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三蔵法師 | 偉人ノベル
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三蔵法師物語

アジア世界史宗教
年表
600年
0才
誕生
613年
13才
出家
622年
22才
洛陽の浄土寺で具足戒を受ける
629年
29才
インドへ出発
630年
30才
トルファンに到着
631年
31才
クチャを経由
632年
32才
カシュガルに到着
634年
34才
バーミヤンに到着
635年
35才
ガンダーラに到着
636年
36才
カシミールで修行
637年
37才
ナーランダ大学に到着
638年
38才
インドを巡礼
645年
45才
長安に帰還
646年
46才
翻訳事業を開始
647年
47才
大唐西域記の執筆を開始
648年
48才
般若心経を翻訳
654年
54才
大唐西域記が完成
656年
56才
大般若波羅蜜多経の翻訳を開始
664年
64才
死去
物語の長さ
9分18分

第一章:幼き日の夢

私の名は玄奘。後に三蔵法師と呼ばれることになる僧侶だ。西暦600年、洛州緱氏県(現在の河南省)に生まれた。幼い頃から、私の心には大きな疑問が渦巻いていた。

「なぜ人は苦しむのか。どうすれば幸せになれるのか」

父は儒教の学者だったが、私の心は仏教に惹かれていった。父は毎日、儒教の古典を読み聞かせてくれたが、私の心には響かなかった。

ある日、私は父に尋ねた。「お父さん、人はなぜ苦しむの?」

父は困ったような顔をして答えた。「それは…人の道を外れるからだ」

しかし、その答えに私は納得できなかった。周りを見れば、まじめに生きている人も苦しんでいる。そんな疑問を抱えながら、私は8歳の時、兄の長捷が仏門に入るのを目にした。

兄の姿を見て、私の心に火がついた。「私も出家したい」

しかし、父は反対した。「玄奘、お前はまだ小さすぎる」

私は必死に説得した。「でも、お父さん。私には仏の教えを学ぶ使命があるんです」

父の目に涙が浮かんだ。長い沈黙の後、父はゆっくりと口を開いた。「お前の決意はわかった。だが、もう少し大きくなってからにしなさい」

その言葉に従い、私は13歳になるまで待った。その間、私は仏教の基本的な教えを独学で学んだ。経典を読み、瞑想を実践し、慈悲の心を育てようと努力した。

そして、ついに13歳の誕生日を迎えた日、私は兄と共に長安の大覚寺で出家の儀式を受けた。頭を丸め、袈裟を身にまとった時、私の心は喜びと決意に満ちていた。

「これから、真理の探求の旅が始まるんだ」

僧院での生活は厳しかった。夜明け前から深夜まで、経典を読み、瞑想し、掃除をした。時には、眠気と戦いながら経典を暗唱することもあった。しかし、私の心は喜びに満ちていた。

ある日、私は古い経典を読んでいて、ある事実に気づいた。経典の中に矛盾する記述があったのだ。

「師匠、この経典の翻訳には矛盾があります」私は恐る恐る老師匠に告げた。

老師匠は眉をひそめた。「玄奘、よく気づいたな。実は、多くの経典の翻訳に問題があるのだ」

その言葉に、私は衝撃を受けた。「では、どうすれば正しい教えを知ることができるのでしょうか」

老師匠は遠くを見つめながら答えた。「インドに行くしかない。仏陀の生まれた地で、本物の経典を学ぶのだ」

その言葉が、私の人生を大きく変えることになった。その日から、私の心はインドへの旅に向かって動き始めた。

夜な夜な、私はインドの地図を眺め、旅の計画を立てた。砂漠を越え、高山を越え、異国の地で学ぶ自分の姿を想像した。それは危険な旅になるだろう。しかし、真理を求める思いが、その恐れを打ち消した。

「必ず、本物の仏の教えを学んでみせる」

その決意が、私の心に刻まれた。

第二章:長安での修行と西域への旅立ち

年月が流れ、私は21歳になっていた。長安の大慈恩寺で修行を重ねる中、インドへの思いは日に日に強くなっていった。毎日の瞑想の中で、私はインドの聖地を思い浮かべていた。

