第1章:幼少期の記憶
私の名前はネルソン・ロリフラフラ・マンデラ。1918年7月18日、南アフリカのクヌ村で生まれた。本当の名前はロリフラフラ・ダリブンガだが、学校に入学したときに先生がつけてくれた「ネルソン」という名前で知られるようになった。
幼い頃の記憶は、緑豊かな丘陵地帯と、赤土の道路が交差する村の風景だ。父はヘンリー・ムパカニスワ・ガディャ・マンデラ。テンブー族の首長だった。母はノサケニ・ファニー。父には4人の妻がいて、私は3番目の妻の息子だった。
私たちの村は、近代化の波からは遠く離れていた。電気も水道もなく、夜になると家族全員で火を囲んで過ごした。そんな夜、父はよく昔話をしてくれた。
「ロリフラフラ、お前はこの話をよく覚えておくんだ」と父は言った。「我々の祖先は、この土地で何世代にもわたって生きてきた。彼らの知恵と勇気を忘れてはならない」
私は父の言葉を熱心に聞いた。父の話す歴史や伝統の中に、私たちの誇りがあった。しかし、その誇りは、やがて白人たちによって踏みにじられることになるとは、当時の私には想像もつかなかった。
ある日、父と畑を歩いていたときのことを今でも鮮明に覚えている。
「ロリフラフラ、お前はこの土地を受け継ぐんだ」と父は言った。
私は興奮して跳び上がった。「本当?僕が首長になれるの?」
父は笑いながら私の頭をなでた。「そうだ。でもな、首長になるということは、ただ力を持つということじゃない。民のために生きるということだ」
その言葉は、後の人生で私が直面する多くの困難な選択の中で、常に私の心の中で響き続けた。
7歳のとき、父が亡くなった。父の死は、私の人生を大きく変えることになった。父の存在は、私たちの家族だけでなく、村全体の支えだった。父が亡くなった後、村は混乱に陥った。
私は母と共にクヌ村を離れ、母の故郷クワ・ムファカゾに移り住んだ。新しい環境に慣れるのは簡単ではなかった。言葉も少し違い、習慣も異なっていた。しかし、母の愛情と強さに支えられ、少しずつ新しい生活に馴染んでいった。
クワ・ムファカゾで、私はテンブー族の伝統や文化をより深く学んだ。長老たちの話を聞き、儀式に参加し、私たちの歴史を学んだ。同時に、白人の支配する世界との違いも、徐々に理解するようになった。
学校では、アフリカ人の子供たちは白人の子供たちとは別の教室で学んだ。私たちの教科書は古くてボロボロだったし、机も椅子も壊れかけていた。でも、そんな環境でも、私は学ぶことが大好きだった。
特に歴史の授業が好きだった。しかし、教科書に書かれている歴史と、長老たちから聞く歴史には大きな違いがあることに気づいた。教科書では、白人たちが南アフリカに「文明」をもたらしたと書かれていた。でも、長老たちの話では、白人たちの到来は侵略であり、私たちの文化や伝統を破壊するものだった。
ある日、休み時間に白人の子供たちが遊んでいるのを見ていた。彼らの新しい服や靴が羨ましかった。
「なんで僕たちは違う教室なの?」と、私は隣にいた友人のシポに聞いた。
シポは肩をすくめた。「白人が偉いからだって」
「でも、それっておかしくない?」
「そうだけど、しょうがないよ。ここじゃ、白人が全部決めるんだから」
その日から、私の心の中に小さな疑問が芽生え始めた。この不平等は本当に「しょうがない」ことなのだろうか?
