歩み始めました。これは、パリで学んだ資本主義の理念を日本で実践するためでした。
最初の大きな挑戦は、第一国立銀行(現在のみずほ銀行の前身)の設立でした。当時の日本には、近代的な銀行システムがありませんでした。
銀行設立の準備中、多くの困難に直面しました。資金の調達、人材の確保、そして何より、人々の理解を得ることが大きな課題でした。
ある日、私の元に若い実業家が相談に来ました。
「渋沢さん、こんな新しいやり方で本当に上手くいくんでしょうか?」と、彼は不安そうに尋ねました。
私は自信を持って答えました。「確かに新しい試みです。しかし、これは日本の発展に必要不可欠なのです。皆で力を合わせれば、必ず成功させられると信じています。」
この言葉に励まされ、多くの人々が私の事業に協力してくれました。こうして、日本初の近代的な銀行が誕生したのです。
第一国立銀行の設立は、日本の金融システムに革命をもたらしました。企業や個人が安全に資金を預け、必要な時に融資を受けられるようになったのです。これにより、日本の産業は急速に発展していきました。
銀行の成功に続いて、私は次々と新しい事業を立ち上げていきました。東京製紙会社、王子製紙、東京石川島造船所(現在のIHI)など、様々な分野に進出しました。
ある時、ある記者が私にインタビューをしてきました。
「渋沢さん、なぜこれほど多くの事業を手がけるのですか?」
私はこう答えました。「それは、日本の産業全体を発展させるためです。一つの企業が成功しても、それだけでは国は豊かになりません。様々な産業が互いに支え合い、成長していくことが重要なのです。」
この考えのもと、私は約500もの企業の設立や経営に関わることになりました。しかし、私の目的は単に企業を増やすことではありませんでした。それぞれの企業が社会に貢献し、日本の発展に寄与することを常に念頭に置いていたのです。
第7章 数々の事業と社会貢献
実業家として成功を収める一方で、私は教育や福祉の分野でも積極的に活動を展開していきました。「経済と道徳の調和」という私の信念は、ビジネスの世界だけでなく、社会貢献の場でも実践されたのです。
1876年、私は東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)を設立しました。これは、孤児や高齢者、障害者を支援する施設でした。
ある日、私が東京養育院を訪れた時のことです。そこで出会った一人の少年が、私に質問をしてきました。
「おじさん、どうしてこんな施設を作ったの?」
私はその少年の目をしっかりと見つめて答えました。「それはね、みんなが幸せに生きられる社会を作りたいからだよ。お金を稼ぐことも大切だけど、それを使って人々を助けることはもっと大切なんだ。」
少年は大きく頷き、「僕も大きくなったら、人を助ける仕事がしたい!」と目を輝かせて言いました。
この瞬間、私は自分の信念が次の世代に受け継がれていくことを実感し、大きな喜びを感じました。
教育の分野では、1880年に商法講習所(現在の一橋大学)の設立に関わりました。これは、日本初の商業専門教育機関でした。
ある日、商法講習所の学生たちと対話する機会がありました。
「渋沢先生、なぜ商業を学ぶことが重要なのでしょうか?」と、一人の学生が質問しました。
私はこう答えました。「商業は単にお金を稼ぐための手段ではありません。それは、人々の暮らしを豊かにし、社会を発展させる重要な活動なのです。そのためには、正しい知識と高い倫理観が必要不可欠です。皆さんには、そうした知識と倫理を身につけ、日本の未来を担う人材になってほしいのです。」
この言葉に、学生たちは深く感銘を受けた様子でした。
また、1902年には日本女子大学校(現在の日本女子大学)の設立にも携わりました。当時、女性の高等教育はまだ一般的ではありませんでしたが、私は女性の教育が日本の発展に不可欠だと考えていました。
「なぜ女子大学が必要なのか」という批判的な声もありましたが、私はこう主張しました。「女性が高い教育を受けることは、家庭を豊かにし、ひいては社会全体を豊かにすることにつながるのです。男女が共に学び、共に社会を支えていく。それこそが真の近代国家の姿なのです。」
こうした私の活動は、単に慈善事業というだけでなく、日本社会全体の底上げを目指したものでした。経済発展と社会福祉の両立。それこそが、私の目指す「道徳経済合一説」の実践だったのです。
第8章 晩年と遺志
年を重ねるにつれ、私は若い世代への教育にも力を入れるようになりました。特に、道徳教育の重要性を説き、『論語』の教えを広めることに尽力しました。
1916年、私は『論語と算盤』という本を出版しました。この本で私は、儒教の教えとビジネスの実践が決して矛盾するものではなく、むしろ両立すべきものだと主張しました。
ある日、若い実業家たちとの勉強会で、一人の参加者が質問してきました。
「渋沢先生、ビジネスの世界で成功するためには、時には道徳を無視しなければならないこともあるのではないでしょうか?」
