薔薇の棘
第1章:別れの朝
1770年4月21日、ウィーン
マリア・アントニアは、シェーンブルン宮殿の寝室の窓から、朝もやに包まれた庭園を見つめていた。今日という日が、ついに来てしまった。14歳の少女の心臓が、胸の中で激しく鼓動を打っている。
「アントニア、準備はできましたか?」
母マリア・テレジアの声が、扉の向こうから聞こえてきた。オーストリア女帝の声には、いつもの威厳と共に、珍しく優しさが混じっているように感じられた。
「はい、母上」マリア・アントニアは振り返り、深呼吸をした。「もう少しお時間をください」
少女は鏡の前に立ち、最後の仕上げに取り掛かった。金色の巻き毛を整え、青いドレスのしわを伸ばす。これが、オーストリア大公女としての最後の姿になるのだ。
数時間後、彼女はマリー・アントワネットとなり、フランスに向けて旅立つ。ルイ・オーギュスト皇太子との政略結婚。二つの大国の同盟を象徴する花嫁。
「私は準備ができている」マリア・アントニアは小声で自分に言い聞かせた。しかし、その声は震えていた。
扉が開き、マリア・テレジアが入ってきた。娘の姿を見て、女帝の目に涙が光った。
「私の美しい娘よ」彼女は優しく微笑んだ。「フランスの人々は、あなたを愛するでしょう」
マリア・アントニアは母の腕に飛び込んだ。「怖いわ、お母様」
「強くなるのよ、アントニア」マリア・テレジアは娘の背中をさすりながら言った。「あなたはハプスブルク家の娘。そして間もなく、フランスの皇太子妃になるのです」
少女は深く息を吸い、母から離れた。彼女の青い瞳には、決意の光が宿っていた。
「行きましょう」マリア・アントニアは言った。「私の運命が待っています」
二人は腕を組み、寝室を後にした。廊下には、宮廷人たちが整列して待っていた。マリア・アントニアは、彼らの敬意に満ちた視線を一身に受けながら、威厳を持って歩を進めた。
彼女の人生の新しい章が、今始まろうとしていた。
第2章:新たな国へ
1770年5月、フランスとの国境近く
馬車が揺れるたびに、マリー・アントワネットの心臓も揺れた。数週間にわたる長い旅の終わりが近づいていた。ウィーンを出発してからの日々は、まるで夢のようだった。
「もうすぐフランス領に入ります、王女様」付き添いの貴族が告げた。
マリーは窓の外を見た。遠くに見える緑の丘陵は、彼女の故郷オーストリアとそれほど変わらない。しかし、これから彼女が足を踏み入れる世界は、全く異なるものになるだろう。
国境に到着すると、驚くべき光景が広がっていた。豪華な天蓋付きのパビリオンが建てられ、フランスの貴族たちが整列して待っていたのだ。
馬車が止まり、ドアが開く。マリーは深呼吸をし、優雅に降り立った。
「ようこそ、オーストリア王女マリー・アントワネット様」フランス王ルイ15世の特使が深々と頭を下げた。
マリーは、母から教わった通りに応答した。流暢なフランス語で挨拶を交わす彼女の姿に、貴族たちはささやきあった。
そして、予想外の出来事が起こった。
「さあ、お着替えの時間です」年配の貴婦人が前に出た。
マリーは困惑した表情を浮かべた。「お着替え、ですか?」
「はい、王女様。フランスの地に足を踏み入れる前に、オーストリアの衣装を脱ぎ、フランスの衣装に着替えていただきます」
マリーは周囲を見回した。確かに、大きなスクリーンが設置されている。彼女は喉の奥に込み上げてくるものを感じた。故郷との最後の絆を断ち切るのだ。
着替えの儀式は、驚くほど儀式的で公的なものだった。マリーは、オーストリアから持参した服を一枚一枚脱ぎ、フランスの侍女たちに手渡した。そして、フランス製の豪華な衣装に身を包んでいく。
最後に、マリーは鏡の前に立った。そこに映っているのは、もはやウィーンの少女ではない。フランス皇太子妃としての威厳を纏った若い女性の姿があった。