その疑問は、やがて私の人生を大きく変えることになる。しかし、当時の私には、自分がこの国の歴史を変える役割を担うことになるとは、想像もつかなかった。
第2章:若き日の反抗
1939年、私は19歳でフォート・ヘア大学に入学した。フォート・ヘアは、当時アフリカ人が入学できる数少ない高等教育機関の一つだった。ここで私は、初めて本格的に政治活動に触れることになった。
大学では、アフリカ人学生も白人学生と同じ教室で学べたが、食堂や寮は分けられていた。私たちの食事は質素で、寮は狭くて古かった。一方、白人学生の施設は新しく、快適だった。
この差別的な扱いに、私は強い憤りを感じた。しかし、多くの学生たちは、それを当たり前のことと受け入れていた。
ある日、私は友人のオリバー・タンボと食堂で話していた。オリバーは私と同じく法学を学んでいた学生で、後に私の親友となり、反アパルトヘイト運動の同志となる人物だ。
「ネルソン、この状況はおかしいと思わないか?」とオリバーが言った。
「ああ、でも変えられるとは思えない」と私は答えた。
オリバーは目を輝かせて言った。「いや、変えられるんだ。僕たちが声を上げれば」
その言葉に、私の心に火がついた。私たちは学生自治会を組織し、食事の質の改善や寮の設備の向上を要求するストライキを計画した。
準備は慎重に進めた。夜遅くまで議論を重ね、戦略を練った。私たちの要求は決して過大なものではなかった。ただ、白人学生と同じ質の食事と、清潔で快適な寮を求めただけだ。
しかし、大学当局はストライキを認めなかった。彼らは、私たちの要求を「分をわきまえない」ものとして却下した。
ストライキの当日、私たちは食堂の前に集まった。数百人の学生が参加し、静かに、しかし毅然とした態度で抗議を行った。
しかし、大学当局の対応は予想以上に厳しかった。警察が呼ばれ、多くの学生が逮捕された。私も逮捕され、一晩留置場で過ごした。
翌日、私たちは退学を迫られた。
「マンデラ君、君は優秀な学生だ。この愚かな行動をやめれば、大学に残れる」と学長は言った。
私は迷った。大学を卒業することは、アフリカ人にとって大きなチャンスだった。法律家になるという夢も、ここで諦めなければならないかもしれない。
しかし、父の言葉が頭をよぎった。「民のために生きる」。今、ここで妥協すれば、自分の信念を裏切ることになる。
深呼吸をして、私は答えた。「申し訳ありません。でも、私たちの要求は正当です。退学されても構いません」
こうして、私は大学を去ることになった。この経験は、私に大きな教訓を与えた。正義のために立ち上がることの重要性と、そのために払わなければならない代償を学んだのだ。
同時に、この経験は私の政治意識を大きく高めた。単なる学生の権利を超えて、社会全体の不平等と闘う必要性を感じるようになった。
大学を追われた後、私はしばらく途方に暮れた。しかし、この挫折が、逆に私の決意を強めることになった。いつか必ず、この不公平な社会を変えてみせる。そう心に誓ったのだ。
第3章:ヨハネスブルグでの新たな人生
大学を追われた私は、故郷に戻ることを恥じ、1941年にヨハネスブルグへ逃げるように移り住んだ。大都市の喧騒は、田舎育ちの私には圧倒的だった。
ヨハネスブルグは、南アフリカの経済の中心地だった。高層ビルが立ち並び、車が行き交う街の風景は、私にとって別世界のようだった。しかし、その華やかな表面の下に、深刻な人種差別が潜んでいることにすぐに気づいた。
街は人種によって厳密に区分けされていた。白人は豊かな郊外に住み、黒人は貧しいタウンシップに押し込められていた。バスや公園、レストランなど、あらゆる公共の場所が人種によって分けられていた。
ヨハネスブルグでの最初の仕事は、鉱山の警備員だった。そこで私は、アパルトヘイト体制の残酷さを目の当たりにした。
鉱山で働く黒人労働者たちの状況は悲惨だった。彼らは狭い寮に詰め込まれ、家族と離れて暮らしていた。労働条件は過酷で、安全対策も不十分だった。事故や病気で命を落とす労働者も少なくなかった。
彼らの給料は白人労働者の10分の1以下だった。それでも、彼らは家族を養うために必死で働いていた。
ある日、私は鉱山で働く若い男性、ムジと知り合った。ムジは東ケープから出稼ぎに来ていた。彼の目は疲れきっていたが、それでも故郷の家族のことを語るときは輝いていた。
「マンデラさん、私たちはいつまでこんな扱いを受けなければならないんでしょうか」とムジは涙ぐみながら言った。
「変わるさ、必ず」と私は答えた。でも、心の中では自信がなかった。
その夜、私は眠れなかった。ムジの言葉が頭から離れなかった。私には何ができるのだろうか?法律を学び、人々の権利のために戦うべきではないか?