ある日、私は寺の長老に呼ばれた。長老の部屋に入ると、厳しい表情で私を見つめる長老の姿があった。

「玄奘、お前の才能は素晴らしい。しかし、まだ若すぎる。もう少し修行を積んでからインドに行くのがよいだろう」

私は頭を下げた。「ご意見ありがとうございます。しかし、私の心は既に決まっています」

長老は深いため息をついた。「わかった。だが、皇帝の許可なしに国境を越えることは許されていない。それを覚悟の上でか?」

私は迷わず答えた。「はい。たとえ命を落としても、真理を求める旅に出ます」

長老は長い間黙っていたが、最後にこう言った。「お前の決意はわかった。だが、くれぐれも身を守ることを忘れるな」

その夜、私は密かに長安を出発した。荷物は最小限。経典と筆記用具、そして乾パンだけだった。月明かりを頼りに、私は西へと歩を進めた。

最初の数日は順調だった。しかし、やがて困難が待ち受けていた。食料は尽き、水も乏しくなった。ある日、砂漠の中で、私は完全に道に迷ってしまった。

灼熱の太陽が容赦なく照りつける中、私は歩き続けた。喉は乾き、足はふらつき始めた。「ここで死ぬのか」そう思った瞬間、遠くにオアシスが見えた。

必死の思いでオアシスにたどり着くと、そこで一人の商人に出会った。商人は私に水を分けてくれ、こう言った。

「坊さん、この先は危険だぞ。引き返したほうがいい」

私は微笑んで答えた。「ありがとう。でも、私には使命があるんです」

商人は首を振った。「命知らずだな。だが、その勇気は買おう。ここ、水を持っていけ」

その親切に、私は深く感謝した。そして、再び旅を続けた。

西域への道は険しかった。砂漠を越え、山々を越え、時には盗賊に襲われることもあった。ある夜、私は岩陰に身を隠しながら、盗賊たちの会話を聞いていた。

「あの坊主を追え!きっと貴重な経典を持っているはずだ」

私の心臓は激しく鼓動した。逃げなければ。しかし、どこへ?周りは見渡す限りの砂漠だ。

その時、私は仏陀の教えを思い出した。「恐れるな。全ては心が生み出す幻想に過ぎない」

私は深呼吸をし、静かに立ち上がった。そして、堂々と盗賊たちの前に姿を現した。

「私が求めているのは、この世の財宝ではありません。真理です。あなたがたにも、その真理は必要ではありませんか?」

盗賊たちは驚いて立ち尽くした。そして、不思議なことに、彼らは武器を下ろし始めた。

「坊主、お前は変わった奴だ。命よりも大事なものがあるのか?」

私は微笑んで答えた。「はい。それが真理です」

盗賊たちは私を見つめ、やがて一人が言った。「行け。お前のような勇気ある者を傷つけるわけにはいかない」

こうして、私は危機を脱した。しかし、この経験から私は重要なことを学んだ。

「恐れを克服し、真理を語れば、人の心は動くのだ」

旅の途中、私は多くの困難に直面した。食べ物が尽きたこともあれば、道に迷ったこともある。しかし、そのたびに思い出したのは、仏陀の教えだった。

「一切は無常である。この苦しみも、いつかは過ぎ去る」

そう自分に言い聞かせながら、私は歩み続けた。時には、道端で倒れそうになることもあった。しかし、その度に、インドで学ぶ自分の姿を想像し、再び立ち上がった。

「真理はまだ遠い。でも、一歩ずつ近づいているんだ」

その思いが、私を前へと押し進めた。

第三章:シルクロードの試練

西域の砂漠は、私が想像していた以上に過酷だった。灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、時には砂嵐に見舞われることもあった。水は貴重で、一滴も無駄にできなかった。