「準備ができました」マリーは、震える声を抑えて言った。
パビリオンを出ると、フランス貴族たちの歓声が沸き起こった。マリーは微笑みを浮かべ、優雅に手を振った。内なる不安を押し殺しながら。
馬車に乗り込むと、新たな旅が始まった。目的地は、ヴェルサイユ宮殿。そこで、彼女の未来の夫、ルイ・オーギュスト皇太子が待っている。
マリーは窓の外を見つめた。美しいフランスの田園風景が広がっている。しかし、彼女の心は、遠く離れた故郷へと飛んでいった。
「さようなら、ウィーン」彼女は心の中でつぶやいた。「こんにちは、フランス」
馬車は、未知の未来へと走り続けた。
第3章:金の檻
1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿の巨大な金色の門が開かれ、マリー・アントワネットを乗せた馬車が中に入っていった。14歳の少女の目は、驚きと畏怖の念で大きく見開かれていた。
「なんて…豪華なの」彼女は思わずつぶやいた。
確かに、ヴェルサイユは圧倒的だった。広大な庭園、きらびやかな噴水、そして宮殿そのものの壮麗さ。しかし、マリーの心の奥底では、この豪華さが彼女を包み込む黄金の檻になるのではないかという不安が芽生えていた。
馬車が止まり、侍従長が彼女を迎えた。
「皇太子妃殿下、ようこそヴェルサイユへ」
マリーは深呼吸をし、馬車から優雅に降り立った。宮殿の前には、フランス王家と貴族たちが整列して待っていた。その中心に立つのは、ルイ15世王。そして、その隣に…
マリーの心臓が高鳴った。あれが彼女の未来の夫、ルイ・オーギュスト皇太子に違いない。
ルイ15世が前に進み出た。「我が孫の花嫁、マリー・アントワネット。フランスへようこそ」
マリーは深々と膝をつき、「陛下、フランスの地を踏むことができ、光栄です」と流暢なフランス語で答えた。
王の隣に立っていた若い男性が、ぎこちない様子で一歩前に出た。ルイ・オーギュストだ。彼は15歳だが、その表情には子供っぽさが残っていた。
「皇太子妃殿下」彼は小さな声で言った。「お会いできて光栄です」
マリーは微笑んだ。「皇太子殿下、お目にかかれて私も光栄です」
二人の視線が合った瞬間、マリーは相手の目に映る不安と緊張を見て取った。それは、きっと自分の目にも同じように映っているのだろう。
突然、宮殿の鐘が鳴り響いた。ルイ15世が声を上げる。
「さあ、宴の始まりだ!」
人々が動き出し、マリーはルイ・オーギュストと共に宮殿の中へと導かれていった。豪華な廊下を歩きながら、マリーは密かに夫となる人物を観察した。
ルイ・オーギュストは、どこか内気で、落ち着かない様子だった。彼は時々マリーの方をちらりと見ては、すぐに目をそらした。
「皇太子殿下」マリーは優しく声をかけた。「ヴェルサイユの庭園は本当に美しいですね」
ルイ・オーギュストは少し驚いたように彼女を見た。「はい、そうですね。特に…特に噴水が」
「私も噴水が大好きです」マリーは笑顔で答えた。「いつか一緒に散歩できたら素敵ですね」
皇太子の頬が少し赤くなった。「はい、それは…いいかもしれません」
二人の会話は、宴会場に到着するとすぐに中断された。華やかな音楽が鳴り響き、数百人の貴族たちが二人を取り囲んだ。
マリーは深呼吸をした。これが彼女の新しい人生の始まりだ。ヴェルサイユの華やかさと、その裏に潜む政治的な駆け引き。そして、まだよく知らない夫との関係。
彼女は心の中で誓った。「私は強くなる。この宮殿で、私の場所を見つけてみせる」
宴は夜遅くまで続いた。マリー・アントワネットの人生の新しい章が、華々しく幕を開けたのだった。
第4章:運命の結び目