翌日、私は決心した。法律を学び、人々の権利のために戦おうと思った。しかし、それは簡単な道のりではなかった。
アフリカ人が法律事務所で働くことは非常に稀だった。多くの事務所は、アフリカ人を雇うことを拒否した。やっとの思いで見つけた仕事は、白人弁護士の事務員だった。
昼間は事務所で働き、夜は勉強した。時には一日に数時間しか眠れないこともあった。しかし、私の決意は揺るがなかった。
1943年、私はついにウィットウォーターズランド大学で法学の勉強を始めることができた。そこで私は、アフリカ民族会議(ANC)の若者部門に加わった。
ANCでの活動を通じて、私は多くの志を同じくする仲間たちと出会った。その中でも、ウォルター・シスルとの出会いは特に重要だった。
ウォルターは、私より少し年上で、すでにANCの中心的な活動家だった。彼の冷静な分析力と戦略的思考に、私は深く感銘を受けた。
ある日、私たちはANCの集会後に話をしていた。
「ネルソン、我々の闘いは長く、困難なものになるだろう」とウォルターは言った。「でも、諦めてはいけない。我々の子供たちのために、この国を変えなければならないんだ」
ウォルターの言葉に、私は強く共感した。そして、この闘いに人生を捧げる覚悟を決めたのだ。
しかし、その覚悟は、私の個人的な人生にも大きな影響を与えることになる。活動に没頭するあまり、家族との時間は限られていった。それは、後に大きな代償を払うことになるのだが、当時の私には、それが唯一の道だと思えたのだ。
第4章:結婚と政治活動の激化
1944年、私はエブリン・マセを妻に迎えた。エブリンは私の政治活動を理解し、支持してくれた。彼女自身も、アパルトヘイトに反対する活動家だった。
結婚式は、アフリカの伝統的な儀式と、キリスト教の式を組み合わせて行われた。多くの友人や同志たちが祝福してくれた。その日は、私たちの闘いの中で、稀に見る幸せな日だった。
しかし、私たちの結婚生活は決して平坦ではなかった。私の政治活動は次第に激しさを増していった。家にいる時間は限られ、常に警察の監視下にあった。
エブリンは強い女性だった。彼女は自身の仕事を持ちながら、子供たちの世話をし、私の活動も支えてくれた。しかし、私が不在の間、彼女が感じていた孤独や不安を、当時の私は十分に理解できていなかった。
1952年、私たちはANCの「不服従運動」を開始した。これは、人種差別的な法律に従わないという平和的な抵抗運動だった。
ある日、私たちは「白人専用」の郵便局に入り、切手を買おうとした。
「黒人の方々は裏口からお願いします」と係員は冷たく言った。
「いいえ、私たちはここで切手を買います」と私は静かに、しかし毅然と答えた。
警察が呼ばれ、私たちは逮捕された。牢屋の中で、私は仲間たちと話し合った。
「これでいいのか?家族を置いて、こんなところにいていいのか?」と、若い活動家のトムが不安そうに言った。
私は深く息を吸い、答えた。「トム、我々の闘いは自分たちのためだけじゃない。未来の世代のためなんだ。今の苦しみは、きっと報われる」
しかし、私の心の中にも不安があった。エブリンと子供たちのことを考えると胸が痛んだ。でも、この闘いを止めるわけにはいかなかった。
不服従運動は、多くの人々の共感を得た。しかし、政府の弾圧も厳しさを増していった。多くの活動家が逮捕され、ANCの活動は制限されていった。
1956年、私を含む156人のANC指導者が反逆罪で逮捕された。これは「反逆罪裁判」として知られることになる。
裁判は4年間続いた。その間、私たちは何度も拘束と釈放を繰り返した。裁判所に通う日々の中で、私は法廷で自分たちの主張を堂々と述べる機会を得た。