ある日、私は砂丘の頂上に立っていた。遠くに見える山々は、まるで蜃気楼のようだった。足元の砂は灼熱で、草履を通して足の裏を焼くようだった。

「ここで死ぬのかもしれない」

その思いが頭をよぎった瞬間、私は自分の弱さに気づいた。これまで、仏の教えを求めて旅をしてきた。しかし、今、死の恐怖を前に、その決意が揺らいでいた。

「いや、違う」私は自分に言い聞かせた。「私には使命がある。真理を求める旅を、ここで終わらせるわけにはいかない」

私は再び歩き始めた。足は重く、喉は乾いていたが、心の中では仏陀の教えが響いていた。

「苦しみは、執着から生まれる。執着を手放せば、苦しみも消える」

その言葉を唱えながら、私は一歩一歩を踏みしめた。砂漠の風が私の袈裟をはためかせ、時折、砂を目に吹き込んだ。しかし、私は目を閉じ、ただ前へと進んだ。

数日後、私はようやく小さな町にたどり着いた。町の入り口で、私は地面に倒れ込んだ。次に目を覚ました時、私は見知らぬ部屋にいた。

「目が覚めたか、坊主」

声の主は、トルファンの王、麴文泰だった。

「ここは…?」私は弱々しく尋ねた。

「我が国だ。お前は町の入り口で倒れていた。死にかけていたぞ」

私は感謝の言葉を述べようとしたが、喉が渇いて声が出なかった。王は私に水を差し出した。

水を飲み終えると、王は尋ねた。「坊主、どこから来た?」

「長安からまいりました。インドを目指しています」私は答えた。

王の目が輝いた。「長安か!素晴らしい。我が国と唐の友好のために、しばらくここに滞在してくれないか」

私は悩んだ。旅を急ぐべきか、それともここで知識を深めるべきか。しかし、私の体は極限まで疲れていた。少し休息を取る必要があると感じた。

「ありがとうございます。しばらくお世話になります」

こうして、私はトルファンに留まることにした。そこで私は、現地の言語や文化を学び、仏教の教えを広めた。王は私を厚遇してくれ、多くの人々が私の話に耳を傾けてくれた。

ある日、私は王宮の庭で瞑想をしていた。すると、一人の若者が近づいてきた。

「坊様、私にも仏の教えを教えてください」

私は目を開け、若者を見た。「何を知りたいのかな?」

若者は躊躇いながら言った。「私は…人を殺めてしまったのです。その罪から逃れる方法はありますか?」

私は深く息を吸い、ゆっくりと答えた。「罪から逃れることはできない。しかし、償うことはできる」

「どうすれば…?」

「まず、自分の行いを深く反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うのだ。そして、他者のために生きるのだ」

若者の目に涙が浮かんだ。「ありがとうございます。私、頑張ります」

この出来事から、私は改めて仏教の教えの力を実感した。それは、人々の心を変え、希望を与えることができるのだ。

しかし、ある日、私は不穏な噂を耳にした。

「玄奘法師、あなたの評判を聞いた高昌国の王が、あなたを捕らえようとしています」ある信者が私に告げた。

「なぜですか?」私は驚いて尋ねた。

「あなたの知識を独占したいのです。高昌国に行けば、二度と出られなくなるでしょう」

私は深く考え込んだ。高昌国は、私がインドに向かう上で避けて通れない重要な地点だった。しかし、そこで足止めされれば、私の旅は終わってしまう。

「どうすればいいのでしょうか」私は呟いた。

その時、麴文泰王が私のもとを訪れた。

「玄奘よ、私は高昌国の王の意図を知っている。だが、心配するな。私がお前を守ろう」

王の言葉に、私は深く頭を下げた。「ご厚意に感謝いたします」

そして、王の助けを借りて、私は高昌国を通過することができた。しかし、その過程で、私は自分の弱さと、他者の善意の重要性を痛感した。

「一人では何もできない。しかし、人々の善意があれば、不可能も可能になる」

その教訓を胸に刻みながら、私はさらに西へと歩を進めた。砂漠の風が私の袈裟をはためかせる中、私の心は次第にインドへと向かっていった。

第四章:インドでの修行

西暦629年、私はついにインドの地を踏んだ。そこは、私が夢に見た仏教の聖地だった。しかし、現実は夢とは違っていた。

インドの街を歩きながら、私は驚きの連続だった。街には様々な宗教の寺院が立ち並び、人々は自由に信仰を選んでいた。仏教だけでなく、ヒンドゥー教や、私の知らない宗教も盛んだった。