1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂に、歴史が刻まれようとしていた。マリー・アントワネットは、純白のドレスに身を包み、祭壇の前に立っていた。隣には、同じく緊張した面持ちのルイ・オーギュスト皇太子。
礼拝堂は、ヨーロッパ中から集まった王族や貴族たちで埋め尽くされていた。空気は期待と緊張で満ちていた。
大司教が厳かな声で儀式を進める。「神の御前で、この二人を結び付けます…」
マリーは、母マリア・テレジアの言葉を思い出していた。「この結婚は、単なる愛の誓いではない。二つの大国の同盟なのだ」
彼女は、横にいるルイ・オーギュストを見た。彼も同じように緊張しているようだった。二人はまだほとんど言葉を交わしていない。それでも、これから人生を共にする運命なのだ。
「誓いの言葉を」大司教の声が響く。
マリーとルイは、お互いに向き合った。ルイの声は小さく震えていたが、マリーは、母から教わった通り、はっきりとした声で誓いの言葉を述べた。
「私は、あなたを夫と認め、生涯を共にすることを誓います」
指輪の交換。二人の手が触れ合ったとき、マリーは小さな電流が走るのを感じた。これが愛なのか、それとも単なる緊張なのか。彼女にはまだわからなかった。
「フランスの皇太子と皇太子妃の誕生です」大司教の宣言と共に、礼拝堂に大きな拍手が沸き起こった。
祝宴が始まり、夜は更けていった。ダンス、乾杯、そして終わることのない祝福の言葉。マリーは、すべてに完璧に対応した。しかし、彼女の心の中では、これからの人生への不安が渦巻いていた。
夜も更けた頃、二人は寝室へと導かれた。
部屋に入ると、突然の沈黙が二人を包んだ。マリーは、ルイが彼女を見つめているのを感じた。
「あの…」ルイが口を開いた。「今日は長い一日でしたね」
マリーは微笑んだ。「ええ、そうですね。でも、素晴らしい日でした」
ルイは少し安堵したように見えた。「僕…僕たちはこれからゆっくり知り合えばいいと思うんです」
その言葉に、マリーは心の中で安堵のため息をついた。彼女も、まだ準備ができていなかったのだ。
「そうですね」彼女は優しく答えた。「私たちには時間がありますから」
二人は、それぞれのベッドに横たわった。部屋は広く、二つのベッドの間には距離があった。それは、二人の関係を象徴しているようだった。近いようで、まだ遠い。
マリーは天井を見上げながら考えた。これが彼女の新しい人生の始まり。フランスの皇太子妃として、彼女にはたくさんの責任がある。そして、この見知らぬ少年との関係を築いていかなければならない。
「私にはできる」彼女は自分に言い聞かせた。「私は強くなる。そして、この国で、私の場所を見つけてみせる」
窓の外では、ヴェルサイユの庭園が月明かりに照らされていた。新たな朝が、そしてマリー・アントワネットの新たな人生が、もうすぐ始まろうとしていた。
第5章:金の檻の中で
1770年8月、ヴェルサイユ宮殿
マリー・アントワネットは、鏡の前に立ち、複雑な髪型を整えている侍女たちに囲まれていた。結婚から3ヶ月が経ち、彼女はヴェルサイユの日常に少しずつ慣れつつあった。しかし、毎日の儀式のような身支度にはまだ戸惑いを感じていた。
「今日の予定は?」マリーは、首席侍女のカンパン夫人に尋ねた。
「午前中は絵画のレッスン、午後は義理の妹たちとのお茶会、そして夕方には宮廷での晩餐会がございます」カンパン夫人は滑らかに答えた。
マリーは小さなため息をついた。毎日が予定で埋め尽くされている。自由な時間はほとんどない。
突然、ドアが開き、義理の妹のエリザベートが飛び込んできた。
「アントワネット!大変よ!」彼女は興奮した様子で叫んだ。
