第一章: 幼少期の記憶
私の名は沖田総司。天保5年(1834年)、江戸の多摩郡で生まれた。幼い頃の記憶は、剣の音と汗の匂いで満ちている。
父は剣の達人だった。私が5歳の時、父は私を手ほどきし始めた。木刀を握る小さな手。父の厳しい声。そして、何度も繰り返される素振り。
「総司、剣は人を守るためのものだ。決して人を傷つけるためではない」
父の言葉は、今でも耳に残っている。しかし、その言葉の真意を理解するまでには、まだ長い道のりがあった。
私の幼少期は、剣と共にあった。朝は早く起き、夕方まで稽古に明け暮れる。他の子どもたちが外で遊んでいる声が聞こえても、私は黙々と素振りを続けた。
ある日、近所の子どもたちが私をからかってきた。
「おい、総司!また一人で木刀振り回してるのか?」
「そんなことしてても、強くなんかなれないぞ!」
私は黙って稽古を続けた。しかし、心の中では悔しさが渦巻いていた。
その夜、父に尋ねた。
「父上、私は本当に強くなれるのでしょうか?」
父は私をじっと見つめ、そっと頭を撫でた。
「総司、強さとは何だと思う?」
「えっと…相手に勝つことです」
父は首を横に振った。
「違う。真の強さとは、自分に勝つことだ。自分の弱さ、怠惰、そして恐れに打ち勝つこと。それができれば、お前は必ず強くなる」
その言葉が、私の心に深く刻まれた。
9歳の時、私は江戸へ向かった。叔父の三岡八郎(後の近藤勇)が営む試衛館道場で修行するためだ。両親との別れは辛かった。特に母の涙顔は、今でも鮮明に覚えている。
「総司、身体に気をつけるんだよ」
「はい、母上」
「偉い子だね。でも、無理はしないでね」
母の優しい言葉に、私は強がって答えた。
「大丈夫です。必ず強くなって戻ってきます」
そう言いながら、私の目にも涙が浮かんでいた。
道場に到着した日、私は生涯忘れられない出会いをした。
「おい、新入り!」
声の主は、土方歳三だった。彼は私より5歳年上で、すでに道場の中心的存在だった。
「俺は土方歳三だ。お前の名は?」
「沖田…沖田総司です」
私は緊張しながら答えた。土方は私をじっと見つめ、そして突然笑顔を見せた。
「よし、これからお前のことは総司と呼ぶ。一緒に強くなろうぜ」
その日から、土方は私の兄貴分となった。彼の存在が、私の人生を大きく変えることになる。
第二章: 剣の道を極める
試衛館での日々は、厳しくも充実していた。朝は早く、夜は遅くまで稽古に明け暮れた。近藤勇師範の指導は厳しかったが、その中に深い愛情を感じた。
「総司、お前には才能がある。だが、才能だけでは剣の道は極められん。努力あるのみだ」
近藤師範の言葉に、私は必死に応えようとした。日々の稽古に加え、夜中にこっそり起きて素振りを繰り返した。
ある夜、私が密かに稽古をしていると、土方に見つかってしまった。
「おい、総司。こんな時間まで何してる?」
「土方さん…」
私は驚いて振り返った。土方は腕を組み、じっと私を見つめていた。
「すみません。もう少し稽古を…」
「馬鹿者」
土方の言葉に、私は身を縮めた。しかし、次の瞬間、土方は優しく微笑んだ。
「一人で稽古するなんて、つまらないじゃないか。俺も付き合おう」
その夜から、私と土方の秘密の夜間稽古が始まった。土方は私より年上で、体格も大きかったが、私は必死に食らいついた。
「はっ!」
私の木刀が、土方の胸元をかすめた。
「おっと、危ねえな」
土方は笑いながら言った。しかし、その目は真剣だった。
「総司、お前はどんどん強くなってる。でも、忘れるな。剣は人を守るためのものだ」
「はい…でも、土方さん。人を守るためには、時に人を斬らなければならないこともあるのでは?」
土方は一瞬黙り込み、そして深くため息をついた。
「そうだな…。だが、その時が来ても、決して剣に心を奪われるな。剣は道具だ。お前の心こそが、本当の武器なんだ」
土方の言葉は、私の心に深く刻まれた。
14歳の時、私は道場内で最強と言われるようになっていた。しかし、それは同時に孤独も意味した。誰も私と真剣に打ち合おうとしなくなったのだ。