「我々の要求は単純です」と私は法廷で述べた。「すべての南アフリカ人が平等に扱われ、尊厳を持って生きる権利を求めているだけです」
最終的に、私たち全員が無罪となった。これは大きな勝利だった。しかし、この経験は私たちに大きな代償を払わせた。
長期の裁判で、私は家族との時間をほとんど持てなかった。エブリンとの関係は悪化の一途をたどった。彼女は私の不在を嘆き、子供たちも父親の顔をほとんど知らなかった。
1958年、私たちは離婚した。それは私の人生で最も辛い決断の一つだった。エブリンとの別れは、私の心に大きな傷を残した。しかし、私は闘いを止めるわけにはいかなかった。南アフリカの未来がかかっていたのだから。
離婚後、私はさらに活動に没頭した。しかし、家族を失った痛みは、常に私の心の奥底にあった。それは、後の人生で私が学ぶ重要な教訓となる。個人の幸せと大義のために闘うことの間で、どうバランスを取るべきか。その答えを見つけるのに、私は長い年月を要することになる。
第5章:地下活動と逮捕
1960年3月21日、シャープビルの虐殺事件が起きた。パス法(黒人の移動を制限する法律)に抗議する平和的なデモ隊に警察が発砲し、69人が死亡、180人以上が負傷した。この事件は、南アフリカの歴史の転換点となった。
私はその日、ヨハネスブルグにいた。ニュースを聞いたとき、言葉を失った。怒りと悲しみが込み上げてきた。なぜ、平和的なデモに対してこんな残虐な行為が行われるのか。
この事件を機に、ANCは非合法化され、私たちは地下活動を余儀なくされた。平和的な抵抗では、もはや政府を動かすことはできないと感じた私たちは、新たな戦略を模索し始めた。
長い議論の末、私は「国民の槍」という武装組織を立ち上げることを決意した。これは、ANCの軍事部門となる組織だった。
暴力的な手段を取ることは、私にとって非常に苦しい決断だった。ガンジーの非暴力主義に深く影響を受けていた私にとって、武力の行使は最後の手段だった。しかし、政府の暴力に対して、もはや非暴力では対抗できないと感じたのだ。
ある夜、秘密の会合で、私は仲間たちに語りかけた。
「諸君、我々は新たな段階に入った。非暴力の時代は終わりだ。しかし、決して無差別な暴力を認めてはならない。我々の目的は、人々を守ることだ」
その言葉に、若い活動家のズマが反論した。「でも、マンデラさん。暴力は暴力を生むだけじゃないですか?」
私は深く息を吸い、答えた。「ズマ、君の気持ちはよくわかる。私も暴力は好きじゃない。でも、今の政府は我々の声に耳を貸さない。時には、戦わなければならないこともあるんだ」
「国民の槍」の活動は、主に政府の施設や軍事施設を対象とした爆破活動だった。人命を奪うことは極力避けた。しかし、それでも時には犠牲者が出ることもあった。そのたびに、私の心は重くなった。
地下活動の日々は、常に緊張の連続だった。警察の追跡を逃れるため、私たちは頻繁に隠れ家を変えた。家族や友人とも会えず、孤独と恐怖と闘う日々が続いた。
1962年8月5日、私はピーターマリッツバーグ近郊で逮捕された。私は変装して車を運転していたが、警察の検問で見破られてしまった。
逮捕された瞬間、私は奇妙な安堵感を覚えた。逃亡生活の緊張から解放されたからだ。しかし同時に、これから長い獄中生活が始まることも覚悟していた。
裁判で、私は自らの信念を堂々と語った。
「私は、人種差別のない民主的で自由な社会を理想としています。それは、私が生きているうちに実現できることを望んでいます。しかし、必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟もあります」
法廷は静まり返った。私の言葉は、多くの人々の心に響いたようだった。しかし、判決は厳しいものだった。
1964年6月12日、私は終身刑を言い渡された。裁判長が判決を読み上げる間、私は静かに立っていた。法廷には緊張が漂っていたが、私の心は奇妙なほど落ち着いていた。
判決後、私は仲間たちに向かって拳を上げ、「アマンドラ!(力を人民に!)」と叫んだ。それは、闘いはまだ終わっていないというメッセージだった。
こうして、27年間の長い獄中生活が始まった。その時の私には、この獄中生活が、南アフリカの歴史を変える重要な時期になるとは想像もつかなかった。
第6章:ロベン島での日々
ロベン島刑務所での生活は、想像を絶するほど過酷だった。島は喜望峰の沖合いにあり、冷たい海風が吹きすさぶ厳しい環境だった。
私たちは狭い独房に押し込められ、一日の大半を重労働に費やした。食事は粗末で、医療も不十分だった。しかし、最も辛かったのは、外部との接触がほとんど断たれていたことだ。
毎日、私たちは石切り場で働かされた。灼熱の太陽の下、重い石を砕き続ける作業は、体力的にも精神的にも極限だった。手には厚い硬い皮ができ、目は石の粉で痛んだ。
ある日、若い囚人のシプホが倒れた。彼は数日前から熱があったが、医務室に行くことを許されなかった。看守が彼を蹴ろうとしたとき、私は思わず叫んでいた。
「やめろ!彼は人間だ!」
看守は私を睨みつけ、鞭で背中を打った。痛みで目の前が真っ白になったが、私は歯を食いしばった。
「マンデラ、お前はまだ分かっていないようだな。ここでは、お前たちは人間じゃない」と看守は冷笑した。
その夜、独房で私は考えた。彼らは私たちの尊厳を奪おうとしている。でも、それは許すわけにはいかない。私たちの魂まで奪われてはならない。
翌日から、私は囚人たちに語りかけ始めた。労働の合間、食事の時間、どんな短い時間でも利用して、彼らを励ました。
「彼らは私たちの体は縛れても、心まで縛ることはできない。私たちの尊厳を守ろう」
最初は、多くの囚人たちが疑心暗鬼だった。しかし、少しずつ、彼らの目に光が戻ってきた。私たちは密かに勉強会を開き、お互いを励まし合った。
文字の読めない囚人たちに、こっそりと読み書きを教えた。政治や歴史について議論し、将来の南アフリカについて語り合った。石切り場は、私たちの大学となった。
ある日、新しく来た看守が私に尋ねた。
「マンデラ、なぜお前たちはそんなに強いんだ?」
私は静かに答えた。「私たちには希望があるからだ。いつかこの国が変わると信じているんだ」
その看守は何も言わなかったが、その後、彼の態度は少し柔らかくなった。
獄中生活は長く、辛いものだった。家族や友人たちとの接触は厳しく制限され、外の世界の情報もほとんど入ってこなかった。しかし、それは同時に私を鍛え、私の信念を強くした時間でもあった。
獄中で、私は多くの本を読んだ。シェイクスピアやトルストイ、そしてマルクスやレーニンの著作も読んだ。それらの本は、私の世界観を広げ、思考を深めてくれた。
また、瞑想を始めたのもこの時期だ。静かに自分と向き合う時間は、私に内なる平和をもたらした。怒りや憎しみを手放し、赦しの心を育むことができた。
27年の獄中生活は、私を変えた。若い頃の怒りっぽく、せっかちだった私は、より忍耐強く、思慮深い人間になった。そして、敵対する者たちとも対話し、和解する重要性を学んだ。
この経験は、後に南アフリカの和解プロセスで大きな役割を果たすことになる。
第7章:自由への道
1990年2月11日、私は27年ぶりに自由の身となった。刑務所の門を出たとき、何万人もの人々が私を迎えてくれた。その光景は、今でも鮮明に覚えている。