マリーは驚いて振り返った。「どうしたの、エリザベート?」
「噂よ、宮廷中に広まっているの。あなたとルイの…その…」エリザベートは言葉を濁した。
マリーは即座に理解した。結婚から3ヶ月経っても、彼女とルイの間には肉体的な関係が始まっていなかった。そして、それが宮廷中の噂になっているのだ。
「またか」マリーは疲れたように言った。
カンパン夫人が静かに言った。「皇太子妃様、フランスは後継者を待ち望んでいます。この噂は…」
「わかっています」マリーは言葉を遮った。「でも、ルイは…私たちはまだ…」
彼女は言葉を詰まらせた。ルイとの関係は友好的ではあったが、まだぎこちなさが残っていた。二人とも若く、経験がない。そして、プレッシャーは日に日に増していくばかりだった。
「午後のお茶会をキャンセルして」マリーは決意を込めて言った。「ルイと話をする必要があるわ」
エリザベートとカンパン夫人は驚いた顔を見せたが、頷いた。
数時間後、マリーはルイの書斎を訪れていた。
「入ってもいい?」彼女はドアをノックしながら言った。
「ああ、どうぞ」ルイの声が聞こえた。
部屋に入ると、ルイは机に向かって何かを読んでいた。彼は顔を上げ、マリーを見て微笑んだ。
「どうしたの?」彼は優しく尋ねた。
マリーは深呼吸をした。「ルイ、私たちについて話をしたいの」
ルイの表情が曇った。「噂のこと?」
マリーは頷いた。「みんなが期待しているわ。でも、私たちはまだ…」
「僕も焦っているんだ」ルイは突然言った。「でも、怖いんだ。うまくできるかどうか…」
マリーは驚いた。これまで、ルイがこんなに正直に自分の気持ちを話すのを聞いたことがなかった。
「私も怖いわ」彼女は静かに言った。「でも、一緒に乗り越えられると思うの。少しずつでいいから」
ルイは彼女をじっと見つめた。そして、初めて、彼は自ら彼女の手を取った。
「一緒に」彼は小さく頷いた。
その瞬間、マリーは小さな希望を感じた。彼女たちの関係は、まだ始まったばかり。時間はかかるかもしれない。でも、二人で一歩ずつ前に進んでいける。
窓の外では、ヴェルサイユの庭園が夕日に照らされていた。マリー・アントワネットは、これからの人生に待ち受ける様々な課題を思い浮かべた。宮廷の噂、政治的な駆け引き、そしてフランス国民の期待。
しかし、今この瞬間、彼女は一人じゃないと感じていた。それが、彼女に小さな勇気を与えていた。
第6章:光と影
1774年5月、ヴェルサイユ宮殿
マリー・アントワネットは、豪華な衣装に身を包み、バルコニーに立っていた。彼女の下には、数千人のフランス国民が集まっていた。彼らの歓声が、ヴェルサイユの庭園に響き渡る。
「王妃バンザイ!」「美しい王妃様!」
マリーは微笑みながら手を振った。結婚から4年、彼女はフランスの人々の心を掴むことに成功していた。少なくとも、表面上は。
しかし、バルコニーを去り、宮殿の中に戻ると、彼女の表情は曇った。
「また新しい風刺画が出回っているそうです」カンパン夫人が静かに告げた。
マリーは深いため息をついた。「どんな内容?」
「あなた様の…支出について」カンパン夫人は言葉を選びながら答えた。
マリーは苦笑いを浮かべた。彼女の豪華な衣装や宝石、そして派手な社交生活は、批判の的となっていた。「オーストリアの女狼」というあだ名まで付けられていた。
「国民は私を愛しているわ」マリーは自分に言い聞かせるように言った。「でも、同時に憎んでもいるのね」
その時、ルイが部屋に入ってきた。彼は以前よりも自信に満ちた様子で、マリーに近づいた。
「大衆の声は移ろいやすいものだよ」ルイは優しく言った。「でも、僕たちには責任がある。フランスのために」
マリーは夫を見つめた。彼らの関係は、この4年で大きく変化していた。最初のぎこちなさは消え、今では互いを理解し、支え合う関係になっていた。
