第1章: 荒野への目覚め
1860年8月14日、イギリスのサウス・シールズで生まれた私、アーネスト・トンプソン・シートンは、幼い頃から自然に強い興味を持っていた。父ジョセフと母アリスの10人の子供の8番目として生まれた私は、家族からエバンと呼ばれていた。
私が5歳の時、家族はカナダのオンタリオ州に移住した。新天地での生活は厳しく、特に父との関係は複雑だった。父は厳格で、時に暴力的だった。ある日、父が私を叩こうとしたとき、私は思わず叫んでいた。
「やめて! 僕は何も悪いことしてない!」
父の目が怒りで燃えていた。「黙れ! お前は生まれた時から間違いだったんだ!」
その言葉は私の心に深い傷を残した。しかし、それと同時に、自然の中に逃げ込むきっかけにもなった。森や野原は、私にとって安らぎの場所となった。
12歳の時、トロントに引っ越した私は、そこで運命的な出会いを果たす。ある日、学校帰りに見つけた一羽の小鳥だった。怪我をして飛べなくなっていたその鳥を、私は家に持ち帰り、看病した。
「大丈夫だよ、きっと良くなるから」と、小鳥に語りかけながら、私は初めて生き物を助ける喜びを知った。
この経験が、後の私の人生を決定づけることになる。自然や動物への愛着は日に日に強くなり、スケッチブックには動物たちの姿が増えていった。
第2章: 芸術と科学の融合
青年期に入ると、私の才能は周囲に認められるようになった。19歳の時、オンタリオ農業大学に入学し、そこで自然科学と芸術の両方を学んだ。しかし、大学生活は決して平坦ではなかった。
ある日の講義中、教授が私のスケッチを見つけた。
「シートン! 授業中に何をしている!」
私は恐る恐る答えた。「すみません、先生。鳥の解剖図を描いていました」
教授は眉をひそめたが、私のスケッチを見て表情が和らいだ。「なるほど、これは素晴らしい精密さだ。君の才能を無駄にしてはいけない」
この出来事は、私の進路を決める重要な転機となった。自然科学の知識と芸術的才能を組み合わせることで、独自の表現方法を見出すことができたのだ。
1879年、私は野生動物画家としてのキャリアをスタートさせた。しかし、それは決して楽な道のりではなかった。多くの出版社に作品を持ち込んだが、なかなか認められなかった。
ある出版社の編集者は私にこう言った。「君の絵は確かに上手だ。だが、誰が野生動物の本なんて買うんだい?」
その言葉に落胆しながらも、私は諦めなかった。「いつか必ず、人々に野生動物の素晴らしさを伝えてみせる」と心に誓った。
第3章: マニトバの荒野で
1882年、22歳の私はマニトバの荒野に向かった。そこでの経験は、私の人生を大きく変えることになる。
広大な草原、深い森、そして数え切れないほどの野生動物たち。私はその美しさに圧倒された。しかし同時に、開拓者たちによる自然破壊の現実も目の当たりにした。
ある日、私は一匹の狼に出会った。「ロボ」と名付けたその狼は、驚くほど賢く、農場の家畜を襲う厄介者として知られていた。私は彼を捕まえるよう依頼された。
罠を仕掛け、ロボを追い詰めていく中で、私は彼の知性と忠誠心に感銘を受けた。最終的にロボを捕らえたとき、彼の目に映る悲しみと諦めは、私の心を深く揺さぶった。
「ごめんな、ロボ。お前は自由に生きる権利があったんだ」
この経験は、私の中で大きな葛藤を生んだ。人間と野生動物の共存の難しさ、そして自然保護の重要性を痛感したのだ。
マニトバでの5年間は、私の作家としての才能も開花させた。1898年に出版した「野生動物の生活」は、私の名を一躍有名にした。
第4章: 自然保護運動の先駆者として
20世紀に入ると、私の活動は自然保護運動へと広がっていった。1902年、私はアメリカで「ウッドクラフト・インディアンズ」という青少年向けの自然教育団体を設立した。
