序章:蜀の地での少女時代
私の名は楊玉環。後に楊貴妃として歴史に名を残すことになる女です。開元7年(719年)、蜀の地の裕福な役人の家に生まれました。父は蜀郡の長官を務める楊玄琰、母は鄭氏。私には三人の姉がいて、四姉妹の末っ子として育ちました。
私たちの屋敷は、錦江のほとりにありました。春になると、川辺に咲く桃の花が美しく、姉たちと花見をするのが楽しみでした。特に次姉の楊華清とは仲が良く、よく一緒に遊びました。
「玉環、また琴の練習をさぼっているの?」
「いいえ、姉上。今日は早起きして練習しましたわ」
「本当?ならば、少し聴かせてください」
華清姉様は厳しい人でしたが、私のことを本当に大切にしてくれました。姉様の前で琴を弾くと、いつも真剣に聴いてくれて、時には涙を流して喜んでくれることもありました。
「玉環の琴は、まるで天上の仙楽のよう」
そう言って褒めてくれる姉様が、私は大好きでした。
父は教養を重んじる人で、私たち姉妹に厳しい教育を施しました。毎朝、日の出とともに起き、まず書道の練習から始まります。
「玉環、筆の運びが雑だ。もっと心を込めて」
父の声は優しくも厳格でした。続いて『詩経』や『論語』の素読。これは特に苦手でしたが、後の宮廷生活で大いに役立つことになります。
午後からは音楽の時間。琴だけでなく、笛や琵琶も習いました。中でも琴は私の得意とするところで、先生からもよく褒められました。
「この子は天性の才がある」
琴の先生の王老師はいつもそう言って、特別な曲を教えてくれました。
夕方になると、母から礼儀作法を学びました。お茶の入れ方、座り方、物の受け渡し方。些細なことまで、何度も何度も繰り返し練習させられました。
「玉環、あなたは美しい。でも、美しさだけでは足りないの」
母はよくそう言いました。
「内面から滲み出る品格が大切なのよ」
確かに、私の美しさは幼い頃から評判でした。白磁のような肌、しなやかな体つき、そして特に目が美しいと言われました。でも母は、外見の美しさに驕ることを強く戒めました。
十歳を過ぎた頃から、私の噂は蜀の地方全体に広がっていきました。時々、見知らぬ貴人が屋敷を訪れ、私の姿を一目見ようとすることもありました。
「玉環、お前はきっと普通の人生は送れないだろう」
ある日、父がポツリとそう言いました。当時の私には、その言葉の意味が分かりませんでした。
十二歳になった年、私は初めて宮廷の存在を意識するようになりました。都から派遣された官吏が、若い娘たちの様子を見て回っているという噂が広がったのです。
「玉環、もしかしたら…」
母は何か言いかけて、すぐに口を噤みました。今思えば、あの時すでに母は、私の運命を予感していたのかもしれません。
第二章:寿王妃となるまで
開元23年(735年)、私が十六歳の時でした。都からの使者が突然、私たちの屋敷を訪れました。
「楊玄琰殿の四女、玉環にお目通りを」
使者の声が、静かな屋敷に響き渡りました。
母は慌てて私を奥の間に連れて行き、最上の衣装を着せました。髪も丁寧に結い直し、化粧も施しました。
「玉環、これは重要な機会かもしれない。しっかりなさい」
母の手が少し震えていたのを、今でも覚えています。
使者の前に出ると、厳しい視線で私を見定めていきました。立ち居振る舞い、言葉遣い、容姿、すべてを細かくチェックされました。
「琴を弾いていただけますか」
使者にそう言われ、私は得意の「梅花三弄」を演奏しました。指先に力を入れすぎないよう気をつけながら、心を込めて弾きました。
演奏が終わると、使者は満足げな表情を浮かべました。
「素晴らしい才能です。寿王様の妃候補として、ぜひ推薦させていただきたい」
その言葉を聞いた時、私の心臓は大きく鼓動しました。寿王の妃候補。それは、皇族の一員となる可能性を意味していました。
選抜の過程は厳しいものでした。長安から派遣された宮廷医による健康診断、占い師による相性診断、そして最後は寿王自身の意向確認。すべての過程を経て、ついに私は正式に寿王妃として選ばれました。
長安への旅立ちの日、母は私に一つの包みを手渡しました。
「これは代々伝わる香囊よ。宮廷で辛いことがあった時は、この香りを嗅いで故郷を思い出しなさい」
馬車に乗り込む時、私は振り返って故郷の景色を目に焼き付けました。錦江のせせらぎ、桃の花の香り、家族との暮らし。これらとお別れする時が来たのです。
長安への道のりは長く、時には危険も伴いました。山賊の噂のある峠を越える時は、護衛の兵士たちが特に緊張した様子でした。
「お嬢様、そろそろ長安が見えて参ります」
付き添いの侍女が告げてくれた時、私の心は期待と不安で一杯でした。
長安の都は、私の想像をはるかに超える規模でした。整然と区画された街路、壮大な宮殿群、そして無数の人々。蜀の地とは、まるで別世界でした。