「ルイ、私たちは何かをしなければいけないわ」マリーは決意を込めて言った。「国民の信頼を取り戻すために」
ルイは頷いた。「そうだね。でも、どうやって?」
マリーは窓の外を見た。そこには、ヴェルサイユの豪華な庭園が広がっていた。突然、彼女のアイデアが浮かんだ。
「プチ・トリアノンよ」彼女は興奮して言った。
「何?」ルイは困惑した様子で尋ねた。
「プチ・トリアノン宮殿を、慈善活動の拠点にするの」マリーは説明した。「孤児院や病院の支援、貧困層への援助…私たちが国民のために何かをしているところを見せるのよ」
ルイの目が輝いた。「それはいいアイデアだ!」
しかし、カンパン夫人は心配そうな表情を浮かべた。「でも、王妃様。宮廷の中には、あなた様の影響力拡大を快く思わない人々もいます」
マリーは決意に満ちた表情で言った。「だからこそ、やらなければいけないの。私はもう、ただの飾りじゃない。フランスの王妃として、責任を果たすわ」
その夜、マリーは日記を書いていた。
「今日、私は決意した。批判は恐れない。フランスのために、私にできることをする。それが、オーストリアの姫から、フランスの王妃になった私の運命なのだから」
窓の外では、パリの街灯が遠くに輝いていた。マリー・アントワネットは、これから始まる新たな挑戦に、期待と不安を感じていた。彼女の行動が、フランスの未来をどう変えていくのか。それは、誰にもまだわからなかった。
第7章:希望と不安の狭間で
1778年12月、ヴェルサイユ宮殿
産室から赤ん坊の泣き声が響き渡った瞬間、ヴェルサイユ中が歓喜に包まれた。
「王女様がお生まれになりました!」侍医長の声が廊下に響く。
マリー・アントワネットは、疲れ切った表情の中にも喜びを湛えて、生まれたばかりの娘を腕に抱いていた。
「マリー・テレーズ」彼女は小さく呟いた。「私の愛しい娘」
ルイ16世が部屋に駆け込んできた。彼の目には涙が光っている。
「マリー、よくやった」彼は妻の額にキスをした。「彼女は美しい」
二人は新しい命を抱きしめ、幸せな瞬間に浸った。しかし、その喜びは長くは続かなかった。
数日後、マリーは寝室で休んでいた。カンパン夫人が静かに部屋に入ってきた。
「王妃様、パリからの報告です」
マリーは疲れた目を開けた。「どんな内容?」
カンパン夫人は言葉を選びながら答えた。「民衆の不満が高まっているそうです。パンの価格が上がり、多くの人々が飢えに苦しんでいると…」
マリーはため息をついた。「また暴動が起きたの?」
「はい、小規模なものですが」
マリーは天井を見上げた。娘の誕生という喜びの陰で、国の状況は悪化の一途を辿っていた。
「ルイは?」
「陛下は大臣たちと対策を協議中です」
その時、ルイが部屋に入ってきた。彼の表情は暗く、疲れ切っていた。
「どうだった?」マリーは心配そうに尋ねた。
ルイは重々しく椅子に座った。「状況は思ったよりも深刻だ。財政は底をつき、改革案は貴族たちの反対にあっている」
マリーは起き上がり、夫の隣に座った。「私たちに何かできることはない?」
ルイは苦笑いを浮かべた。「君の慈善活動は評判がいいようだ。でも、根本的な解決にはならない」
二人は沈黙した。窓の外では、ヴェルサイユの庭園が冬の寒さに震えていた。
突然、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。マリーは立ち上がり、揺りかごに向かった。
「シーッ、マリー・テレーズ」彼女は優しく娘をあやした。「大丈夫よ、ママがここにいるわ」
ルイは妻と娘を見つめた。「彼女の未来のために、私たちは何かをしなければならない」
マリーは頷いた。「そうね。でも、何をすればいいの?」
