第1章:幼少期の記憶
私の名前はネルソン・ロリフラフラ・マンデラ。1918年7月18日、南アフリカのクヌ村で生まれた。本当の名前はロリフラフラ・ダリブンガだが、学校に入学したときに先生がつけてくれた「ネルソン」という名前で知られるようになった。
幼い頃の記憶は、緑豊かな丘陵地帯と、赤土の道路が交差する村の風景だ。父はヘンリー・ムパカニスワ・ガディャ・マンデラ。テンブー族の首長だった。母はノサケニ・ファニー。父には4人の妻がいて、私は3番目の妻の息子だった。
ある日、父と畑を歩いていたときのことを今でも鮮明に覚えている。
「ロリフラフラ、お前はこの土地を受け継ぐんだ」と父は言った。
私は興奮して跳び上がった。「本当?僕が首長になれるの?」
父は笑いながら私の頭をなでた。「そうだ。でもな、首長になるということは、ただ力を持つということじゃない。民のために生きるということだ」
その言葉は、後の人生で私が直面する多くの困難な選択の中で、常に私の心の中で響き続けた。
7歳のとき、父が亡くなった。私は母と共にクヌ村を離れ、母の故郷クワ・ムファカゾに移り住んだ。そこで私は、テンブー族の伝統や文化、そして白人の支配する世界との違いを学んでいった。
学校では、アフリカ人の子供たちは白人の子供たちとは別の教室で学んだ。私たちの教科書は古くてボロボロだったし、机も椅子も壊れかけていた。でも、そんな環境でも、私は学ぶことが大好きだった。
ある日、休み時間に白人の子供たちが遊んでいるのを見ていた。彼らの新しい服や靴が羨ましかった。
「なんで僕たちは違う教室なの?」と、私は隣にいた友人のシポに聞いた。
シポは肩をすくめた。「白人が偉いからだって」
「でも、それっておかしくない?」
「そうだけど、しょうがないよ。ここじゃ、白人が全部決めるんだから」
その日から、私の心の中に小さな疑問が芽生え始めた。この不平等は本当に「しょうがない」ことなのだろうか?
第2章:若き日の反抗
1939年、私は19歳でフォート・ヘア大学に入学した。そこで私は、初めて本格的に政治活動に触れることになった。
大学では、アフリカ人学生も白人学生と同じ教室で学べたが、食堂や寮は分けられていた。私たちの食事は質素で、寮は狭くて古かった。
ある日、私は友人のオリバー・タンボと食堂で話していた。
「ネルソン、この状況はおかしいと思わないか?」とオリバーが言った。
「ああ、でも変えられるとは思えない」と私は答えた。
オリバーは目を輝かせて言った。「いや、変えられるんだ。僕たちが声を上げれば」
その言葉に、私の心に火がついた。私たちは学生自治会を組織し、食事の質の改善や寮の設備の向上を要求するストライキを計画した。
しかし、大学当局はストライキを認めなかった。私たちは退学を迫られた。
「マンデラ君、君は優秀な学生だ。この愚かな行動をやめれば、大学に残れる」と学長は言った。
私は迷った。大学を卒業することは、アフリカ人にとって大きなチャンスだった。でも、不正に目をつぶることは、父の教えに反する。
「申し訳ありません。でも、私たちの要求は正当です。退学されても構いません」
こうして、私は大学を去ることになった。この経験は、私に大きな教訓を与えた。正義のために立ち上がることの重要性と、そのために払わなければならない代償を学んだのだ。
第3章:ヨハネスブルグでの新たな人生
大学を追われた私は、故郷に戻ることを恥じ、1941年にヨハネスブルグへ逃げるように移り住んだ。大都市の喧騒は、田舎育ちの私には圧倒的だった。
ヨハネスブルグでの最初の仕事は、鉱山の警備員だった。そこで私は、アパルトヘイト体制の残酷さを目の当たりにした。
黒人労働者たちは、狭い寮に詰め込まれ、家族と離れて暮らしていた。彼らの給料は白人労働者の10分の1以下だった。
ある日、私は鉱山で働く若い男性、ムジと知り合った。
「マンデラさん、私たちはいつまでこんな扱いを受けなければならないんでしょうか」とムジは涙ぐみながら言った。
「変わるさ、必ず」と私は答えた。でも、心の中では自信がなかった。
その夜、私は眠れなかった。ムジの言葉が頭から離れなかった。私には何ができるのだろうか?
