第1章 – スペインの城で生まれて
私の名前はフランシスコ・ザビエル。1506年4月7日、スペイン北部のナバラ王国にあるザビエル城で生まれました。私の家族は貴族の出身で、父はフアン・デ・ハソ、母はマリア・デ・アスピルクエタといいました。
幼い頃の私は、大きな城の中で兄弟たちと遊びながら、のんびりと過ごしていました。城の周りには美しい緑の丘が広がり、遠くには雪をかぶったピレネー山脈が見えました。

ある日、父が私を呼びました。
「フランシスコ、お前ももう6歳になった。そろそろ勉強を始める時だ」
父の声は優しくも厳しく、私の心に響きました。
「はい、父上。一生懸命勉強します」
私は緊張しながらも、しっかりと返事をしました。
そして、私の勉強生活が始まりました。読み書きはもちろん、歴史や宗教、そして騎士道の作法まで、たくさんのことを学びました。時には難しくて投げ出したくなることもありましたが、両親や先生方の励ましで頑張ることができました。

しかし、私が13歳の時、突然父が亡くなりました。家族全員が悲しみに暮れる中、母は私たち子供たちを強く抱きしめ、こう言いました。
「フランシスコ、あなたたち兄弟は互いに支え合って、立派な人間になるのよ」
母の言葉に、私は涙をこらえながら頷きました。
その後、ナバラ王国がスペイン王国に併合されるという大きな出来事がありました。私たちの家族は、それまでの地位や財産の多くを失ってしまいました。しかし、母は私たちに希望を持ち続けることの大切さを教えてくれました。
「フランシスコ、どんな困難があっても、自分の信念を曲げてはいけません。あなたには大きな可能性があるのよ」
母の言葉は、その後の私の人生の指針となりました。
第2章 – パリ大学での学び
18歳になった私は、より高度な教育を受けるため、パリ大学に入学することになりました。スペインを離れ、初めて外国の地を踏む私の心は、期待と不安でいっぱいでした。

パリに到着した日、私は大学の寮に向かいました。そこで出会ったのが、同じ部屋で暮らすことになるピエール・ファーヴルでした。
「やあ、君がフランシスコ・ザビエルかい?僕はピエール・ファーヴル。よろしく」
ピエールは温かい笑顔で私を迎えてくれました。彼との出会いは、私のパリでの生活を大きく変えることになります。
パリ大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。哲学、神学、古典語など、様々な分野を学ばなければなりません。時には夜遅くまで勉強することもありました。
ある日、図書館で勉強していた私は、隣で熱心にノートを取っている学生に気づきました。彼の名前はイグナチオ・デ・ロヨラ。私より15歳年上で、すでに軍人としての経験を持つ人物でした。
「フランシスコ、君は何を目指して勉強しているのかね?」
イグナチオの突然の質問に、私は戸惑いました。
「え、そうですね…立派な学者になって、家族を安心させたいと思っています」
私の答えに、イグナチオは静かに頷きました。
「それは素晴らしい目標だ。でも、もっと大きな目的があるのではないかな?」
イグナチオの言葉は、私の心に深く刻まれました。彼との出会いは、私の人生の転機となったのです。
イグナチオは、キリスト教の教えを深く学び、それを世界中に広めることを目指していました。彼の熱意と信念は、次第に私の心を動かしていきました。
ピエールも加わり、私たちは頻繁に集まって議論を交わすようになりました。神の愛、人々への奉仕、世界の平和について、夜遅くまで語り合いました。
そんな中、私は自分の中に変化が起きていることに気づきました。以前は自分の出世や名誉のことばかり考えていた私が、人々のために何かをしたいという思いを強く持つようになったのです。
「イグナチオ、ピエール、私も皆さんと同じ志を持ちたいと思います」
私の決意表明に、二人は喜びの表情を浮かべました。
「フランシスコ、君の決意を嬉しく思う。これからは共に歩んでいこう」
イグナチオの言葉に、私は深く頷きました。こうして、私たちは新たな道を歩み始めることになったのです。
第3章 – イエズス会の創設
パリ大学を卒業した後、私たちは新たな挑戦に向けて動き出しました。イグナチオを中心に、私とピエール、そして他の仲間たちと共に、1534年8月15日、パリのモンマルトルの丘にある小さな教会で誓いを立てました。
「我々は、キリストの教えを世界中に広め、人々の魂を救うために全力を尽くすことを誓います」
私たちの声が教会に響き渡りました。この日、後にイエズス会として知られることになる私たちの団体の基礎が築かれたのです。
しかし、この決意を実行に移すのは簡単ではありませんでした。当時のヨーロッパは宗教改革の真っ只中にあり、カトリック教会内部でも様々な問題が起きていました。
私たちは、ローマに向かい、教皇パウルス3世に会うことにしました。長い旅の末、1540年にようやくローマに到着しました。
教皇との謁見の日、私は緊張で手が震えていました。
「陛下、私たちは新たな修道会を設立し、世界中でキリストの教えを広めたいと考えております」
イグナチオが丁寧に説明すると、教皇は深い関心を示されました。
「君たちの熱意は素晴らしい。しかし、新しい修道会の設立には多くの課題がある。本当にそれだけの覚悟があるのかね?」