寿王府に到着すると、すぐに宮廷作法の特訓が始まりました。毎日、dawn to duskで礼儀作法、宮廷の規則、そして寿王に関する知識を叩き込まれました。
第三章:寿王妃から貴妃へ
寿王との結婚生活は、予想していたものとは少し違いました。寿王は優しい人でしたが、どこか物憂げで、私にそれほど関心を示しませんでした。
しかし、運命の歯車は思いもよらない方向に回り始めていました。ある日、玄宗皇帝が寿王府を訪れたのです。
その日の出来事は、今でも鮮明に覚えています。庭園で琴を弾いていた私の前に、突然、玄宗皇帝が現れたのです。
「その音色は、まるで天上の仙楽のようだ」
皇帝の言葉に、私は驚いて立ち上がろうとしましたが、
「そのまま続けなさい」と命じられました。
その後、玄宗皇帝の寿王府への訪問は増えていきました。そして、ある日突然、私は道観に入ることを命じられました。
道観での生活は、表向きは清らかな修行の日々。しかし実際は、玄宗皇帝の寵愛を受けるための準備期間でした。
「玉環、お前を貴妃にしたい」
玄宗皇帝からそう告げられた時、私は複雑な思いでした。息子の妃から父の貴妃になるということは、どう考えても常識では許されないことです。
しかし、それは皇帝の意志でした。私には選択の余地がありませんでした。
第四章:権力の絶頂
開元29年(741年)、私は正式に楊貴妃となりました。宮廷での生活は、まさに絢爛豪華そのものでした。
「貴妃様、今日の御衣は紫色のものをお持ちしました」
「貴妃様、蜀からライチが届きました」
「貴妃様、新しい踊り子たちが参りました」
侍女たちは、私の一挙手一投足に気を配りました。玄宗皇帝の寵愛は日に日に深まり、私の意向は宮廷内で絶大な影響力を持つようになっていきました。
特に、私の一族である楊氏一族の台頭は目覚ましいものでした。従兄の楊国忠は、ついに宰相の地位にまで上り詰めました。
「姉上、これで私たち楊氏の繁栄は確実なものとなりましたね」
楊華清姉様との会話で、私はそう語りました。しかし、この権力の行使が、後に大きな禍根を残すことになるとは、当時の私には想像もできませんでした。
玄宗皇帝の寵愛は、時として常軌を逸したものとなりました。暑い夏の日、私が汗をかくのを嫌がると、すぐさま命じて華清池に氷を運ばせ、水を冷やしたことがありました。
また、私が梅の花を愛でていると知ると、宮廷中の梅の木を、真冬にもかかわらず温室で咲かせるよう命じたこともありました。
第五章:安禄山の台頭
天宝年間に入り、一人の男が急速に台頭してきました。安禄山です。
安禄山は、粗野で野心家でしたが、不思議な魅力を持っていました。彼は私に対して「母」と呼びかけ、まるで可愛い子供のように振る舞いました。
「母上、このような珍しい品をお持ちしました」
安禄山は、しばしば珍しい品々を私に献上しました。シルクロードを通じて手に入れた宝石や香料、珍獣など、次々と珍しいものを持ってきました。
私も彼のことを可愛がり、玄宗皇帝に取り入るよう助力しました。安禄山は次第に重要な地位を得ていき、ついには三つの節度使を兼ねるまでになりました。
しかし、安禄山の野心は留まることを知りませんでした。彼は密かに兵力を増強し、反乱の機会を窺っていたのです。
第六章:没落と最期
天宝14年(755年)、ついに安禄山の反乱が勃発しました。
「貴妃様、安禄山が范陽で反乱を起こしました!」
この知らせを聞いた時、私の心は凍りつきました。自分が寵愛し、玄宗皇帝に推挙した男が、今や国家の敵となったのです。
反乱軍は次々と勝利を重ね、ついには長安にも迫ってきました。宮廷は混乱に包まれ、ついに長安からの脱出を余儀なくされました。
天宝15年(756年)7月。蜀への逃避行の途中、馬嵬坡で兵士たちが突然反乱を起こしました。
「楊貴妃を差し出せ!」
「楊氏一族が国を滅ぼした!」
兵士たちの怒号が、夏の空に響き渡りました。玄宗皇帝は苦渋の決断を迫られました。
「陛下、もはやこれまでのようです」
私は最後の別れの言葉を告げ、白い絹の紐を受け取りました。
最期の瞬間、私は自分の人生を振り返っていました。蜀の地で過ごした少女時代。寿王の妃となり、そして玄宗皇帝の寵愛を受けた日々。権力を手に入れ、それを行使した時の快感。そして、それらが招いた悲劇的な結末。
私の人生は、まさに栄華と没落の物語でした。美貌と才気で帝の寵愛を得、権力を手に入れた私。しかし、その権力の行使が、結果として国を混乱に陥れることになったのです。
最期の瞬間、私は思いました。もし、もう一度人生をやり直せるなら…。しかし、それは叶わぬ願いでした。
私、楊貴妃は、三十七年の生涯を、ここ馬嵬坡で終えることになりました。後世の人々は、私のことをどのように語り継ぐのでしょうか。
(了)