ある日の稽古後、私は一人で庭に座っていた。そこへ、近藤師範が近づいてきた。
「総司、何を考えている?」
「近藤さん…。私は本当に強くなれたのでしょうか?」
近藤は私の隣に座り、空を見上げた。
「総司、強さとは何だと思う?」
私は父の言葉を思い出した。
「自分に勝つことです」
近藤は満足そうに頷いた。
「そうだ。だが、それだけではない。真の強さとは、他人の弱さを理解し、寄り添うことだ」
「寄り添う…ですか?」
「そうだ。お前は確かに強い。だが、その強さゆえに孤独になっている。本当の強者は、弱者の気持ちが分かる者だ」
近藤の言葉に、私は目を見開いた。そして、自分の中に芽生えていた傲慢さに気づいた。
その日から、私は稽古の合間に、初心者の指導を買って出るようになった。そして、人を教えることの難しさと喜びを知った。
ある日、土方が私に声をかけてきた。
「総司、お前、最近つまらなそうだな」
「…はい。誰も本気で打ち合ってくれないんです」
土方は少し考え、そして言った。
「よし、俺がお前の相手をしよう。ただし、条件がある」
「何ですか?」
「負けたら、俺の言うことを何でも聞くこと。勝ったら、お前の言うことを何でも聞く」
私は迷わず答えた。
「分かりました。やりましょう」
結果は私の勝利だった。しかし、土方は悔しがるどころか、むしろ嬉しそうだった。
「さすがだな、総司。お前なら、きっと剣の道を極められる」
その言葉が、私の心に火をつけた。私は剣の道を極めることを、人生の目標とした。
しかし、その目標が、後に私を苦しめることになるとは、この時は知る由もなかった。
第三章: 新選組の誕生
安政7年(1860年)、私は26歳になっていた。その頃、日本は大きな変化の時期を迎えていた。外国船の来航、開国要求、そして幕府の権威の低下。世の中は混乱し、人々の不安は高まっていた。
ある日、近藤勇が私と土方を呼び出した。
「総司、土方。重大な話がある」
近藤の表情は、いつになく真剣だった。
「幕府から、京都の治安維持の要請があった。我々試衛館の精鋭で、京都へ向かうことになった」
私と土方は顔を見合わせた。京都へ?それは、私たちの人生を大きく変える決断になるはずだった。
「近藤さん、それは…」
土方が口を開いた。
「そうだ。我々は、幕府の剣となる」
近藤の言葉に、私の心は高鳴った。これまでの修行の成果を、実際の場で試せる。そう思うと、興奮を抑えられなかった。
「行きましょう、近藤さん」
私は即座に答えた。土方も頷いた。
「分かった。では、準備を始めよう」
京都に向かう前夜、私は一人で庭に出た。満月が空を照らしていた。
「総司」
背後から、土方の声がした。
「土方さん…」
「緊張してるのか?」
「いいえ、むしろ…楽しみです」
土方は苦笑いを浮かべた。
「お前らしいな。だが、忘れるな。我々が向かうのは、本物の戦場だ。命のやり取りをする場所だ」
「分かっています」
「本当に分かってるのか?」
土方の声が厳しくなった。
「総司、お前は強い。だが、強さゆえの傲りに気をつけろ。一瞬の油断が、命取りになる」
私は黙って頷いた。土方の言葉に、初めて不安を感じた。
翌日、我々は京都へ向けて出発した。道中、近藤が我々に語りかけた。
「諸君、我々には重大な使命がある。幕府を守り、乱れた世を正す。それが我々の役目だ」
私は、その言葉に深く感銘を受けた。しかし同時に、ある疑問も湧いていた。
「近藤さん、幕府を守ることが、本当に正しいことなのでしょうか?」
近藤は私をじっと見つめ、そして答えた。
「総司、世の中に絶対的な正義などない。我々にできるのは、自分の信じる道を貫くことだけだ」
その言葉は、私の心に深く刻まれた。そして、私は決意した。新選組の一員として、自分の信じる道を貫くことを。
京都に到着した我々は、「浪士組」として活動を始めた。しかし、その名前はすぐに「新選組」へと変わる。
新選組の結成式の日、近藤勇が我々に語りかけた。