教皇の鋭い質問に、私たちは互いに顔を見合わせました。そして、私は勇気を出して答えました。
「はい、陛下。私たちには固い決意があります。どんな困難があっても、神の御心のために尽くす覚悟です」
私の言葉に、教皇は満足そうに頷かれました。
「わかった。君たちの修道会の設立を認めよう。しかし、常に謙虚さを忘れず、人々のために尽くすのだ」
こうして、1540年9月27日、イエズス会が正式に認可されました。私たちの夢が、ようやく現実となったのです。
イエズス会の活動は、教育と宣教を中心に展開されました。ヨーロッパ各地に学校を設立し、若者たちに質の高い教育を提供しました。同時に、キリスト教がまだ広まっていない地域への宣教活動も始めました。
私は、この新しい修道会の一員として、大きな使命感を感じていました。しかし、同時に不安もありました。果たして自分にこの重責が務まるのだろうか?そんな思いを抱きながらも、仲間たちと共に前に進んでいきました。
第4章 – インドへの船出
1541年、私の人生を大きく変える出来事が起こりました。ポルトガル王ジョアン3世から、インドへの宣教師派遣の要請があったのです。
イグナチオは私に声をかけました。
「フランシスコ、君をインドに派遣したいと思う。君なら、きっとこの重要な任務を果たせるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は激しく動揺しました。インド…それは未知の世界です。言葉も文化も全く異なる場所で、果たして自分に何ができるのだろうか?
「イグナチオ、私にそんな大役が務まるでしょうか…」
私の不安を察したイグナチオは、優しく微笑みながら言いました。
「フランシスコ、神はあなたを選ばれたのだ。恐れることはない。神の導きを信じなさい」
イグナチオの言葉に勇気づけられ、私は決意を固めました。
「わかりました。行ってまいります」
1541年4月7日、私の35歳の誕生日に、リスボンを出発しました。大きな帆船に乗り込み、インドを目指します。船上には、様々な階級の人々が乗っていました。貴族や商人、兵士たち…そして、奴隷として連れて行かれる人々もいました。
航海は想像以上に過酷でした。嵐や病気、食料の不足…様々な困難に直面しました。特に、奴隷たちの悲惨な状況を目の当たりにし、私の心は痛みました。
「なぜ、同じ人間なのに、こんなにも扱いが違うのだろう…」

私は可能な限り、奴隷たちの世話をし、慰めの言葉をかけました。時には船長と交渉し、彼らの待遇改善を訴えることもありました。
「キャプテン、彼らにももう少し食料を与えてください。このままでは命が危ないのです」
「ザビエル神父、あなたの気持ちはわかります。しかし、それは不可能です。食料は限られているのです」
船長の冷たい言葉に、私は歯がゆい思いをしました。しかし、諦めずに働きかけ続けました。
13ヶ月の長い航海の末、1542年5月6日、ようやくインドのゴアに到着しました。
ゴアの港に降り立った時、私の目の前に広がる光景は、まるで別世界のようでした。色とりどりの衣装を着た人々、香辛料の香り、見たこともない建物…全てが新鮮で、圧倒されました。
しかし、同時に、植民地支配の現実も目の当たりにしました。ポルトガル人による原住民への抑圧、貧困に苦しむ人々…私の心は複雑な思いで満ちていました。
「神よ、この地で私に何をお望みでしょうか…」
祈りながら、私はゴアの街を歩き始めました。これから始まる宣教活動に、期待と不安が入り混じる中、私の新たな挑戦が始まったのです。
第5章 – インドでの宣教活動
ゴアでの生活は、想像以上に困難の連続でした。言葉の壁、文化の違い、そして現地の人々の不信感…全てが私にとって大きな試練でした。
最初の数ヶ月間、私は必死でヒンドゥスターニー語(現在のヒンディー語の元となる言語)を学びました。毎日、市場に出かけては現地の人々と会話を交わし、少しずつ言葉を覚えていきました。