「わからない」ルイは正直に答えた。「でも、一緒に考えよう。フランスのために、そして私たちの子供たちのために」
マリーは娘を抱きしめながら、窓の外を見た。パリの方角には、暗雲が立ち込めているように見えた。
「私たちは強くならなければいけないわ」彼女は決意を込めて言った。「これからの嵐に立ち向かうために」
ルイは妻の肩に手を置いた。二人は、不確かな未来を見つめながら、互いの存在に慰めを見出していた。
マリー・アントワネットは、自分の役割の重さを感じていた。彼女はもはや単なる王妃ではない。一人の母親であり、国家の未来を担う者でもあるのだ。
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。それは、フランスに訪れようとしている大きな変化の前触れのようだった。
第8章:革命の嵐
1789年7月14日、ヴェルサイユ宮殿
マリー・アントワネットは、宮殿の窓から遠くパリの方角を見つめていた。空には不吉な暗雲が立ち込め、遠くで雷鳴が轟いていた。
突然、扉が勢いよく開き、ルイ16世が慌てた様子で入ってきた。
「マリー!大変だ!」
マリーは夫の表情を見て、すぐに事態の深刻さを悟った。「何があったの?」
「パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃した」ルイは息を切らしながら言った。「牢獄は陥落し、看守長の首が槍に刺されて街を練り歩いているという」
マリーは息を呑んだ。「まさか…」
カンパン夫人が部屋に駆け込んできた。「陛下、王妃様、大変です!パリ中が暴動状態です!」
マリーは窓の外を見た。遠くパリの方角で、黒煙が立ち上っているのが見えた。
「子供たちは?」マリーは急に不安になって尋ねた。
「安全です」カンパン夫人が答えた。「警備を強化しました」
ルイは椅子に腰を下ろし、頭を抱えた。「どうすればいいんだ…」
マリーは夫の隣に座り、その手を取った。「ルイ、私たちは強くならなければいけないわ。フランスのために、そして子供たちのために」
ルイは妻を見つめた。その目には恐怖と決意が混ざっていた。「そうだね。でも、どうやって?」
その時、廷臣の一人が慌てて入ってきた。「陛下、パリの市民たちがヴェルサイユに向かっているという報告が!」
部屋中が凍りついたような静寂に包まれた。
マリーは立ち上がり、窓際に歩み寄った。遠くに、松明を持った人々の行列が見えた。その光は、闇夜に不気味に揺らめいていた。
「時間がないわ」マリーは振り返って言った。「今すぐに決断しなければ」
ルイは深いため息をついた。「わかった。パリに向かおう。民衆と直接対話するんだ」
マリーは夫を驚いた顔で見た。「パリに?でも、危険よ!」
「危険かもしれない」ルイは立ち上がりながら言った。「でも、これが私たちにできる唯一のことだ。逃げるわけにはいかない」
マリーは夫の決意を見て、頷いた。「一緒に行くわ」
カンパン夫人が驚いて声を上げた。「でも、王妃様!」
「私はフランスの王妃よ」マリーは毅然とした態度で言った。「民衆の前に立つのは私の義務です」
準備が急ピッチで進められる中、マリーは子供たちの部屋に向かった。マリー・テレーズとルイ・シャルル(後のルイ17世)が不安そうな顔で母親を見上げた。
「ママ、どこに行くの?」マリー・テレーズが尋ねた。
マリーは子供たちを抱きしめた。「少しの間、パリに行ってくるの。怖がらないで。すぐに戻ってくるから」
子供たちと別れ、マリーは夫の待つ馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す時、マリーは窓から振り返ってヴェルサイユ宮殿を見た。そこには、彼女の人生の喜びと苦しみがすべて詰まっていた。再びここに戻ってこられるのだろうか。