人々は歓声を上げ、踊り、歌っていた。南アフリカの国旗と並んで、ANCの旗も翻っていた。27年前には想像もできなかった光景だった。
しかし、自由を得た喜びと同時に、大きな責任も感じた。南アフリカはまだ人種差別に苦しんでいた。そして、私に期待を寄せる人々の目があった。
釈放後、私はすぐにANCの副議長に就任し、デクラーク大統領との交渉を始めた。それは困難な道のりだった。
交渉のテーブルにつくまでの道のりも平坦ではなかった。釈放直後、私は全国を回り、人々に語りかけた。
ある集会で、若い活動家が叫んだ。「マンデラ同志!我々は武器を取る準備ができています。命令してください!」
会場は興奮の渦に包まれた。しかし、私は静かに答えた。
「若者よ、君たちの情熱はよくわかる。しかし、今は武器を置く時だ。我々の武器は言葉であり、交渉だ」
多くの人々は失望した様子だった。しかし、私は信じていた。暴力の連鎖を断ち切り、対話を通じて問題を解決する必要があると。
デクラーク大統領との交渉は、時に激しい対立を伴った。ある日の交渉で、デクラーク大統領が言った。
「マンデラ氏、あなたの要求は行き過ぎています。白人たちは恐れているのです」
私は静かに、しかし強く答えた。
「大統領、恐れているのは白人だけではありません。黒人も恐れています。しかし、我々は恐れを乗り越えなければならない。そうでなければ、この国に未来はありません」
交渉は何度も行き詰まった。時には暴力が再燃し、多くの命が失われた。1993年4月には、ANCの有力指導者クリス・ハニが暗殺された。国中が再び内戦の危機に瀕した。
その時、私はテレビを通じて国民に呼びかけた。
「同胞たちよ、今こそ冷静さを保つ時です。暴力は暴力を生むだけです。我々は平和的な方法で、この危機を乗り越えなければなりません」
多くの人々が私の呼びかけに応じ、最悪の事態は避けられた。しかし、交渉はさらに困難になった。
それでも、私たちは諦めなかった。何度も何度も話し合いを重ね、少しずつ合意点を見出していった。
そして、ついに1994年4月27日、南アフリカで初めての全人種参加の総選挙が行われた。私は長い列に並ぶ人々を見て、涙が止まらなかった。
投票所で、80歳を超える老婆が私に話しかけてきた。
「マデイバ(私の氏族名)、ついにこの日が来ましたね」
「ああ、みんなで勝ち取った日だ」と私は答えた。
彼女の目に涙が光っていた。その涙は、長年の苦しみと、ようやく訪れた希望の象徴のように思えた。
選挙の結果、ANCが勝利し、私は南アフリカ初の黒人大統領となった。
1994年5月10日、私は大統領就任宣誓を行った。その日、かつての敵対者たちも含め、世界中の指導者たちが参列した。
就任式の日、私は群衆の前でこう宣言した。
「二度と、この美しい国が人種差別と抑圧を経験することがないように。自由のために我々は解放された。我々全員に対する自由を約束しよう」
その瞬間、私は27年前に独房で誓った言葉を思い出していた。長い闘いの末、ついにその日が来たのだ。しかし、これは終わりではなく、新たな始まりだった。真の和解と平等な社会の実現に向けて、さらなる挑戦が待っていた。
第8章:大統領としての挑戦
大統領就任後、私は「虹の国」と呼ばれる新しい南アフリカの建設に取り組んだ。しかし、長年の人種差別の傷跡は深く、課題は山積みだった。
最も難しかったのは、過去の和解をどう進めるかということだった。多くの黒人たちは、アパルトヘイト時代の加害者たちを裁きたいと思っていた。一方で、白人たちは報復を恐れていた。
ある日、アパルトヘイト時代に息子を殺された黒人女性が私のオフィスを訪れた。彼女の名前はノムザモ・マディキゼラさんだった。