翌日、私は決心した。法律を学び、人々の権利のために戦おうと思った。
1943年、私はウィットウォーターズランド大学で法学の勉強を始めた。そこで私は、アフリカ民族会議(ANC)の若者部門に加わった。
ANCでの活動を通じて、私は多くの志を同じくする仲間たちと出会った。その中でも、ウォルター・シスルとの出会いは特に重要だった。
「ネルソン、我々の闘いは長く、困難なものになるだろう」とウォルターは言った。「でも、諦めてはいけない。我々の子供たちのために、この国を変えなければならないんだ」
ウォルターの言葉に、私は強く共感した。そして、この闘いに人生を捧げる覚悟を決めたのだ。
第4章:結婚と政治活動の激化
1944年、私はエブリン・マセを妻に迎えた。エブリンは私の政治活動を理解し、支持してくれた。しかし、私たちの結婚生活は決して平坦ではなかった。
私の政治活動は次第に激しさを増していった。1952年、私たちはANCの「不服従運動」を開始した。これは、人種差別的な法律に従わないという平和的な抵抗運動だった。
ある日、私たちは「白人専用」の郵便局に入り、切手を買おうとした。
「黒人の方々は裏口からお願いします」と係員は冷たく言った。
「いいえ、私たちはここで切手を買います」と私は静かに、しかし毅然と答えた。
警察が呼ばれ、私たちは逮捕された。牢屋の中で、私は仲間たちと話し合った。
「これでいいのか?家族を置いて、こんなところにいていいのか?」と、若い活動家のトムが不安そうに言った。
私は深く息を吸い、答えた。「トム、我々の闘いは自分たちのためだけじゃない。未来の世代のためなんだ。今の苦しみは、きっと報われる」
しかし、私の心の中にも不安があった。エブリンと子供たちのことを考えると胸が痛んだ。でも、この闘いを止めるわけにはいかなかった。
1956年、私を含む156人のANC指導者が反逆罪で逮捕された。裁判は4年間続き、最終的に全員無罪となった。しかし、この経験は私たちに大きな代償を払わせた。
エブリンとの関係は悪化の一途をたどった。彼女は私の不在を嘆き、子供たちも父親の顔をほとんど知らなかった。
1958年、私たちは離婚した。それは私の人生で最も辛い決断の一つだった。しかし、私は闘いを止めるわけにはいかなかった。南アフリカの未来がかかっていたのだから。
第5章:地下活動と逮捕
1960年、シャープビルの虐殺事件が起きた。警察が平和的なデモ隊に発砲し、69人が死亡した。この事件を機に、ANCは非合法化され、私たちは地下活動を余儀なくされた。
私は「国民の槍」という武装組織を立ち上げた。暴力的な手段を取ることは、私にとって非常に苦しい決断だった。しかし、政府の暴力に対して、もはや非暴力では対抗できないと感じたのだ。
ある夜、秘密の会合で、私は仲間たちに語りかけた。
「諸君、我々は新たな段階に入った。非暴力の時代は終わりだ。しかし、決して無差別な暴力を認めてはならない。我々の目的は、人々を守ることだ」
その言葉に、若い活動家のズマが反論した。「でも、マンデラさん。暴力は暴力を生むだけじゃないですか?」
私は深く息を吸い、答えた。「ズマ、君の気持ちはよくわかる。私も暴力は好きじゃない。でも、今の政府は我々の声に耳を貸さない。時には、戦わなければならないこともあるんだ」
1962年8月、私は逮捕された。裁判で、私は自らの信念を堂々と語った。
「私は、人種差別のない民主的で自由な社会を理想としています。それは、私が生きているうちに実現できることを望んでいます。しかし、必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟もあります」
1964年、私は終身刑を言い渡された。27年間の長い獄中生活が始まったのだ。
第6章:ロベン島での日々
ロベン島刑務所での生活は、想像を絶するほど過酷だった。狭い独房、重労働、そして看守たちの容赦ない暴力。しかし、私はここでも闘い続けた。
毎日、私たちは石切り場で働かされた。灼熱の太陽の下、重い石を砕き続ける作業は、体力的にも精神的にも極限だった。
ある日、若い囚人のシプホが倒れた。看守が彼を蹴ろうとしたとき、私は思わず叫んでいた。
「やめろ!彼は人間だ!」
看守は私を睨みつけ、鞭で背中を打った。痛みで目の前が真っ白になったが、私は歯を食いしばった。
「マンデラ、お前はまだ分かっていないようだな。ここでは、お前たちは人間じゃない」と看守は冷笑した。
その夜、独房で私は考えた。彼らは私たちの尊厳を奪おうとしている。でも、それは許すわけにはいかない。
翌日から、私は囚人たちに語りかけ始めた。
「彼らは私たちの体は縛れても、心まで縛ることはできない。私たちの尊厳を守ろう」
少しずつ、囚人たちの目に光が戻ってきた。私たちは密かに勉強会を開き、お互いを励まし合った。
看守たちは私たちの変化に気づき、さらに厳しい扱いをしてきた。しかし、私たちの団結は強くなるばかりだった。