「さようなら、ヴェルサイユ」彼女は小さくつぶやいた。
馬車はパリへと向かって走り出した。マリー・アントワネットとルイ16世の運命は、今まさに大きく動き出そうとしていた。革命の嵐は、フランス王室を根底から揺るがそうとしていたのだ。
第9章:運命の時
1793年10月14日、コンシエルジュリー牢獄
薄暗い牢獄の中で、マリー・アントワネットは静かに座っていた。かつての華やかな姿はなく、簡素な白いドレスを身にまとい、髪は白く変色していた。しかし、その青い瞳には今なお威厳が宿っていた。
翌日に控えた裁判のことを考えながら、彼女は過ぎ去った日々を思い返していた。ルイの処刑、子供たちとの別れ、そして長い孤独な牢獄生活。
突然、牢獄の扉が開いた。革命裁判所の役人が入ってきた。
「シトワイエンヌ・カペー、明日の裁判の準備はできているか?」
マリーは静かに頷いた。「シトワイエンヌ・カペー」——かつてのオーストリア大公女、フランス王妃の今の呼び名だ。
「最後に何か望みはあるか?」役人は冷たく尋ねた。
マリーは少し考え、「娘のマリー・テレーズに手紙を書きたい」と答えた。
役人は渋々ながら許可し、紙とペンを渡した。
マリーは震える手で、最愛の娘への最後の言葉を綴った。
「愛する娘へ
私の心は常にあなたと共にあります。強く、勇気を持って生きていってください。
決して憎しみを抱かず、許すことを忘れないで。
永遠の愛を込めて
あなたの母より」
翌日、1793年10月15日。
裁判所は人々で溢れかえっていた。マリー・アントワネットが入場すると、怒号と罵声が飛び交った。
「オーストリアの雌狼!」「国民の血を吸った女!」
しかし、マリーは毅然とした態度を崩さなかった。
裁判が始まり、次々と罪状が読み上げられた。国家反逆罪、王室の財産の浪費、外国との謀議…そして最後に、最も卑劣な告発が投げかけられた。
「被告人は、実の息子と不適切な関係を持った」
この言葉に、マリーの表情が初めて崩れた。彼女は立ち上がり、法廷中に響き渡る声で叫んだ。
「もし私が答えないのなら、それは母である私の心が、そのような告発に対して激しく反発しているからです。自然そのものが、そのような罪を拒絶します。私は全ての母親たちに訴えます。こんな告発がありえるでしょうか?」
法廷は一瞬、静まり返った。
しかし、結果は既に決まっていた。マリー・アントワネットは、全ての罪で有罪とされ、死刑を宣告された。
1793年10月16日、朝。
マリーは最後の身支度をしていた。彼女は白いドレスを着け、首に黒いリボンを巻いた。
処刑台に向かう馬車の中で、彼女は静かに祈りを捧げていた。パリの街を通り過ぎる間、沿道には大勢の人々が集まっていた。かつては彼女に歓声を送った人々が、今は冷ややかな、あるいは憎悪の眼差しを向けている。
処刑台に到着し、マリーは毅然とした足取りで階段を上った。そして、最後に群衆を見渡した。
「さようなら、私の子供たち。私はあなたたちのパパのところに行きます」
そう言って、彼女はギロチンに首を置いた。
刃が落ちる瞬間、マリー・アントワネットの人生が走馬灯のように駆け巡った。ウィーンの宮殿、ヴェルサイユでの華やかな日々、子供たちの笑顔、そして最後に…フランスの青い空。
刃が肉を裂く音が響き、群衆からどよめきが起こった。
マリー・アントワネット、37歳。オーストリアの姫からフランスの王妃となり、そして今、その波乱の人生を終えた。
彼女の死は、一つの時代の終わりを告げるものだった。しかし、彼女の物語は、後世に長く語り継がれることとなる。
栄光と悲劇、愛と憎しみ——マリー・アントワネットの人生は、まさに「薔薇の棘」だったのだ。