「これが、仏陀の国か」私は呟いた。

ナーランダ大学に到着した時、私は驚きのあまり言葉を失った。そこには、世界中から集まった数千人の学僧たちがいた。彼らは昼夜を問わず経典を学び、議論を交わしていた。

「ここで、私も学べるのだろうか」

不安と期待が入り混じる中、私はシーラバドラ長老に面会を求めた。長老は厳しい目つきで私を見つめた。

「中国からの坊主か。何を学びに来た?」

私は緊張しながらも、はっきりと答えた。「仏陀の真の教えを学びたいのです」

長老は笑った。「そうか。では、まず基礎から始めよう。明日から、サンスクリット語の勉強だ」

こうして、私の厳しい修行が始まった。サンスクリット語の習得は想像以上に難しく、何度も挫折しそうになった。文法は複雑で、発音は舌を噛みそうになるほど難しかった。

ある日、私は落ち込んで部屋に籠もっていた。すると、同じ部屋の学僧が声をかけてきた。

「玄奘、大丈夫か?」

私は正直に答えた。「サンスクリット語が難しくて…もう無理かもしれません」

学僧は優しく微笑んだ。「私も最初はそう思った。でも、諦めなければ必ず上達する。一緒に頑張ろう」

その言葉に励まされ、私は再び勉強に打ち込んだ。そのたびに、私は自分に言い聞かせた。

「これは、真理への道だ。簡単なはずがない」

月日が流れ、私はようやくサンスクリット語をマスターし、高度な経典の学習に進んだ。そこで私は、中国で学んだ教えとの違いに愕然とした。

「これほどまでに、解釈が違うのか」

例えば、「空」の概念一つとっても、インドと中国では解釈が大きく異なっていた。私は疑問を抱えながら、さらに深く学んでいった。時には、他の学僧たちと激しい議論を交わすこともあった。

ある日、私は若い学僧と論争になった。

「あなたの解釈は間違っている!」若い学僧は声を荒げた。

私も負けじと反論した。「いや、あなたこそ経典の真意を理解していない」

議論は白熱し、周りの学僧たちも集まってきた。お互いの主張は平行線をたどり、次第に感情的になっていった。

最後に、シーラバドラ長老が仲裁に入った。

「お前たち、仏の教えは争いではない。互いの意見を尊重し、真理を探求するのだ」

その言葉に、私たちは我に返った。

「申し訳ありません」私は頭を下げた。

若い学僧も同じように謝罪した。そして、私たちは握手を交わし、共に学ぶことを誓った。

この経験から、私は大切なことを学んだ。

「真理は一つではない。様々な解釈があり、それぞれに意味がある。大切なのは、互いを理解し、尊重することだ」

インドでの修行は5年に及んだ。その間、私は数多くの経典を学び、多くの聖地を訪れた。ブッダガヤでは、菩提樹の下で深い瞑想に入った。その時、私は仏陀が悟りを開いた瞬間の心境を、わずかながらも感じ取ることができた。

サールナートでは、仏陀が初めて説法を行った場所で、その教えの深さを実感した。鹿野苑に立ち、仏陀の言葉を想像しながら、私は深い感動に包まれた。

「全ての生き物は、苦しみから解放されることを望んでいる」

その言葉が、私の心に深く刻まれた。

しかし、学べば学ぶほど、新たな疑問が生まれた。

「これらの教えを、どのように中国の人々に伝えればいいのか」

インドと中国では、文化も思考方法も大きく異なる。単に言葉を訳すだけでは、真の意味は伝わらないだろう。

その答えを求めて、私はさらに修行を重ねた。瞑想を深め、議論を重ね、時には山中で独り思索にふけった。

ある日、私は山頂で日の出を見ていた。朝日が徐々に大地を照らしていく様子を見て、私はハッとした。

「そうか。真理も同じなのだ。一度に全てを伝えるのではなく、少しずつ、人々の心に光を当てていけばいいのだ」

その瞬間、私の中で何かが明確になった。インドで学んだことを、そのまま中国に持ち帰るのではない。中国の人々の心に響くように、少しずつ、丁寧に伝えていく。それが私の使命なのだと。

インドでの修行を終え、私は帰国の途につくことを決意した。別れの日、多くの学僧たちが私を見送ってくれた。

シーラバドラ長老は私に言った。「玄奘よ、お前は素晴らしい成長を遂げた。しかし、これは終わりではない。始まりだ。中国の人々に、仏の教えを正しく伝えるのだ」

私は深く頭を下げた。「はい。必ず、その使命を果たします」

インドを後にする時、私の心は決意と不安が入り混じっていた。しかし、一つだけ確かなことがあった。

「私は変わった。そして、これからも変わり続ける」

その思いを胸に、私は再び西域の道を歩み始めた。今度は、真理を胸に抱いて。

第五章:帰国と翻訳事業

西暦645年、17年の歳月を経て、私はついに長安に戻った。街の様子は大きく変わっていたが、人々の表情は昔と変わらなかった。彼らの中に、仏の教えを求める心があることを、私は感じ取った。