「諸君、我々は今日から、新選組として生きる。幕府の剣となり、京都の平和を守る。それが我々の使命だ」
私は、その言葉に身が引き締まる思いがした。同時に、これから始まる新しい人生への期待と不安が、胸の中で渦巻いていた。
第四章: 剣の鬼と呼ばれて
新選組の活動が本格化するにつれ、私の名は京都中に轟くようになった。「剣の鬼」「新選組最強の剣士」そう呼ばれるようになった。
しかし、その評判は必ずしも良いものばかりではなかった。新選組の厳しい取り締まりに、多くの人々が恐れおののいた。そして、私はその恐れの象徴となっていった。
ある日の巡回中、私は一人の男を取り押さえた。男は反幕府の志士だった。
「お前を斬る」
私は冷たく言い放った。男の目に恐怖が浮かぶ。その瞬間、私の中で何かが動いた。これが、父が言っていた「人を守るための剣」なのだろうか。
しかし、迷っている暇はなかった。私は刀を振り下ろした。
その夜、私は眠れなかった。目を閉じると、斬った男の顔が浮かぶ。そして、父の言葉が響く。
「剣は人を守るためのもの」
翌朝、土方が私の部屋を訪れた。
「総司、大丈夫か?」
「はい…なんとか」
「昨日の件か?」
私は黙って頷いた。土方は深いため息をついた。
「総司、これが現実だ。我々は、時に人を斬らなければならない。だが、忘れるな。我々は京都の平和のために戦っているんだ」
「分かっています。でも…」
「迷いは禁物だ。お前の剣は、多くの人々を守っている。それを忘れるな」
土方の言葉に、私は何とか自分を奮い立たせた。しかし、心の奥底では、まだ迷いが渦巻いていた。
時が経つにつれ、私の名声は高まっていった。しかし、同時に「鬼」としての評判も広まっていった。
ある日、巡回中に一人の少年に出会った。少年は私を見るなり、震え上がった。
「お、鬼だ!沖田の鬼だ!」
少年は叫び、逃げ出そうとした。私は思わず少年の腕を掴んでいた。
「待て。なぜ逃げる?」
少年は涙目で答えた。
「だって…だって、沖田さんは悪い人を切り殺す鬼だって…」
その言葉に、私は言葉を失った。確かに、私は多くの人の命を奪ってきた。それは新選組の任務として、そして自分の信念のためだと信じていた。しかし、この少年の目に映る「鬼」としての自分を見て、私は深い疑問を感じた。
「聞け、小僧。俺は鬼じゃない。人間だ。ただ、自分の信じる道を行くだけだ」
少年は驚いた顔で私を見上げた。
「じゃあ…沖田さんは悪い人じゃないの?」
「悪いか良いか、それは見る人によって違う。でも、俺は自分が正しいと信じることをしているだけだ」
少年はしばらく考え込み、そしてゆっくりと頷いた。
「分かった…かも。ありがとう、沖田さん」
少年は去っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は自問自答していた。自分のしていることは本当に正しいのか。しかし、その答えを見つけることはできなかった。
その夜、私は一人で酒を飲んでいた。そこへ、芹沢鴨がやってきた。
「珍しいな、総司。お前が一人で酒を飲むなんて」
「芹沢さん…」
芹沢は私の隣に座り、酒を注いだ。
「何か悩みでもあるのか?」
私は少し躊躇したが、思い切って口を開いた。
「芹沢さん、我々のしていることは本当に正しいのでしょうか?」
芹沢は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「総司、正しさとは何だ?」
「それは…」
「世の中に絶対的な正義などない。我々にできるのは、自分の信じる道を貫くことだけだ。近藤もそう言っただろう?」
私は黙って頷いた。
「だが、忘れるな。我々の行動には常に責任が伴う。自分の行動に疑問を持つことは、決して悪いことではない。むしろ、それこそが人間らしさだ」
芹沢の言葉に、私は少し心が軽くなった気がした。
「ありがとうございます、芹沢さん」
「礼には及ばん。さあ、もう一杯どうだ?」