ある日、市場で一人の少年に出会いました。彼の名前はラジュ。両親を亡くし、路上で生活していました。
「こんにちは、ラジュ。私の名前はフランシスコです」
私が覚えたての現地語で話しかけると、ラジュは驚いた表情を見せました。
「あなたは外国人なのに、私たちの言葉を話すんですね」
ラジュとの出会いは、私のインドでの活動に大きな影響を与えました。彼を通じて、多くの孤児たちと知り合うことができたのです。
私は、孤児たちのための施設を作ることを決意しました。しかし、資金も場所もありません。毎日祈り、そして行動し続けました。
ようやく、ある裕福な商人の協力を得ることができ、小さな建物を借りることができました。そこで、孤児たちに食事と教育を提供し始めたのです。
「ラジュ、ここがあなたたちの新しい家だよ。一緒に勉強して、立派な大人になろう」
私の言葉に、ラジュは涙を浮かべながら頷きました。
しかし、全てが順調だったわけではありません。現地の一部の人々は、私たちの活動を快く思っていませんでした。
「なぜ外国人が我々の子供たちに教育をするのだ?彼らの魂を奪おうとしているのではないか?」
そんな声も聞こえてきました。私は、彼らの不安を理解しようと努めました。
「皆さん、私たちは子供たちを強制的に改宗させようとしているのではありません。ただ、彼らに教育の機会を与え、より良い未来を築く手助けをしたいだけなのです」
少しずつ、私たちの真意が理解されるようになりました。そして、現地の人々の中からも協力者が現れ始めたのです。
インドでの3年間、私は精力的に活動しました。ゴアだけでなく、南インドのコモリン岬やトラバンコールなどにも足を運び、現地の人々と交流しました。
特に、パラヴァ族という漁民の人々との出会いは印象的でした。彼らは以前にポルトガル人によってキリスト教に改宗させられていましたが、その教えをほとんど理解していませんでした。
私は、彼らの言語を学び、彼らの生活に寄り添いながら、キリスト教の教えを伝えていきました。時には、彼らの伝統的な信仰と折り合いをつけることの難しさに直面することもありました。
「フランシスコ神父、私たちの先祖から伝わる儀式を全て捨てなければならないのですか?」
ある村人から、そう尋ねられたことがあります。
「いいえ、そうではありません。大切なのは、神の愛を理解し、実践することです。あなたがたの文化の中にも、その愛は存在しているはずです」
私は、できる限り彼らの文化を尊重しながら、キリスト教の本質を伝えようと努めました。
しかし、同時に、私の中で葛藤もありました。本当にこのやり方で良いのだろうか?彼らの文化を変えてしまうことにならないだろうか?そんな疑問が、常に私の心の中にありました。
それでも、多くの人々が私の言葉に耳を傾け、キリスト教の教えを受け入れてくれました。baptismを受ける人々の数は、日に日に増えていきました。
「フランシスコ神父、あなたの教えのおかげで、私たちの村に希望が生まれました」
そう言ってくれる人々の笑顔を見るたびに、私は自分の使命の重要性を再確認しました。
しかし、同時に、まだ多くの地域に福音が届いていないという現実も痛感していました。もっと遠くへ、もっと多くの人々のもとへ…そんな思いが、私の心の中で大きくなっていったのです。

第6章 – 日本への渡航
1549年、私は大きな決断をしました。日本へ渡ることを決めたのです。
日本についての情報は、アンジロウという日本人から得ていました。彼は殺人の罪を逃れてゴアに来ていた人物で、私が彼にbaptismを授けたことがきっかけで親しくなりました。
「ザビエル神父、日本は素晴らしい国です。しかし、まだキリストの教えを知らない人々がたくさんいます」
アンジロウの言葉に、私の心は大きく揺さぶられました。
「日本…そうか、そこにも神の言葉を届けなければ」
しかし、周囲の反応は冷ややかでした。
「フランシスコ、日本は危険すぎる。言葉も通じないし、文化も全く違う。それに、長い航海だ。命の保証はないぞ」
同僚たちは心配そうに私を止めようとしました。しかし、私の決意は固まっていました。
「神が私を導いてくださる。恐れることはありません」
1549年4月15日、私たちは小さな船でゴアを出発しました。私、アンジロウ、そして2人のイエズス会士が同行しました。
航海は想像以上に過酷でした。嵐、海賊の襲撃の危険、そして船酔い…様々な困難に直面しました。

特に辛かったのは、マラッカでの長期滞在でした。次の船を待つ間、マラリアに感染し、死の淵をさまよったのです。
「神よ、私はまだ使命を果たしていません。どうか、日本の地を踏ませてください」
病床で祈り続けた私は、奇跡的に回復しました。
そして、1549年8月15日、ついに鹿児島の地に降り立ちました。
日本の第一印象は、驚きの連続でした。美しい自然、整然とした町並み、そして礼儀正しい人々…全てが新鮮でした。
しかし、同時に大きな壁にも直面しました。言葉の壁です。
「アンジロウ、この看板には何と書いてあるんだ?」
「すみません、ザビエル神父。私も読めません」
アンジロウは話すことはできても、読み書きはほとんどできなかったのです。
私は必死で日本語を学び始めました。毎日、町の人々と交流し、少しずつ言葉を覚えていきました。しかし、それは遅々としたものでした。
ある日、町の広場で説教をしようとした時のことです。
「皆さん、神の愛について…」
私が懸命に日本語で話し始めると、人々は笑い出してしまいました。後で分かったことですが、私の発音があまりにも酷く、全く意味が通じていなかったのです。

