第1章:リバプールの少年時代
1940年10月9日、私はリバプールの病院で生まれた。空襲警報のサイレンが鳴り響く中、母ジュリアは私を産んだ。父フレディは海軍に所属していて、私の誕生に立ち会うことはできなかった。
幼い頃の記憶は断片的だ。5歳の時、両親が離婚した。母は私を育てる自信がないと言い、叔母のミミに私の養育を頼んだ。ミミおばさんの家に引っ越した日、母の手を離れる時の気持ちを今でも覚えている。
「ジョン、おばさんと一緒に暮らすのよ。ママはときどき会いに来るからね」
母の言葉に首を縦に振ったが、胸の中では悲しみと怒りが渦巻いていた。なぜ僕を置いていくの?僕が悪い子だったから?そんな疑問が頭の中を駆け巡った。
ミミおばさんの家での生活は規則正しく、厳しいものだった。でも、おばさんは私を本当の息子のように愛してくれた。学校では問題児だった。授業中に先生の真似をしたり、級友をからかったりして、よく叱られた。
ある日、校長先生に呼び出された。
「レノン君、君の態度は目に余るぞ。このままでは退学も考えなければならない」
その言葉を聞いて、私は反抗的に答えた。
「僕が何をしたっていうんです?面白くもない授業を面白くしようとしただけじゃないですか」
校長は深いため息をついた。
「君には才能がある。それを無駄にしているんだ。もっと建設的なことに使えないのかね?」
その時は反発したが、後になってこの言葉の意味を理解することになる。
音楽との出会いは、人生を変えるものだった。ミミおばさんがくれたハーモニカを吹いていると、心が落ち着いた。そして、エルヴィス・プレスリーの「Heartbreak Hotel」を初めて聴いた時、体中に電気が走るような衝撃を受けた。
「これだ」と直感した。音楽こそが、自分の魂を解放する鍵だと。
15歳の時、母が交通事故で亡くなった。その悲しみは言葉では表せないほど深く、心に大きな穴を開けた。音楽だけが、その穴を埋める唯一の慰めだった。
ギターを手に入れ、必死で練習した。指が痛くなっても、音が汚くても、諦めなかった。音楽は、失った母との絆のように感じられた。
第2章:ビートルズの誕生
1957年、私は仲間たちと「クォーリーメン」というバンドを結成した。地元のお祭りで演奏していた時、ポール・マッカートニーと出会った。彼のギターの腕前と音楽の知識に驚いた。
「君、すごいな。一緒にバンドやらないか?」
ポールは笑顔で答えた。「いいね、やろうよ」
こうして、ビートルズの原型が生まれた。
ポールは親友のジョージ・ハリスンを連れてきた。最初は彼が若すぎると思ったが、ギターを弾き始めた瞬間、その才能に圧倒された。
「ジョージ、君は天才だ。絶対に俺たちのバンドに必要だ」
彼はにっこりと笑った。「よろしく、ジョン」
リバプールのクラブで演奏を重ねるうちに、私たちの音楽は洗練されていった。でも、まだ何かが足りなかった。
1960年、ハンブルグでの長期公演の話が舞い込んだ。これぞチャンスだと思った。しかし、ドラマーが足りなかった。
「ピート・ベストはどうだ?」とポールが提案した。「あいつ、腕はいいぞ」
こうして、ピートが加わり、ビートルズは5人組となった。
ハンブルグでの日々は過酷だった。1日8時間以上の演奏、睡眠不足、粗末な食事。でも、その経験が私たちを鍛えた。
ある夜、客席で喧嘩が始まった。私たちは演奏を止めずに、さらに激しく演奏した。喧嘩をしていた男たちも、いつの間にか音楽に聴き入っていた。
「音楽には人々を結びつける力がある」
その夜、私はそう確信した。
1961年、リバプールに戻った私たちは、地元で人気者になっていた。キャバーン・クラブでの公演は常に満員だった。
ある日、レコード店の経営者ブライアン・エプスタインが私たちの演奏を聴きに来た。彼は目を輝かせて言った。
「君たちには大きな可能性がある。私がマネージャーになろう」
私たちは躊躇なく同意した。ブライアンの洞察力と経験は、私たちを次のステージへと導いてくれると信じていた。
1962年、運命の出会いがあった。プロデューサーのジョージ・マーティンだ。彼は私たちの音楽を聴いて、こう言った。
「君たちの音楽には何かがある。だが、まだ磨きが足りない」
その言葉は厳しかったが、私たちは必死で努力した。そして、ドラマーをリンゴ・スターに変更。これで、伝説のビートルズのラインナップが完成した。
第3章:世界的スターへの道
1962年10月、私たちの初シングル「Love Me Do」がリリースされた。チャートで17位まで上昇し、私たちに希望を与えてくれた。
しかし、本当の成功は1963年の「Please Please Me」から始まった。この曲がイギリスのチャートで1位を獲得したのだ。
「やったぞ、みんな!」スタジオで結果を聞いた時、私たちは抱き合って喜んだ。
その後、「From Me to You」「She Loves You」「I Want to Hold Your Hand」と、ヒット曲を連発。ビートルズ旋風が イギリス中を席巻した。
ファンの熱狂ぶりは尋常ではなかった。どこに行っても黄色い声援が飛び交い、時には服が引き裂かれることもあった。
「これが有名になるってことか」と、私は複雑な気持ちでポールに言った。