その夜、私は長い間考え続けた。自分の剣の意味、新選組の存在意義、そして自分自身の生き方について。答えは見つからなかったが、少なくとも、自分の中に芽生えた疑問を無視しないことを決意した。
それが、私なりの「人間らしさ」を保つ方法だと思った。
第五章: 病魔との戦い
元治元年(1864年)、私は30歳になっていた。新選組の活動が最も激しくなる中、私の体に異変が起きた。
ある日の巡回中、突然激しい咳が出た。手で口を押さえると、そこには赤い血が付いていた。
「総司、大丈夫か?」
土方が心配そうに声をかけてきた。
「…大丈夫です。少し疲れているだけでしょう」
私は平静を装ったが、内心では恐怖に震えていた。これが噂に聞く「肺病」なのではないか。そう思うと、冷や汗が背中を伝った。
その後、症状は徐々に悪化していった。激しい咳、寝汗、そして次第に衰えていく体力。しかし、私は誰にも相談しなかった。新選組の戦力として、自分の弱さを見せるわけにはいかなかったのだ。
ある夜、一人で剣の稽古をしていると、突然の咳込みで倒れてしまった。そこへ、土方が通りかかった。
「総司!大丈夫か?」
土方は驚いて駆け寄ってきた。私は咳き込みながら答えた。
「土方さん…もう、隠し通せませんね」
「馬鹿野郎、なぜ黙っていた」
土方の声には怒りと悲しみが混じっていた。
「新選組の…みんなに迷惑をかけたくなかったんです」
「迷惑だと?お前が倒れることの方が、よっぽど迷惑だ」
土方は私を抱き起こし、部屋へ連れて行った。そして、医者を呼んだ。
診断は、やはり肺病だった。医者は私に安静を勧めたが、私にはそんな時間はなかった。新選組には私の剣が必要だった。
「土方さん、これからも戦います。最後まで、新選組の一員として」
土方は黙って頷いた。その目には、悲しみと決意が混じっていた。
翌日、近藤勇が私の部屋を訪れた。
「総司、聞いたぞ。お前の体のことを」
「申し訳ありません、近藤さん。隠していて…」
近藤は手を振って、私の言葉を遮った。
「謝る必要はない。むしろ、俺が謝らねばならん。お前の体調に気づかなかった俺の不甲斐なさだ」
「そんな…近藤さんは悪くありません」
近藤は深いため息をついた。
「総司、お前は新選組の宝だ。だが、それ以上に大切な仲間だ。無理はするな。休める時は休め」
「はい…ありがとうございます」
近藤の言葉に、私は涙が込み上げてきた。
その後も、私は可能な限り任務を続けた。しかし、体力の衰えは隠しようがなかった。以前なら簡単に勝てた相手にも、苦戦するようになった。
ある日の巡回中、突然の咳込みで膝をつく。そこへ、敵の浪士が襲いかかってきた。
「はっ!」
私は必死で刀を振るう。かろうじて敵を倒したが、その後の激しい咳込みで、再び膝をつく。
「総司!」
駆けつけた土方が、私を支えた。
「もう…だめかもしれません」
「馬鹿を言うな。お前はまだ諦めちゃいけない」
土方の声には、必死の思いが込められていた。
その夜、私は一人で月を見ていた。かつての自分の姿を思い出す。誰よりも強く、誰よりも速く。剣の道を極めようとしていた、あの頃の自分を。
「月が綺麗ですね」
背後から、芹沢鴨の声がした。
「ああ、芹沢さん」
芹沢は新選組の参謀で、私とは古くからの付き合いだった。
「総司、無理をするな。お前の命は、新選組の宝なんだ」
「分かっています。でも…」
言葉が詰まる。芹沢はゆっくりと続けた。
「剣だけが、全てじゃない。お前には、もっと大切な役割がある」
「大切な役割…ですか?」
「ああ。お前は我々の希望だ。お前がいるだけで、皆の士気が上がる」
芹沢の言葉に、私は複雑な思いを抱いた。確かに、自分はもう以前のように戦えない。しかし、それでも新選組の役に立てるのか。そんな疑問が、私の心を苛んだ。
しかし、同時に、新たな決意も生まれた。たとえ剣を振るえなくなっても、自分にできることはある。そう信じることにした。
それからの日々、私は若い隊士たちの指導に力を入れた。自分の経験と技を、次の世代に伝えることに全力を注いだ。