しかし、帰国の喜びもつかの間、新たな試練が待っていた。

皇帝の太宗は、私の帰国を聞いてすぐに宮殿に呼び寄せた。大きな宮殿の中で、私は小さく感じた。太宗は威厳のある声で言った。

「玄奘よ、お前の冒険譚を聞かせてくれ」

私は恐る恐る、自分の旅の詳細を語った。盗賊に襲われたこと、砂漠で道に迷ったこと、そしてインドでの修行のことを。太宗は熱心に聞いていたが、突然厳しい表情になった。

「お前は、朕の許可なく国を出た。これは重罪だぞ」

私は震える声で答えた。「はい。私の罪は重いです。しかし、真理を求める旅は、避けられないものでした」

太宗は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「よかろう。お前の罪は許そう。だが、その代わりに、お前の学んだことをこの国のために使え」

私は安堵のあまり、涙が溢れそうになった。「ありがとうございます。必ず、この恩に報いてみせます」

こうして、私の新たな使命が始まった。大慈恩寺に翻訳院を設立し、インドから持ち帰った経典の翻訳に着手した。

しかし、翻訳作業は想像以上に困難だった。サンスクリット語の微妙なニュアンスを、どのように中国語で表現すればいいのか。日々、頭を悩ませた。

ある日、弟子の一人が私に尋ねた。

「師匠、なぜこれほど苦労して翻訳するのですか? 大まかな意味がわかれば十分ではないですか?」

私は厳しい目つきで弟子を見た。

「違う。一字一句が大切なのだ。たった一文字の違いで、教えの本質が変わってしまうこともある」

そう言いながら、私は自分の若かりし頃を思い出していた。中国で学んだ経典の誤訳に気づき、真実を求めてインドへ旅立った日々を。

「私たちの翻訳が、次の世代の道標となるのだ。決して妥協はできない」

翻訳作業は昼夜を問わず続いた。時には、一つの言葉の訳し方で何日も議論することもあった。

ある時、私たちは「菩提」という言葉の訳し方で行き詰まった。

「これを「道」と訳すべきか、それとも「覚」と訳すべきか」

議論は白熱し、意見が二つに分かれた。私は両方の意見を聞いた後、静かに言った。

「どちらも正しい。しかし、ここでは「覚」としよう。なぜなら、この文脈では悟りの瞬間を指しているからだ」

このように、一つ一つの言葉に心を込めて翻訳を進めた。その過程で、私たちは仏教の教えをより深く理解していった。

ある時、『般若心経』の翻訳中に、私は大きな壁にぶつかった。

「色即是空、空即是色」

この深遠な教えを、どのように中国語で表現すればいいのか。何日も考え抜いた末、私はついに適切な訳を見つけた。

「色不異空、空不異色」

この訳には、形あるものと空の概念が不可分であるという深い意味が込められていた。

翻訳が完成するたびに、私は太宗に報告した。皇帝は常に熱心に耳を傾け、時には鋭い質問を投げかけてきた。

「玄奘よ、この教えは我が国の伝統的な思想とどう調和するのだ?」

私は慎重に答えた。「陛下、仏教の教えは、儒教や道教の思想と矛盾するものではありません。むしろ、それらを補完し、より深い理解をもたらすものです」

例えば、儒教の「仁」の概念と、仏教の「慈悲」は、共に他者への思いやりを説いています。また、道教の「無為自然」の考えは、仏教の「空」の概念と通じるものがあります。

太宗は満足そうに頷いた。「よくわかった。お前の翻訳事業を、これからも支援しよう」

こうして、私の翻訳事業は国家的なプロジェクトとなった。多くの学僧たちが集まり、共に作業を進めた。

しかし、その過程で、私は新たな課題に直面した。インドで学んだ教えの中には、中国の文化や習慣と相容れないものもあった。

例えば、カーストの概念や、一部の密教の儀式は、中国の人々には受け入れがたいものだった。

「これをそのまま訳せば、人々の反感を買うかもしれない」

私は悩んだ末、決断を下した。

「教えの本質は変えずに、表現を少し和らげよう。人々が受け入れやすい形で伝えることも、私たちの役目だ」

この決断は、後に批判を受けることもあった。「原典を改変するのは邪道だ」と言う者もいた。しかし、私は信じていた。真理は、理解されてこそ意味がある。たとえ完全でなくとも、一歩一歩、人々の心に届けていくことが大切だと。