「大統領、なぜ私たちの敵を許さなければならないのですか?」と彼女は涙ながらに訴えた。「私の息子は何の罪もないのに殺されました。その犯人たちは今も自由に生きています。これが正義なのですか?」
私は彼女の手を取り、静かに語りかけた。
「ノムザモさん、あなたの痛みはよくわかります。私も長年、愛する人々から引き離されました。でも、憎しみの連鎖を断ち切らなければ、この国に未来はありません。許すことは弱さではなく、強さなのです」
ノムザモさんは黙って涙を流していた。私は続けた。
「あなたの息子の命を返すことはできません。しかし、私たちは彼の死を無駄にしないよう、新しい南アフリカを作らなければならないのです」
この会話は、私に大きな影響を与えた。個人の痛みと国家の和解をどう両立させるか。それは、私の大統領としての最大の課題の一つとなった。
そして、私は「真実和解委員会」を設立した。これは、アパルトヘイト時代の人権侵害について真実を明らかにし、被害者と加害者の和解を目指すものだった。
委員会の議長には、デズモンド・ツツ大主教を任命した。ツツ大主教の温厚な人柄と強い正義感は、この困難な任務に最適だと考えたからだ。
委員会の公聴会では、多くの悲惨な証言が行われた。時には、会場が怒りと悲しみで満ちることもあった。
ある日の公聴会で、アパルトヘイト時代の警察官が証言台に立った。彼は、黒人活動家を拷問し、殺害したことを認めた。
被害者の家族たちは激怒した。「殺人者を許すことなどできない!」と叫ぶ声が上がった。
その時、ツツ大主教が静かに語りかけた。
「皆さん、憎しみは憎しみしか生みません。私たちは赦しを通じて、新しい国を作らなければならないのです」
会場は静まり返った。そして、驚くべきことに、被害者の一人が立ち上がり、こう言ったのだ。
「あなたを許します。でも、二度とこのようなことが起こらないよう、全ての真実を話してください」
この瞬間、私は和解の可能性を強く感じた。それは困難な道のりだが、不可能ではないのだと。
経済面でも大きな課題があった。長年の差別政策により、黒人の多くが貧困に苦しんでいた。教育や医療、住宅など、基本的なサービスが不足していた。
「マンデラ大統領、なぜ白人から土地を取り上げて、我々に分配しないのですか?」と、ある集会で若者が叫んだ。
私は答えた。「復讐ではなく、共生を目指すのだ。白人も黒人も、この国の未来を共に作っていかなければならない」
そして、私は「復興開発計画」を立ち上げた。これは、住宅建設、電化、水道整備など、基本的なインフラの整備を目指すものだった。
また、教育にも力を入れた。アパルトヘイト時代、黒人の子供たちは質の低い教育しか受けられなかった。私は、すべての子供たちに平等な教育の機会を提供することを目指した。
しかし、これらの政策を実行するのは容易ではなかった。財政的な制約や、官僚機構の非効率性など、多くの障害があった。
私の政策に不満を持つ人々もいた。急進的な変革を求める声がある一方で、穏健な改革を望む声もあった。それらのバランスを取るのは、常に難しい課題だった。
1999年、私は大統領を退任した。5年間の任期は、瞬く間に過ぎ去った。完璧な国を作ることはできなかったが、和解と民主主義への道筋をつけることはできたと思う。
退任式で、私はこう述べた。
「私は、皆さんの僕として最善を尽くしてきました。今、私は休息に入ります。しかし、新しい南アフリカを作る闘いは、まだ終わっていません。それは、皆さん一人一人の手に委ねられています」
大統領としての5年間は、私の人生で最も挑戦的で、同時に最もやりがいのある時期だった。そして、この経験を通じて、私は重要な教訓を学んだ。