「剣は人を守るためのもの。それを忘れるな」
父の言葉を、私は若い隊士たちに伝え続けた。
そして、自分自身もその言葉の意味を、改めて考え直すようになった。
第六章: 池田屋事件
慶応元年(1865年)7月8日、新選組にとって大きな転機となる事件が起きた。池田屋事件だ。
情報により、池田屋に尊王攘夷派の志士たちが集まっているという報告を受けた我々は、急遽襲撃を決行した。
「総司、お前は後衛に回れ」
近藤勇の命令に、私は反論した。
「近藤さん、私も行きます」
「駄目だ。お前の体のことを考えろ」
「でも…」
「いいか、総司。お前の命は新選組の宝だ。無駄にはできない」
近藤の言葉に、私は渋々従った。しかし、その決定が後に大きな後悔を生むことになる。
襲撃が始まると、池田屋内は修羅場と化した。刀と刀がぶつかり合う音、悲鳴、そして血の匂いが充満した。
私は外で待機していたが、中の様子が気になって仕方がなかった。そして、ついに耐えきれなくなった。
「すみません、行ってきます!」
私は叫び、池田屋に飛び込んだ。
中に入ると、そこは文字通りの地獄絵図だった。床には血の海。壁には無数の刀傷。そして、仲間たちが必死に戦っていた。
私は躊躇なく剣を振るった。次々と敵を倒していく。しかし、その激しい動きは私の体に大きな負担をかけた。
「げほっ、げほっ」
激しい咳が込み上げてきた。口から血が噴き出す。それでも、私は剣を振り続けた。
「総司、下がれ!」
土方の声が聞こえた。しかし、私には聞こえないふりをした。
最後の一人を倒し、ようやく戦いは終わった。私は壁に寄りかかり、深く息を吐いた。
「総司、大丈夫か?」
近藤が心配そうに駆け寄ってきた。
「はい…なんとか」
私は弱々しく笑った。しかし、その笑顔の裏で、私は自分の限界を感じていた。もう、以前のように戦えない。そう思うと、胸が締め付けられるような思いだった。
その夜、私は一人で庭に出た。月が綺麗に輝いていた。
「総司」
背後から、土方の声がした。
「土方さん…」
「お前、なぜ命令を無視した」
土方の声は厳しかった。しかし、その目には深い悲しみが浮かんでいた。
「すみません。でも、仲間たちを見捨てるわけには…」
「馬鹿者!」
土方の怒鳴り声に、私は身を縮めた。
「お前が死んだらどうする。新選組は…俺たちは、お前を失うわけにはいかないんだ」
土方の声が震えていた。私は初めて、土方の本当の気持ちを知った気がした。
「土方さん…ごめんなさい」
私は深く頭を下げた。土方はため息をつき、そっと私の肩に手を置いた。
「もう二度と、そんな無茶はするな。約束しろ」
「はい…約束します」
その夜、私は長い間考え続けた。自分の役割、新選組での存在意義について。そして、仲間たちへの思いについて。
翌日、近藤が私を呼び出した。
「総司、昨日のことだが…」
私は身構えた。叱責が来ると思ったからだ。しかし、近藤の次の言葉は、私の予想を裏切るものだった。
「よくやってくれた。お前のおかげで、多くの仲間の命が救われた」
「近藤さん…」
「だが、二度とそんな無茶はするな。お前の命は、新選組の宝なんだ」
近藤の言葉に、私は深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
その日から、私の中で何かが変わった。自分の命の重さ、そして仲間たちへの責任。それらを強く意識するようになった。
しかし同時に、自分の体の衰えも否応なく感じていた。もう、以前のように戦えない。その現実を、私は受け入れなければならなかった。
第七章: 衰えゆく剣
池田屋事件以降、私の体調は急速に悪化していった。激しい咳、寝汗、そして日に日に衰えていく体力。それでも、私は必死に剣を振り続けた。
ある日の稽古中、私は若い隊士と打ち合っていた。以前なら簡単に勝てたはずの相手に、私は苦戦していた。
「はっ!」
若い隊士の剣が、私の胸元をかすめた。私は咳き込みながら、何とか応戦する。
「総司さん、大丈夫ですか?」