翻訳事業は何年も続いた。その間、私は多くの弟子を育て、仏教の教えを広めていった。時には、皇帝の前で説法を行うこともあった。

ある日、太宗が私に尋ねた。

「玄奘よ、お前が学んだ中で、最も重要な教えは何だ?」

私は少し考えてから答えた。

「陛下、それは「縁起」の教えです。全ての物事は互いに関連し合い、影響し合っています。一つの行為が、思いもよらない結果をもたらすこともあります。だからこそ、私たちは慈悲の心を持ち、思慮深く行動しなければならないのです」

太宗は深く頷いた。「なるほど。その教えは、国を治める上でも大切だな」

このように、私の翻訳事業は単なる言葉の置き換えではなく、文化の架け橋となっていった。それは、インドと中国、仏教と中国の伝統思想を結ぶ大きな役割を果たしたのだ。

第六章:晩年と遺産

歳月は容赦なく流れ、私の体力も衰えていった。しかし、翻訳事業への情熱は衰えることはなかった。

ある日、私は弟子たちを集めて言った。

「私の時間は限られている。しかし、この事業は私一人のものではない。皆で力を合わせれば、必ず完成させることができる」

弟子たちは涙ながらに頷いた。

「師匠、ご安心ください。私たちが必ずや師匠の意志を継ぎます」

その言葉に、私は安堵の笑みを浮かべた。しかし、私の心の中には、まだ一つの後悔があった。それは、インドで出会った多くの友人たちに、再会できなかったことだ。

ある夜、私は夢を見た。インドの友人たちと再び語り合う夢だった。シーラバドラ長老や、共に学んだ学僧たち。彼らと再び議論を交わし、笑い合う。目覚めた時、私の頬には涙が流れていた。

「彼らも、きっと私のことを思い出してくれているだろう」

その思いが、私に新たな力を与えてくれた。

最後の数年間、私は自分の経験と学びを『大唐西域記』としてまとめることに力を注いだ。これは単なる旅行記ではなく、仏教の教えと、それを取り巻く文化や社会の記録でもあった。

ある日、一人の若い僧が私に尋ねた。

「師匠、なぜそれほどまでに詳細な記録を残すのですか?」

私は微笑んで答えた。

「それは、未来の人々のためだ。私たちが学んだこと、経験したことは、必ず後世の人々の役に立つ。たとえ私たちがいなくなっても、この記録が彼らの道標となるだろう」

西暦664年、私は64歳でこの世を去った。最期の瞬間まで、私は経典の翻訳に励んでいた。臨終の床で、私は弟子たちに最後の言葉を残した。

「真理の探求に終わりはない。しかし、その旅路こそが、私たちを成長させるのだ。これからも、仏の教えを正しく伝え、人々の心に光を灯し続けてほしい」

私の死後、弟子たちは私の遺志を継ぎ、翻訳事業を続けた。私が持ち帰った経典は、『大唐西域記』として編纂され、後世に大きな影響を与えることとなった。

私の旅と翻訳事業は、中国仏教に新たな息吹をもたらした。多くの人々が、より深い仏教の教えに触れることができるようになった。また、私の記録は、シルクロードの地理や文化を知る上でも貴重な資料となった。

しかし、私の人生には光と影があった。国を出る際に法を破ったこと、時に他者との対立を生んだこと、翻訳において妥協せざるを得なかったこと。これらは、私の心に重くのしかかっていた。

それでも、私は信じている。人は完璧ではない。しかし、真理を求め続ける限り、必ず道は開かれる。

私の人生が、後世の人々にとって何らかの指針となることを願って、私はペンを置く。

真理の探求に終わりはない。しかし、その旅路こそが、私たちを成長させるのだ。

(了)

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