リーダーシップとは、人々を導くことだけでなく、人々の声に耳を傾けることでもある。そして、真の変革は、一夜にして成し遂げられるものではなく、忍耐強い努力と対話の積み重ねによってのみ達成されるのだと。
第9章:引退後の人生と遺産
大統領を退任した後も、私は様々な社会問題に取り組み続けた。特に、HIV/エイズ問題には力を入れた。
南アフリカは、世界で最もHIV感染率の高い国の一つだった。しかし、多くの人々がこの病気を恥じ、隠そうとしていた。
2005年、私の息子マカジウェがエイズで亡くなった。その知らせを聞いたとき、私は深い悲しみに包まれた。しかし同時に、この問題に対してより積極的に取り組まなければならないという決意も固まった。
マカジウェの葬儀で、私は公の場でエイズについて語った。
「私の息子は、エイズで亡くなりました。彼の死を無駄にしないためにも、我々はこの病気と闘わなければなりません。エイズは恥ずべき病気ではありません。私たちは偏見と闘い、患者を支援しなければなりません」
この発言は、南アフリカ社会に大きな衝撃を与えた。多くの人々が、初めてエイズについて公然と語り始めた。
私の言葉に、多くの人々が勇気づけられた。エイズ患者への差別は少しずつ減っていった。また、予防や治療に関する啓発活動も活発になった。
しかし、課題はまだ多く残されていた。特に、貧困層へのHIV治療薬の提供は大きな問題だった。製薬会社は高額な薬価を主張し、多くの患者が治療を受けられない状況が続いていた。
私は、国際的なキャンペーンを展開し、製薬会社に価格引き下げを求めた。また、各国政府にも支援を呼びかけた。
ある国際会議で、私はこう訴えた。
「エイズとの闘いは、人類全体の闘いです。貧しい国々の人々が治療を受けられないのは、人道に反します。我々は、利益よりも人命を優先すべきです」
この呼びかけは多くの人々の共感を呼び、徐々に状況は改善されていった。
晩年、私の健康は徐々に衰えていった。しかし、私の闘志は衰えることはなかった。
私は、若い世代に語りかけ続けた。彼らこそが、南アフリカの、そして世界の未来を担うからだ。
ある大学での講演で、私はこう述べた。
「若者たちよ、君たちには世界を変える力がある。しかし、それは簡単なことではない。忍耐強く、勇気を持って、そして何よりも愛を持って行動しなさい」
2013年12月5日、私は95歳でこの世を去った。
私の人生を振り返ると、多くの苦難があった。27年の獄中生活、家族との別離、そして国家の指導者としての重責。
しかし、それ以上に喜びもあった。アパルトヘイトの終結、民主的な南アフリカの誕生、そして世界中の人々との出会い。
私は、人々の心の中に希望の種を植えることができたと信じている。人種や民族、宗教の違いを超えて、人々が互いを尊重し合える世界。それは、決して夢物語ではない。
南アフリカは今も多くの問題を抱えている。貧困、不平等、犯罪、そして汚職。これらの問題を一朝一夕に解決することはできない。
しかし、私は信じている。人々が団結し、互いを尊重し合えば、どんな困難も乗り越えられると。
私の闘いは終わった。しかし、正義と平等のための闘いは、これからも続いていく。次の世代が、より良い世界を作ってくれることを願っている。
そして最後に、私がずっと大切にしてきた言葉を残したい。
「誰も生まれながらにして他人を憎むことはない。人々は憎しみを学ぶのであり、愛を学ぶこともできる。愛は人間の心にとって、憎しみよりもずっと自然なものなのだ」
これが、私ネルソン・マンデラの人生の教訓であり、遺言である。
(了)