相手の隊士が心配そうに声をかけてきた。
「…大丈夫だ。続けろ」
私は強がって答えたが、体は正直だった。視界がぼやける。足が震える。そして、ついに膝をつく。
「総司!」
土方が駆け寄ってきた。
「もういい、休め」
「でも、土方さん…」
「命令だ」
土方の声には、怒りと悲しみが混じっていた。私は黙って頷き、部屋を後にした。
その夜、私は一人で月を見ていた。かつての自分の姿を思い出す。誰よりも強く、誰よりも速く。剣の道を極めようとしていた、あの頃の自分を。
「月が綺麗ですね」
背後から、芹沢鴨の声がした。
「ああ、芹沢さん」
芹沢は新選組の参謀で、私とは古くからの付き合いだった。
「総司、無理をするな。お前の命は、新選組の宝なんだ」
「分かっています。でも…」
言葉が詰まる。芹沢はゆっくりと続けた。
「剣だけが、全てじゃない。お前には、もっと大切な役割がある」
「大切な役割…ですか?」
「ああ。お前は我々の希望だ。お前がいるだけで、皆の士気が上がる」
芹沢の言葉に、私は複雑な思いを抱いた。確かに、自分はもう以前のように戦えない。しかし、それでも新選組の役に立てるのか。そんな疑問が、私の心を苛んだ。
翌日、私は若い隊士たちの指導をしていた。しかし、以前のように実演して見せることはできない。言葉だけで技を伝えることの難しさを、痛感した。
「総司さん、もう一度見せてください」
若い隊士が懇願してきた。私は苦笑いを浮かべながら答えた。
「すまない。今の俺には…」
その時、土方が稽古場に入ってきた。
「総司、休め。俺が代わろう」
土方は若い隊士たちの前に立ち、剣を構えた。
「よく見ておけ。これが総司の教えた技だ」
土方の動きは、まるで私の動きを完全に再現したかのようだった。若い隊士たちは、目を輝かせて見入っていた。
稽古が終わった後、私は土方に声をかけた。
「ありがとうございます、土方さん」
土方は少し照れたように首を振った。
「礼には及ばない。お前の教えを、俺なりに伝えただけだ」
その言葉に、私は深い感謝と同時に、ある決意を感じた。たとえ自分が剣を振るえなくなっても、自分の知識と経験は、仲間たちを通じて生き続ける。そう思うと、少し心が軽くなった気がした。
その夜、私は再び一人で月を見ていた。そこへ、近藤勇が近づいてきた。
「総司、何を考えている?」
「近藤さん…。私は、もう新選組の役に立てないのでしょうか」
近藤は驚いた顔をした。そして、優しく微笑んだ。
「何を言っている。お前は今でも、新選組の大切な一員だ」
「でも、もう剣を…」
「剣だけが全てじゃない。お前の存在自体が、我々の誇りであり、希望なんだ」
近藤の言葉に、私は涙が込み上げてきた。
「ありがとうございます、近藤さん」
「礼には及ばん。さあ、明日からも頑張ろう。新選組には、まだまだお前が必要なんだ」
その夜、私は長い間考え続けた。自分にできること、自分の役割について。そして、新たな決意を固めた。
たとえ剣を振るえなくなっても、自分の知識と経験を次の世代に伝える。それが、今の自分にできる最大の貢献だと。
その決意と共に、私は新たな朝を迎えた。
第八章: 最後の戦い
慶応4年(1868年)、新選組は大きな転機を迎えていた。戊辰戦争が始まり、我々は官軍との全面対決を余儀なくされたのだ。
私の体調は最悪だった。もはや剣を振ることすら困難になっていた。それでも、私は最後の戦いに参加することを決意した。
「総司、お前はここに残れ」
近藤勇が私に告げた。
「駄目です。私も行きます」
「馬鹿を言うな。お前の体では…」
「分かっています。でも、これが私の生きる道なんです」
近藤は長い間私を見つめ、そして深くため息をついた。
「分かった。だが、無理はするな」
私は感謝の念を込めて頭を下げた。
出陣の朝、土方が私の部屋を訪れた。
「総司、本当に行くのか?」
「はい、土方さん」
土方は苦笑いを浮かべた。
「お前は昔から頑固だったな」
「土方さんに言われたくありません」
我々は笑い合った。しかし、その笑顔の裏には、互いへの深い思いが隠されていた。