落胆する私に、ある日本人の老人が近づいてきました。
「あなたの熱意は伝わっています。ゆっくりでいいのです。私たちも、あなたの言葉を理解しようと努めます」
その言葉に、私は勇気づけられました。
徐々に、私の教えに耳を傾ける人々が増えていきました。特に、若い侍たちの中には、キリスト教に強い関心を示す者もいました。
「ザビエル神父、私たちの武士道とキリスト教の教えには、共通点があるように思います」
そう言ってくれた若い侍の言葉に、私は大きな希望を感じました。
しかし、同時に大きな課題にも直面しました。それは、仏教との対立です。
多くの日本人にとって、仏教は単なる宗教ではなく、生活そのものでした。私の教えは、彼らの伝統的な価値観と衝突することもありました。
「あなたの言う神は、私たちの仏様とどう違うのですか?」
そんな質問を投げかけられることも多々ありました。
私は、できる限り仏教の教えを学び、理解しようと努めました。そして、キリスト教と仏教の共通点を見出し、それを基に対話を進めていきました。
「仏教もキリスト教も、人々の苦しみを救うことを目指しています。その点では同じなのです」
このアプローチは、ある程度の成功を収めました。少しずつですが、キリスト教に改宗する人々が増えていったのです。
しかし、同時に、私の中で新たな葛藤も生まれました。
「本当にこれでいいのだろうか…日本の人々の心を、完全に理解できているのだろうか」
そんな疑問が、常に私の心の中にありました。
第7章 – 中国を目指して
日本での2年間の宣教活動を終え、1551年、私はインドに戻りました。しかし、私の心は既に次の目的地に向かっていました。それは、中国です。
「中国は、アジアの中心です。そこでキリスト教が受け入れられれば、アジア全体に広がるかもしれない」
私はそう考え、中国への渡航を決意しました。しかし、当時の中国は、外国人の入国を厳しく制限していました。
「フランシスコ、それは無謀だ。中国に入ろうとして捕まれば、命はないぞ」
同僚たちは必死に私を止めようとしました。しかし、私の決意は固かったのです。
1552年4月、私はゴアを出発し、マラッカを経由して中国に向かいました。しかし、この旅は想像以上に困難を極めました。
マラッカでは、現地の政治的な混乱に巻き込まれ、船の出航が大幅に遅れました。そして、ようやく出航できた時には、私の体調は既に最悪の状態でした。
船上で、私は高熱に苦しみました。それでも、中国の沿岸が見えてきた時、私の心は希望に満ちあふれました。
「ついに…ついに中国に…」
しかし、運命は私に厳しい結末を用意していました。
1552年12月3日、上川島(サンチョアン島)という小さな島で、私は息を引き取りました。享年46歳。中国本土を踏むことなく、私の人生は幕を閉じたのです。
終章 – 遺産と反省
私、フランシスコ・ザビエルの人生は、こうして終わりました。しかし、私の遺志は多くの人々に引き継がれ、アジアでのキリスト教の布教は続けられました。
私の活動は、後の宣教師たちに大きな影響を与えました。特に、言語や文化の壁を乗り越えようとする姿勢は、多くの人々に受け継がれていきました。
しかし、同時に、私の活動には多くの問題点もありました。
現地の文化や伝統を十分に理解せずに、西洋の価値観を押し付けてしまったこと。時には、政治的な力を利用して布教活動を行ったこと。これらの行為は、現地の人々の心に深い傷を残すことにもなりました。
また、私の布教活動が、後の植民地支配の先駆けとなってしまったことも否定できません。私の意図とは異なり、キリスト教の布教が、西洋による支配の道具として使われてしまったのです。
これらの反省点は、後の世代に大きな教訓を残しました。宗教の普及は、決して強制や支配であってはならない。相手の文化を尊重し、対話を重ねながら進めていくべきだ。そんな考え方が、現代の宗教間対話にも生かされています。
私の人生を振り返ると、成功も失敗も、全てが大切な経験だったと感じます。そして、これらの経験が、後の世代の人々の心に何かを残せたのなら、それは私にとって最大の喜びです。
皆さん、特に若い世代の方々へ。
自分の信念のために行動することは素晴らしいことです。しかし、同時に、他者の価値観や文化を尊重することも忘れないでください。
世界は広く、多様性に満ちています。その多様性を認め、尊重し合うことこそ、真の理解と平和への道なのです。
私の人生から、何か学びを得ていただければ幸いです。
そして、皆さんの人生が、愛と理解に満ちたものになることを、心から願っています。