私は静かに、しかし力強く答えました。「そうではありません。真の成功は、道徳に基づいた行動からしか生まれません。一時的な利益のために道徳を捨てれば、長期的には必ず失敗します。正しい行いをすれば、必ず報われる。それが『論語と算盤』の教えなのです。」
この言葉に、参加者たちは深く考え込む様子でした。
1923年、関東大震災が起こった時、私は83歳でした。しかし、この大災害に際して、私は率先して復興活動に取り組みました。
震災直後、私は政府や財界の要人たちを集めて緊急会議を開きました。
「今こそ、我々が一致団結して行動すべき時です。利己的な考えは捨て、国民全体のために力を尽くさねばなりません。」
私のこの呼びかけに応じて、多くの企業や個人が復興支援に乗り出しました。この経験は、私の「合本主義」の考え方、つまり多くの人々が力を合わせることの重要性を改めて証明することになりました。
91歳の誕生日を迎えた時、私は多くの友人や教え子たちに囲まれていました。その中の一人が質問をしてきました。
「渋沢さん、これまでの人生を振り返って、何が一番大切だったと思いますか?」
私はゆっくりと答えました。「それは、『義利合一』の精神です。つまり、道義と利益を両立させることです。ビジネスで利益を追求することは大切ですが、同時に社会の役に立つことも忘れてはいけません。この二つのバランスを取ることが、真の成功への道なのです。」
この言葉に、会場にいた全員が深く頷きました。
1931年11月11日、私は91歳でこの世を去りました。しかし、私の理念は多くの人々に受け継がれ、今も日本の経済界に生き続けています。
私の人生最後の日、ベッドの傍らには家族や親しい友人たちが集まっていました。私は微弱な声で、最後の言葉を述べました。
「私の人生は、日本の近代化と共にありました。多くの困難もありましたが、それ以上に喜びと達成感に満ちたものでした。これからの日本を担う若い世代の皆さん。どうか、利益だけでなく道義を重んじ、個人の成功だけでなく社会全体の発展を考えて行動してください。そうすれば、必ずや素晴らしい未来が開けるはずです。」
これが、私渋沢栄一の最後の言葉となりました。
エピローグ
私、渋沢栄一の人生は、激動の時代と共にありました。農家の少年から始まり、尊王攘夷運動の志士、徳川家の家臣、そして実業家へと変遷していきました。
その過程で、私は常に「道徳経済合一説」を信念としてきました。これは、経済活動と道徳的な行いは決して相反するものではなく、むしろ両立させるべきだという考えです。
私の人生を通じて学んだことは、変化を恐れず、常に学び続けることの大切さです。そして、個人の利益だけでなく、社会全体の発展を考えることの重要性です。
私が関わった多くの事業や活動は、単に私一人の力で成し遂げたものではありません。多くの人々の協力と支援があってこそ、実現できたものです。これこそが、私の提唱した「合本主義」の精神です。一人一人は小さな力かもしれません。しかし、その力を結集すれば、大きな目標も達成できるのです。
振り返れば、私の人生は決して平坦なものではありませんでした。幕末の動乱、明治維新、そして急速な近代化の波。その中で、常に新しい挑戦が待っていました。時には失敗もあり、批判を受けることもありました。しかし、そのたびに私は「論語」の教えを思い出し、自分の信念を貫きました。
「君子は和して同ぜず」という言葉があります。これは、他人と調和しつつも、自分の信念は曲げないという意味です。私は、この言葉を座右の銘として生きてきました。周囲と協調しながらも、自分の信じる道を歩み続けること。それが、私の人生哲学でした。
今、日本は新たな時代を迎えています。グローバル化が進み、技術革新が加速する中で、新たな課題が次々と生まれています。しかし、私は信じています。日本人の勤勉さと創造性、そして「和」の精神があれば、どんな困難も乗り越えられると。
若い世代の皆さんへ。
皆さんの前には、まだ見ぬ未来が広がっています。その未来は、皆さん一人一人の行動によって作られていくのです。どうか、自分の利益だけでなく、周りの人々、そして社会全体のことを考えながら行動してください。
新しいことに挑戦することを恐れないでください。失敗を恐れず、そこから学んでください。そして何より、高い志を持ち続けてください。一人一人の小さな行動が、やがて大きな流れとなり、社会を変えていくのです。
「道徳」と「経済」。この二つの調和こそが、真の繁栄をもたらします。利益を追求しつつも、常に社会への貢献を忘れない。そんな志を持った人々が増えていけば、きっと素晴らしい未来が開けていくはずです。
私の人生がその一助となれば、これ以上の喜びはありません。
最後に、私の座右の銘をもう一度皆さんと共有したいと思います。
「順理則裕、逆理則貧」
理(道理)に従えば裕かになり、理に逆らえば貧しくなる。この言葉を胸に刻み、皆さんの人生を歩んでいってください。
日本の、そして世界の未来は、皆さんの手の中にあるのです。
(了)