彼は肩をすくめて答えた。「まあ、悪くない気分だろ?」
確かに、注目されることは嬉しかった。でも同時に、自由を失っていく感覚もあった。
1964年2月、アメリカに渡った。エド・サリバン・ショーへの出演が決まっていた。
空港に降り立った瞬間、何千人ものファンが押し寄せてきた。その熱狂ぶりに、私たちも驚いた。
「アメリカは違うな」とジョージが呟いた。
エド・サリバン・ショーの舞台裏。緊張で手が震えていた。
「大丈夫か、ジョン?」とポールが声をかけてきた。
「ああ、なんとかな」と答えたが、本当は不安でいっぱいだった。
しかし、演奏が始まると、その不安は消え去った。7300万人の視聴者の前で、私たちは最高の演奏をした。
この公演を境に、ビートルマニアは世界中に広がった。私たちは世界中を飛び回り、コンサートをこなした。
そんな中、1965年、私たちはMBE勲章を授与された。
バッキンガム宮殿で、エリザベス女王から勲章を受け取る時、思わず冗談を言ってしまった。
「陛下、私たちの音楽はお気に召しましたか?」
女王は微笑んで答えた。「とても素晴らしいわ」
宮殿を出る時、ジョージが言った。「俺たちも随分と偉くなったもんだな」
私は笑って答えた。「まあな。でも、明日からまた歌を作るんだぞ」
確かに有名になり、お金も手に入れた。でも、本当に大切なのは音楽だ。その思いは、いつも心の中にあった。
第4章:変化の時代
1966年、私たちは大きな決断をした。ライブ活動の停止だ。
「もう限界だ」とリンゴが言った。「演奏が聞こえないんだぞ」
確かに、コンサートは絶叫のるつぼと化していた。音楽よりも、ただ私たちの姿を見たいというファンばかり。
「音楽に集中したい」とポールも同意した。
こうして、私たちはスタジオバンドへと転身。それは音楽的な冒険の始まりだった。
1967年、「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」をリリース。これは従来の音楽の概念を覆すアルバムだった。
レコーディング中、私は言った。「もっと冒険しよう。誰も聴いたことのない音を作ろう」
そして、インドへの旅。マハリシ・マヘーシ・ヨギのもとで瞑想を学んだ。
「平和は自分の中にある」というマハリシの言葉に、深く感銘を受けた。
しかし、帰国後、私たちの間に亀裂が生じ始めた。
「ジョン、最近おまえの曲がわからない」とポールが言った。
「新しいことをやろうとしてるんだ」と反論したが、心の中では不安があった。
そんな時、ヨーコ・オノと出会った。彼女のアートと思想に、私は強く惹かれた。
「ヨーコ、君は僕の人生を変えた」と告白した時、彼女はただ微笑んだ。
しかし、他のメンバーはヨーコの存在を快く思っていなかった。スタジオにも彼女を連れて行くようになり、緊張が高まった。
1969年1月、屋上コンサート。これが私たちの最後の公演となった。
演奏中、ふと思った。「これで終わりなんだな」
その年の9月、私はメンバーに告げた。
「俺、ビートルズを抜けるよ」
沈黙が流れた後、ポールが言った。「わかった。でも、公表は控えてくれ」
1970年4月、ポールがビートルズの解散を公表。世界中が驚いた。
私の中では、新しい章が始まろうとしていた。
第5章:ソロとしての人生
ビートルズ解散後、私はヨーコと共に新しい音楽と活動を始めた。
1971年、「Imagine」をリリース。この曲は、私の思想と願いを込めたものだった。
「想像してごらん、天国なんてないと
簡単だろう、やってみれば
私たちの足元には地獄もない
上には空だけ」
この歌詞を書いている時、世界平和への希望を強く感じていた。
しかし、私の行動は必ずしも平和的ではなかった。アルコールと薬物に溺れ、ヨーコとの関係も悪化した。
1973年、私たちは別居した。ロサンゼルスで、私は「失われた週末」と呼ばれる日々を過ごした。
酒場で酔っ払い、知らない女性と過ごす。朝になれば後悔する。そんな日々の繰り返しだった。
ある日、鏡を見て自分に言った。「お前は何をしているんだ?」
その時、ヨーコからの電話。「ジョン、戻ってきて」
彼女の声に、私は救いを感じた。
ニューヨークに戻り、1975年に息子のショーンが生まれた。
「今度こそ、いい父親になる」と誓った。
音楽活動を一時休止し、専業主夫として過ごした5年間。それは私の人生で最も幸せな時期だった。
1980年、新しいアルバム「Double Fantasy」の制作を始めた。音楽への情熱が再び燃え上がった。
「ヨーコ、僕たちはまだやれる」
彼女は笑顔で頷いた。
12月8日、レコーディングを終えて帰宅する途中、銃声が鳴り響いた。
「撃たれた…」
それが、私の最後の言葉となった。
エピローグ
40年の人生。栄光と挫折、愛と憎しみ、平和への願いと自己矛盾。
私は完璧な人間ではなかった。むしろ、多くの欠点を抱えていた。
でも、音楽を通じて、世界をほんの少し変えられたかもしれない。
今、私の魂は風になって、世界中を旅している。
そして、人々が「Imagine」を歌う度、その歌声に乗って、再び地上に降り立つ。
「平和を信じろ」
それが、私からのメッセージ。永遠に。