ある日、新しく来た看守が私に尋ねた。
「マンデラ、なぜお前たちはそんなに強いんだ?」
私は静かに答えた。「私たちには希望があるからだ。いつかこの国が変わると信じているんだ」
その看守は何も言わなかったが、その後、彼の態度は少し柔らかくなった。
獄中生活は長く、辛いものだった。しかし、それは同時に私を鍛え、私の信念を強くした時間でもあった。
第7章:自由への道
1990年2月11日、私は27年ぶりに自由の身となった。刑務所の門を出たとき、何万人もの人々が私を迎えてくれた。その光景は、今でも鮮明に覚えている。
しかし、自由を得た喜びと同時に、大きな責任も感じた。南アフリカはまだ人種差別に苦しんでいた。そして、私に期待を寄せる人々の目があった。
釈放後、私はすぐにANCの副議長に就任し、デクラーク大統領との交渉を始めた。それは困難な道のりだった。
ある日の交渉で、デクラーク大統領が言った。
「マンデラ氏、あなたの要求は行き過ぎています。白人たちは恐れているのです」
私は静かに、しかし強く答えた。
「大統領、恐れているのは白人だけではありません。黒人も恐れています。しかし、我々は恐れを乗り越えなければならない。そうでなければ、この国に未来はありません」
交渉は何度も行き詰まった。時には暴力が再燃し、多くの命が失われた。しかし、私は諦めなかった。
1994年4月27日、ついに南アフリカで初めての全人種参加の総選挙が行われた。私は長い列に並ぶ人々を見て、涙が止まらなかった。
「マデイバ(私の氏族名)、ついにこの日が来ましたね」と、隣に並んでいた老婆が言った。
「ああ、みんなで勝ち取った日だ」と私は答えた。
選挙の結果、ANCが勝利し、私は南アフリカ初の黒人大統領となった。
就任式の日、私は群衆の前でこう宣言した。
「二度と、この美しい国が人種差別と抑圧を経験することがないように。自由のために我々は解放された。我々全員に対する自由を約束しよう」
第8章:大統領としての挑戦
大統領就任後、私は「虹の国」と呼ばれる新しい南アフリカの建設に取り組んだ。しかし、長年の人種差別の傷跡は深く、課題は山積みだった。
最も難しかったのは、過去の和解をどう進めるかということだった。多くの黒人たちは、アパルトヘイト時代の加害者たちを裁きたいと思っていた。一方で、白人たちは報復を恐れていた。
ある日、アパルトヘイト時代に息子を殺された黒人女性が私のオフィスを訪れた。
「大統領、なぜ私たちの敵を許さなければならないのですか?」と彼女は涙ながらに訴えた。
私は彼女の手を取り、静かに語りかけた。
「あなたの痛みはよくわかります。でも、憎しみの連鎖を断ち切らなければ、この国に未来はありません。許すことは弱さではなく、強さなのです」
そして、私は「真実和解委員会」を設立した。これは、アパルトヘイト時代の人権侵害について真実を明らかにし、被害者と加害者の和解を目指すものだった。
委員会の公聴会では、多くの悲惨な証言が行われた。時には、会場が怒りと悲しみで満ちることもあった。しかし、少しずつではあるが、和解への道が開かれていった。
経済面でも大きな課題があった。長年の差別政策により、黒人の多くが貧困に苦しんでいた。
「マンデラ大統領、なぜ白人から土地を取り上げて、我々に分配しないのですか?」と、ある集会で若者が叫んだ。
私は答えた。「復讐ではなく、共生を目指すのだ。白人も黒人も、この国の未来を共に作っていかなければならない」
私の政策に不満を持つ人々もいた。しかし、私は信念を曲げなかった。南アフリカの未来は、全ての人種が協力し合ってこそ築けると信じていたからだ。
1999年、私は大統領を退任した。完璧な国を作ることはできなかったが、和解と民主主義への道筋をつけることはできたと思う。
第9章:引退後の人生と遺産
大統領を退任した後も、私は様々な社会問題に取り組み続けた。特に、HIV/エイズ問題には力を入れた。
2005年、私の息子マカジウェがエイズで亡くなった。その悲しみを乗り越え、私は公の場でエイズについて語り始めた。
「エイズは恥ずべき病気ではありません。私たちは偏見と闘い、患者を支援しなければなりません」
私の言葉に、多くの人々が勇気づけられた。エイズ患者への差別は少しずつ減っていった。
晩年、私の健康は徐々に衰えていった。しかし、私の闘志は衰えることはなかった。
2013年12月5日、私は95歳でこの世を去った。
私の人生を振り返ると、多くの苦難があった。しかし、それ以上に喜びもあった。私は、人々の心の中に希望の種を植えることができたと信じている。
南アフリカは今も多くの問題を抱えている。しかし、私は信じている。人々が団結し、互いを尊重し合えば、どんな困難も乗り越えられると。
私の闘いは終わった。しかし、正義と平等のための闘いは、これからも続いていく。次の世代が、より良い世界を作ってくれることを願っている。
(了)