「総司、約束してくれ」
「何をですか?」
「無理はするな。危険を感じたら、すぐに下がれ」
私は黙って頷いた。土方の目には、深い悲しみと決意が浮かんでいた。
戦場は、まさに地獄だった。銃声が響き渡り、刀と刀がぶつかり合う音が絶え間なく聞こえる。そして、至る所で悲鳴が上がっていた。
私は必死に剣を振るった。しかし、かつての俊敏さはもうない。動きは鈍く、息は上がる。それでも、私は戦い続けた。
「総司、後ろだ!」
土方の声が聞こえた瞬間、鋭い痛みが背中を貫いた。振り返ると、敵の兵士が刀を構えていた。
私は咳き込みながら、何とか応戦する。しかし、体が言うことを聞かない。視界がぼやける。そして、ついに膝をつく。
「総司!」
土方が駆け寄ってきた。彼の顔が、だんだんと遠くなっていく。
「土方さん…すみません。もう…これ以上は…」
「馬鹿野郎、しゃべるな!」
土方の声が震えている。私は微笑んだ。
「土方さん、近藤さん…みんなに伝えてください。私は…最後まで…新選組の…」
言葉が途切れた。意識が遠のいていく。最後に見たのは、涙を流す土方の顔だった。
その瞬間、私の脳裏に様々な光景が浮かんだ。
幼い頃、父に剣を教わっていた日々。
試衛館で必死に稽古に励んでいた若き日の自分。
新選組結成の日、仲間たちと誓い合った決意。
そして、数え切れないほどの戦いの記憶。
それらの記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
「父上…母上…」
私は心の中で呟いた。
「近藤さん…土方さん…みんな…」
そして、最後に浮かんだのは、剣を握る自分の姿だった。
「剣は…人を守るため…」
父の言葉が、遠くから聞こえてくる。
「そうだ…俺は…守りたかったんだ…」
意識が薄れていく中、私は静かに目を閉じた。
最後の最後まで、私は剣士として、新選組の一員として生きた。
それが、私の選んだ道だった。
終章: 剣に生き、剣に散る
明治2年(1869年)5月30日、私、沖田総司は25歳でこの世を去った。
生涯を通じて、私は剣に生き、そして剣に散った。新選組の一員として、自分の信じる道を貫いた。それが正しかったのか、間違っていたのか。今となっては、誰にも分からない。
しかし、私には後悔はない。自分の人生を、全てを懸けて生き抜いた。それだけで、十分だと思う。
私の名は、歴史に刻まれるだろう。「新選組最強の剣士」「剣の鬼」そんな呼び名と共に。しかし、私が本当に望むのは、人々が私の生き様から何かを学び取ってくれることだ。
剣の道は厳しい。しかし、その先には何かがある。それを信じて、私は生きた。そして、死んだ。
私の人生を振り返ると、多くの出来事が思い出される。
試衛館での厳しい修行。
新選組結成時の高揚感。
数々の戦いでの緊張と興奮。
そして、病魔との長い闘い。
それらすべてが、私を形作ってきた。
私は多くの人の命を奪った。それは事実だ。しかし、同時に多くの命を守ろうとしてきた。それもまた、事実だ。
人は私を「剣の鬼」と呼んだ。確かに、私は時に鬼のように振る舞った。しかし、その奥底には常に、人としての苦悩があった。
剣は人を守るためのもの。父の言葉を、私は生涯忘れなかった。その言葉の真意を完全に理解できたかどうかは分からない。しかし、その言葉を胸に、私は生き抜いた。
近藤勇、土方歳三、そして新選組の仲間たち。彼らと共に過ごした日々は、私の人生の宝だ。彼らがいなければ、私はここまで来られなかっただろう。
最後に、私からのメッセージがある。
生きることは、時に苦しい。しかし、それでも前を向いて進んでいってほしい。自分の信じる道を、最後まで貫いてほしい。たとえその道が、他人には理解されなくても。
さようなら、皆。そして、ありがとう。
私の物語は、ここで幕を閉じる。しかし、新しい時代の物語は、まだ始まったばかりだ。
皆さんの人生が、輝かしいものになることを願って。
沖田総司、ここに筆を置く。