この団体の目的は、子供たちに自然の中での生活技術を教えると同時に、自然を愛し、保護する心を育むことだった。
ある日のキャンプで、一人の少年が私に尋ねた。「シートンさん、なぜ動物を殺してはいけないんですか?」
私は答えた。「動物たちにも、私たちと同じように生きる権利があるんだ。彼らは自然の一部であり、私たちもまた自然の一部なんだよ」
この言葉に、少年の目が輝いた。そんな瞬間に、私は自分の使命を再確認した。若い世代に自然の大切さを伝えることこそ、私のなすべきことだと。
しかし、私の活動は常に順風満帆というわけではなかった。1910年、ボーイスカウト運動の創始者ロバート・ベーデン=パウエルとの対立が表面化した。
ベーデン=パウエルは私の著作から多くのアイデアを取り入れていたにもかかわらず、それを認めようとしなかった。この対立は、私に大きな失望をもたらした。
「なぜ彼は真実を認めないんだ?」と、私は苦悩した。しかし、この経験も私を成長させた。個人的な名誉や認知よりも、自然保護という大きな目標に向かって進むべきだと気づいたのだ。
第5章: 作家としての成功と挫折
1910年代から20年代にかけて、私の作家としての活動は絶頂期を迎えた。「二つの小さな野獣」「灰色熊ワーブ」など、多くの作品を発表し、大きな反響を得た。
しかし、成功は新たな問題も生んだ。私の作品に対する批判の声も上がり始めたのだ。
ある批評家は私の作品を「擬人化しすぎている」と批判した。「動物に人間の感情を押し付けているだけだ」と。
この批判は私を深く傷つけた。私は決して動物を人間と同一視しているわけではない。ただ、彼らにも感情があり、知性があることを伝えたかっただけだ。
妻のグレースは私を慰めてくれた。「あなたの作品は多くの人々の心に届いているわ。批判を恐れずに、自分の信じる道を進みなさい」
彼女の言葉に勇気づけられ、私は筆を止めることなく、自然と動物たちの物語を書き続けた。
第6章: 晩年と遺産
1930年代に入ると、私の健康は徐々に衰え始めた。しかし、自然への愛と探究心は衰えることはなかった。
1938年、私はニューメキシコ州サンタフェに「シートン城」を建設した。ここは私の終の棲家となり、同時に自然教育の拠点ともなった。
シートン城では、多くの若者たちが訪れ、自然について学んだ。私は彼らに、自然の中で生きることの喜びと責任について語り続けた。
「自然は私たちに多くのことを教えてくれる。謙虚さ、忍耐、そして生命の尊さを」と、私はよく語った。
1946年10月23日、私は86歳でこの世を去った。しかし、私の思想と作品は多くの人々の心に生き続けている。
私の人生を振り返ると、それは決して平坦な道のりではなかった。父との確執、批判との戦い、そして時には自分自身との葛藤。しかし、自然への愛と、それを守り伝えたいという思いが、私を前に進ませ続けた。
私の人生が、自然の大切さを伝える一助となれば、これ以上の喜びはない。
エピローグ
アーネスト・トンプソン・シートンの遺産は、彼の死後も長く受け継がれていった。彼の著作は世界中で読み継がれ、彼が提唱した自然教育の理念は、環境保護運動の礎となった。
シートンの生涯は、人間と自然の関係について深く考えさせるものだった。彼は時に批判を受け、挫折を味わいながらも、自然への愛と理解を広めることに生涯を捧げた。
現代の私たちは、シートンの遺した教訓から多くを学ぶことができる。自然を尊重し、共生していくことの重要性。そして、自分の信念を貫き、それを次世代に伝えていくことの大切さを。
アーネスト・トンプソン・シートン。彼の人生は、一人の人間が自然とどのように向き合い、そしてどのように社会に影響を与えることができるかを示す、貴重な例となっているのだ。